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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第25話 北に灯る国 ――八百の影、三百の弓

(治承七年〈西暦1183年〉九月下旬・陸奥国津軽 岩木山麓)

津軽の空は、京とも鎌倉とも違う。

治承七年(1183年)九月下旬。

岩木山の頂はすでに秋色に染まり、朝霧が湿った土の匂いを運んでいた。

源九郎義経は丘の上から、新しく開かれた畑を見下ろしている。

その傍らには、栗毛の愛馬・早風。静かに鼻を鳴らしていた。

八百。

もとは山賊と呼ばれた男たちの数。

だが義経の視線は、彼らの背後にある“空白”を見ていた。

「家族は」

短い問いを、伊勢三郎に向ける。

伊勢三郎は、かすかに目を伏せた。

「山に残しております。女や子は……まだ人を信じぬ」

義経はうなずいた。

「呼べ」

その一言は、命令というより宣言だった。

弁慶は主の横顔を見つめる。

そこに迷いはない。

「兵だけでは地は守れぬ」

義経はゆっくりと言葉を継ぐ。

「家族がいれば、根が張る」

伊勢三郎の喉が鳴った。

「……よろしいのか」

「我が守る」

その声は静かで、揺らがない。


数日後、岩木山の山道に細い列が現れた。

女たち。

幼子。

老人。

粗末な衣、痩せた頬。

その目は怯えと疑念に満ちている。

弁慶は大きな体で一歩前に出るが、あえて武威を抑えた。

「ここは奪わぬ地だ」

低く、穏やかな声。

義経も馬を降り、土に立つ。

「耕せば、ここはお前たちの地になる」

一人の若い母親が震えた声で問う。

「また、年貢で奪われぬのか」

義経は即答しなかった。

しばし考え、はっきりと言う。

「奪わせぬ」

その一言に、場の空気がわずかに変わる。


噂は広がった。

「源氏の若殿が、山の者を許した」

「耕せば守ると言う」

津軽周辺の逃散農民――年貢から逃げ、山に隠れた者たちも、少しずつ姿を現した。

最初は十人。

やがて五十。

さらに百。

一月足らずで、人数は膨れあがる。

八百の元山賊。

その家族。

逃散農民。

二千四百。

津軽の荒地に、新たな集落が形を成した。


だが義経は、数に酔わない。

ある夕刻、家臣を集める。

弁慶、佐藤継信、忠信、伊勢三郎。

火を囲み、義経は静かに問う。

「兵にできるのは何人だ」

継信が計算する。

「壮年を選べば三百」

忠信が補足する。

「弓を扱える者が多い。山で狩りをしていた」

義経はうなずく。

「三百でよい」

伊勢三郎が驚く。

「少なくはないか」

義経は首を振る。

「守るのは、土だ」

弁慶の胸がわずかに熱を帯びる。

義経は続けた。

「二千四百のうち、三百を弓兵にする」

「残りは耕せ」

「腹が満ちれば、兵は逃げぬ」

その言葉に、伊勢三郎は深く息を吐いた。

「山では、奪うしかなかった」

義経は静かに言う。

「ここでは、育てる」


弓の音が響きはじめる。

三百の男たちが、津軽の丘に並ぶ。

継信が姿勢を正し、忠信が矢筋を見極める。

「引け」

弦が鳴る。

放たれた矢は、乾いた音を立てて的に突き刺さる。

山育ちの目は鋭い。

弁慶はその様子を見守る。

(数ではない)

三百で十分だ。

地形を知り、山を読み、風を読む弓兵。

平地の騎馬武者とは違う強さ。


一方、畑では女たちが麦を蒔き、子らが水を運ぶ。

伊勢三郎は水路を巡回し、堰を補強する。

弁慶は土の湿りを確かめる。

「水は足りる」

彼女の声は確信に満ちていた。

義経は早風に跨り、丘を駆ける。

その視線は、戦場ではなく、暮らしへ向けられている。


夜。

月が新田を照らす。

子どもの笑い声が、風に乗る。

弁慶は堂の前で読経を終え、外へ出た。

義経が早風の手入れをしている。

「主」

弁慶が呼ぶ。

義経は顔を上げる。

「二千四百か」

その声には、驚きより責任が宿る。

「守らねばならぬ」

弁慶は深くうなずく。

「三百の弓があれば、守れます」

義経は空を見上げる。

「頼朝殿が動けば、北も無関係ではいられぬ」

その言葉に、秋風が応える。

治承七年(1183年)九月末。

源九郎義経、八百を核に二千四百の民を集める。

三百の弓兵。

残りは土を耕す者。

津軽は、ただの隠れ地ではなくなった。

ここに、小さな国の灯がともった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承七年(西暦1183年)九月下旬、津軽に民集う。

八百の元山の者、その家族、逃散農民あわせ二千四百となる。

主、兵は三百にて足ると申す。

皆、弓を持たせ、残りは土を耕させる。

奪う地より、育てる地へ。

子らの声、久しく聞かぬ温もりなり。

我が主、剣よりも先に土を選ぶ。

北の地、静かに国の形を成し始める。

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