第27話 北の海が運ぶ縁 ――津軽の市、蝦夷の弓
(治承七年〈西暦1183年〉十月下旬・陸奥国津軽 外浜)
十月の津軽は、空が高い。
治承七年(1183年)十月下旬。
岩木山の紅葉は終わりかけ、海から吹く風が頬に痛いほど冷たい。外浜の砂は黒く、波は低くても重い音を立てていた。
義経が蝦夷から戻ってから、津軽は変わった。
浜には船が増え、荷が積まれ、煙が立つ。
干魚と塩、毛皮と鉄。
それまで“国の端”だった場所が、突然“入口”になった。
弁慶は浜の小屋の前で、荷の積み替えを見守っていた。
「……人が集まるのは早い」
その呟きは、喜びというより警戒に近い。
伊勢三郎が汗をぬぐいながら近づく。
「山から降りた者も、逃散農民も、口が軽いんです」
「“義経殿が守る”って言えば、来る」
弁慶は頷く。
「守ると口にした以上、守らねばならぬ」
彼女の声は低く、重かった。
その頃、義経は浜の先で、早風の背に跨り周囲を見渡していた。
「市を立てる」
義経の一言に、継信が驚く。
「市……ですか」
義経は淡々と言う。
「物が動けば、人が生きる」
「人が生きれば、兵も生きる」
忠信が笑う。
「主君、戦の話より商いが上手そうですな」
義経は真顔で返す。
「戦は金と米だ」
その言葉に、弁慶は苦笑した。
(京の公家が聞けば卒倒する)
だが現実だ。
津軽は寒い。
冬は長い。
交易がなければ、国は痩せる。
義経はさらに言った。
「蝦夷の者も呼ぶ」
弁慶が視線を向ける。
「揉め事が起きます」
義経は頷いた。
「だからこそ、我が前でやらせる」
市の日。
浜辺に、簡素な市が立った。
干魚、塩、鉄、毛皮、木器。
奥州の布も少し混じる。
津軽の者たちは目を輝かせ、蝦夷の者たちは無言で品を並べた。
言葉は通じにくい。
だが物は嘘をつかない。
弁慶は市の端で立ち、揉め事の芽を摘むように周囲を見ていた。
そこへ、騒ぎが起きる。
「盗んだ!」
津軽の男が怒鳴り、蝦夷の若者に掴みかかろうとする。
蝦夷の若者は身を引き、鋭い目で睨み返した。
その腰には短い刃。背には弓。
空気が一気に尖る。
弁慶は一歩前へ出た。
「手を離せ」
低い声。
男は反射的に止まる。
「だが――」
弁慶は視線を外さず言った。
「証はあるか」
男は言葉に詰まる。
蝦夷の若者が、短く何かを言った。
言葉は分からないが、怒りと屈辱が混じっている。
次の瞬間。
矢が、地面に突き立った。
――男の足元、寸分違わず。
誰もが凍りつく。
弓を放ったのは、蝦夷の若者ではない。
市の人波の奥から、一人の少女が現れた。
背は小さい。
だが姿勢がまっすぐで、目が澄んでいる。
皮衣の上に、粗い布を巻き、弓を背負っている。
弁慶は瞬時に察した。
(この子が、本物)
少女は弓を下ろし、淡々と口を開く。
「その男、盗んでない」
拙いが、確かに日本語だった。
周囲がざわめく。
継信が低く呟く。
「通詞がいらぬ……」
義経が人垣を割って現れ、少女を見た。
「名は」
少女は一瞬、義経を見上げる。
「ピリカ」
短く、誇りを含んだ声。
義経は頷く。
「なぜ日本語を」
ピリカは肩をすくめる。
「海の向こう、言葉、拾った」
弁慶は、その言い方に妙な可笑しさを覚えた。
(拾った、か)
ピリカは続ける。
「この市、好き」
「でも、喧嘩、嫌い」
そして男たちを見渡し、矢が刺さった地面を指差す。
「次、足じゃない」
凍りついていた津軽の男が、慌てて頭を下げた。
「すまん……」
弁慶が静かに言う。
「謝る相手が違う」
男は蝦夷の若者へ向き直り、ぎこちなく頭を下げた。
蝦夷の若者は少しだけ眉を動かし、何かを言って去っていく。
揉め事は収まった。
だが、場には別の熱が残る。
義経は、ピリカをじっと見ていた。
「弓が上手い」
ピリカは当然のように言う。
「当たり前」
忠信が吹き出しそうになり、継信に肘で止められる。
弁慶は目を細める。
(気の強さ、主に似てきたな)
夕刻、潮が満ちる。
市は片づけられ、浜に静けさが戻る。
義経はピリカを呼び止めた。
「お前、通詞ができるな」
ピリカは首をかしげる。
「少し」
義経は言った。
「少しで足りる」
弁慶が横から口を挟む。
「主、軽々しく人を抱えぬ方がよろしい」
義経は弁慶を見て、少しだけ笑った。
「弁慶も最初は鬼だった」
弁慶はむっとする。
「主君」
ピリカが興味深そうに言う。
「鬼?」
義経は指で弁慶を示す。
「昔、鬼面を――」
弁慶が咳払いをして遮る。
「余計なことは」
ピリカが小さく笑う。
「面白い」
義経は真顔に戻り、ピリカに向き直った。
「津軽に残れ」
「市を守る」
「海の向こうとも繋げる」
ピリカはすぐには答えなかった。
海を見て、風を嗅いで、そして義経を見る。
「あなた、嘘つかない顔」
弁慶の胸がわずかに動く。
ピリカは続ける。
「私は弓で守る」
義経は頷いた。
「ならば、名を与える」
ピリカは目を丸くする。
「名?」
義経は言った。
「鷲尾三郎」
忠信が思わず口を挟む。
「主君、女の子に“三郎”は……」
義経は即答した。
「武士だからだ」
弁慶が小さく笑う。
「男装させるおつもりで?」
義経は淡々と言う。
「そうだ」
ピリカは腕を組み、少しだけ得意げに頷いた。
「わかった。三郎」
その言い方が妙に堂々としていて、弁慶は笑いを堪えるのに苦労した。
夜。
弁慶は浜の端で、波音を聞いていた。
市が立ち、人が集まり、争いの芽も生まれる。
だがそれは、“生きている証”でもある。
義経が隣に来た。
「弁慶」
「はい」
「津軽は、もう戻れぬ」
弁慶はうなずく。
「ここは、主の国です」
義経は海を見つめる。
「北の海が、縁を運んだ」
弁慶も同じ海を見る。
(弁丸に似た少年を抱いたあの日から、ここまで来た)
治承七年(1183年)十月下旬。
津軽の浜に市が立ち、蝦夷の弓が一つの争いを止めた。
そして義経は、ピリカ――鷲尾三郎を得る。
北の国は、さらに強く、さらに広くなっていく。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承七年(西暦1183年)十月下旬、津軽外浜に市を立つ。
蝦夷の者ら来たり、毛皮・鉄など交易盛んとなる。
市にて争い起こりかけるも、蝦夷の少女ピリカ、矢一つにて鎮む。
義経殿、ピリカを召し抱え、「鷲尾三郎」の名を与え給う。
女に三郎と皆驚くも、主は「武士だから」と揺るがず。
北の海、縁を運ぶ。津軽、さらに生きた地となる。




