第20話 北へ駆ける風 ――名馬を求めて奥州へ
(治承七年〈西暦1183年〉三月・武蔵国~奥州路)
武蔵の春は、まだ浅い。
治承七年(1183年)三月。
裏山の寺の梅が、ようやく白くほころび始めた頃だった。
義経は、馬場に立っていた。
坂東の地は、広い。
低い丘陵と平野が続き、馬を走らせるには良いが、戦で勝つには“ただの馬”では足りぬ。
義経は、汗をかく馬の首を撫でながら、静かに呟いた。
「足りぬ」
弁慶は、その横顔を見る。
「何が」
義経は、馬の息遣いを聞きながら言う。
「速さだ」
「風を切る馬が欲しい」
坂東武者の戦は、力と数。
だが義経の戦は、違う。
速さ。
奇襲。
駆け抜ける剣。
弁慶は腕を組む。
「坂東にも名馬はおります」
義経は首を振る。
「北だ」
その目は遠い。
「奥州には、良い馬がいると聞く」
弁慶の胸が動く。
奥州。
藤原秀衡。
源氏にとって、頼朝とは別の縁。
その夜、和田義盛の館。
火を囲み、義経は正面に座った。
義盛は酒を飲み、義経の話を聞く。
「奥州へ?」
低い声。
義経は頷く。
「はい」
「馬を求めに」
館の武士たちが顔を見合わせる。
坂東武者の発想ではない。
義盛はじっと義経を見つめる。
「戦は、馬で決まると思うか」
義経は迷わない。
「決まります」
「速さは、兵を活かす」
その言葉に、義盛の目が光る。
「面白い」
義盛は杯を置いた。
「頼朝殿には伝えたか」
義経は一瞬、言葉を選ぶ。
「いずれ」
義盛は苦笑する。
「兄を出し抜く気か」
「出し抜くつもりはありません」
義経の声は静かだ。
「源氏が勝つために、必要なものを揃えるだけ」
義盛は、しばし黙る。
やがて立ち上がり、奥から文机を持ってこさせた。
「藤原秀衡殿に、書状を書く」
弁慶の目がわずかに揺れる。
義盛は筆を取り、力強く書き始めた。
「秀衡殿は、奥州の王だ」
「京とも坂東とも距離を保つ」
「だが、義朝公に恩がある」
義経は静かに聞く。
義盛は筆を置き、文を畳む。
「この書状を持て」
「義経という名を、奥州に刻んでこい」
その言葉に、弁慶の胸が熱くなる。
義経は深く頭を下げた。
「必ず」
翌朝。
裏山の寺。
三つの墓の前。
義経は静かに立つ。
弁慶は後ろで見守る。
義経は、墓石に手を置いた。
「義慶殿」
「弁丸」
風が吹く。
「強くなります」
その声は、静かだが揺るがない。
弁慶は、胸に手を当てる。
(行くのだな)
義経は振り返る。
「弁慶」
「は」
「共に来るか」
その問いに、迷いはない。
弁慶は即座に膝をつく。
「終生」
義経は、わずかに笑う。
「重い言葉だ」
「覚悟の重さです」
春の光が差す。
出立の日。
武蔵の空は晴れていた。
義盛は門前に立ち、義経を見送る。
「北は遠い」
「道は険しい」
義経は馬に跨る。
「承知」
義盛は弁慶を見る。
「静」
久しぶりの呼び名。
弁慶は頭を下げる。
「義父上」
「守れ」
一言。
弁慶は深く頷く。
「命に代えても」
義盛は、ふっと笑う。
「それはもう聞いた」
坂東武者らしい不器用な情。
街道。
北へ。
常陸、下野、陸奥へ続く奥州路。
春の野はまだ寒く、風は鋭い。
義経は馬を進めながら言う。
「弁慶」
「は」
「奥州は、どんな地だ」
弁慶は、比叡山で聞いた話を思い出す。
「金が出ると」
「黄金の都、平泉」
義経の目が光る。
「黄金より、馬だ」
その声に、少年の熱が戻る。
弁慶は、思わず笑った。
「馬の趣味にございますな」
義経は真顔で答える。
「戦は趣味ではない」
その言葉に、弁慶は背筋を伸ばす。
夜、野営。
焚き火を囲み、義経は書状を取り出す。
和田義盛の筆跡。
力強い。
「藤原秀衡殿」
義経は呟く。
「いずれ、頼朝とも違う縁になるやもしれぬ」
弁慶は火を見つめる。
奥州は、源氏にとって避難の地。
だが同時に、力を蓄える地。
義経は、火に照らされた弁慶を見る。
「寒くないか」
弁慶は首を振る。
「比叡山に比べれば」
義経は微笑する。
「ならば、北も越えられるな」
風が鳴る。
治承七年(1183年)三月。
源九郎義経、奥州へ向かう。
名馬を求めて。
だがそれは、馬だけではない。
力。
縁。
そして未来。
北へ吹く風が、二人を押していた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承七年(西暦1183年)三月、義経殿、奥州へ赴く決意を示す。
名馬を求めると。
和田義盛公、藤原秀衡殿への書状を認め給う。
三つの墓前にて「強くなる」と誓う義経殿の姿、忘れ難し。
我、終生共にと答う。
北へ向かう奥州路、風冷たし。
されど主の志、熱し。
馬を求むる旅は、やがて戦を変えるやもしれぬ。




