第26話 北海の向こうへ ――蝦夷渡航、弁慶はじめての船酔い
(治承七年〈西暦1183年〉十月初旬・陸奥国津軽~蝦夷地)
十月の津軽は、すでに冬の気配を孕んでいた。
治承七年(1183年)十月初旬。
岩木山の裾は赤く染まり、空気は鋭く澄み、遠く日本海が青黒く光っている。
源九郎義経は浜辺に立ち、沖を見つめていた。
その視線の先には、小さな船団。
津軽の漁民から借り受け、改装した外洋船である。
弁慶はその隣に立ち、腕を組む。
「海……」
低く、どこか不機嫌そうな声。
義経は微笑した。
「弁慶、海は初めてか」
弁慶は即答しない。
比叡山で修行し、京で戦い、津軽で土を耕した。
だが海に乗るのは、これが初めてだった。
「……山の者でございますから」
伊勢三郎が笑う。
「山は揺れぬが、海は揺れますぞ」
忠信も冗談めかして言う。
「武蔵坊殿が酔う姿は、想像できませぬな」
弁慶はむっとするが、何も言わない。
義経が蝦夷渡航を決めたのは、理由がある。
津軽は耕し始めたばかり。
だが寒冷地ゆえ、穀物だけでは弱い。
「蝦夷と交易する」
火を囲んだ夜、義経はそう言った。
継信が問う。
「何を求める」
義経は指折り数える。
「毛皮、鉄、良馬」
弁慶が補足する。
「干魚、昆布もございます」
伊勢三郎が驚く。
「昆布?」
弁慶はうなずく。
「京では出汁に使う」
忠信が笑う。
「京の公家が喜ぶ味か」
義経は静かに言った。
「武は腹から始まる」
その一言で、渡航は決まった。
船は静かに出航する。
波は穏やかだが、日本海は広い。
浜を離れた瞬間、弁慶の顔色が変わった。
「……」
伊勢三郎が小声で言う。
「武蔵坊殿、青い」
弁慶は黙ったまま、船縁を握る。
揺れ。
潮の匂い。
胃がひっくり返る。
忠信が肩を震わせる。
「無双の尼僧が」
継信が睨む。
「笑うな」
義経は近づき、静かに言う。
「無理をするな」
弁慶は低く答える。
「……大丈夫にございます」
その直後、船縁に身を預けた。
海は容赦ない。
だが義経は笑わない。
「初めての海だ。揺れて当然だ」
その言葉に、弁慶は少しだけ肩の力を抜いた。
半日後。
蝦夷の海岸が見える。
深い森。
広い浜。
浜辺には、見慣れぬ装束の者たちが立っていた。
皮衣。
長い弓。
蝦夷の人々である。
義経は船を降り、土を踏む。
空気が違う。
弁慶も揺れる足取りで降り立つ。
「地面が……揺れておらぬ」
忠信が笑う。
伊勢三郎は真剣な顔だ。
「ここが蝦夷」
蝦夷の長が現れる。
名を、アシリカムイ。
義経は礼を尽くす。
「源九郎義経」
通詞を介して言葉を交わす。
最初は緊張が走る。
だが弁慶が持参した干魚と塩を差し出すと、空気が変わった。
蝦夷の者は、代わりに毛皮と鉄器を示す。
交易が始まる。
義経は浜辺に広がる馬を見つめた。
「良い馬だ」
継信も目を細める。
「平泉にも劣らぬ」
弁慶はゆっくりと歩み寄る。
馬は静かに彼女を見つめる。
「寒地に強い」
義経はうなずいた。
「津軽に必要だ」
夜。
焚火を囲み、蝦夷の歌が響く。
異なる言葉、異なる旋律。
だが火を囲む輪は同じ。
弁慶は海を見つめる。
「海の向こうにも、国がある」
義経が隣に座る。
「津軽は端ではない」
「北へ開ける」
弁慶は主を見つめる。
その目には、戦場とは違う光がある。
「主は、どこまで行かれる」
義経は静かに答えた。
「届くところまで」
その言葉に、北の風が吹く。
翌朝。
交易は成立した。
毛皮、鉄、馬。
代わりに塩、干魚、穀物。
義経は最後に浜を振り返る。
蝦夷の子どもが手を振っている。
弁慶は小さく笑った。
「海も悪くはない」
忠信が言う。
「昨日は死にそうでしたな」
弁慶は睨む。
「次は酔わぬ」
義経は微笑した。
治承七年(1183年)十月。
源九郎義経、蝦夷と通じる。
津軽は海を得た。
北の国は、内へ閉じるのではなく、外へ開き始めていた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承七年(西暦1183年)十月、蝦夷へ渡る。
海、初めてなり。揺れに耐えきれず、面目なし。
されど交易成立す。毛皮、鉄、良馬を得る。
主、「津軽は端にあらず、北へ開ける」と申す。
山の尼、海を知る。
主の志、さらに広し。




