第2話 熊野の祝言、そして“家”になった夜
(治承三年・西暦1179年 春)
熊野の春は、都の春と違う。
桜は咲く。だが、花の香りより先に、杉と土と潮の匂いが鼻に来る。山は湿り、風は冷え、神域の空気はどこまでも張りつめている。
――だからこそ、誓いが重い。
祝言の朝。
熊野別当・湛増の館は、夜明けから人が動いていた。
湯を沸かす者。
酒を運ぶ者。
塩を盛る者。
神前に供える白米を研ぐ者。
「……落ち着かんな」
和田義慶は、縁側で膝を抱え、珍しくそわそわしていた。
七尺近い大男が、落ち着かないと、ただの“でかい熊”に見える。家臣が何度か目を合わせかけて、慌てて逸らすくらいだ。
その横で、父・義盛が腕を組み、にやにやしている。
「おい義慶」
「はい」
「戦の前より緊張してるぞ」
「……父上、茶化さないでください」
「茶化すさ。お前、平家の郎党百を前にしても眉ひとつ動かさんくせに」
「それとこれとは……違います」
義盛は声を立てて笑った。
「よしよし。そういうのが“人間らしい”ってやつだ」
義慶は苦笑しながらも、胸の奥が熱い。
戦なら、勝つか負けるか。死ぬか生きるか。
だが祝言は、もう少し厄介だ。相手の心を壊さず、自分の心も隠さずに、同じ屋根の下で暮らす――それは刀では測れない。
「……義慶殿」
声がした。
振り向くと、熊野の女房が一人、控えめに頭を下げる。
「花嫁支度、整いました。……お呼びです」
義慶は、背筋を伸ばした。
「……はい」
義盛が背を叩く。
「行ってこい。熊野の神前で“逃げる”はないぞ」
「逃げません」
「よし。坂東武者らしい返事だ」
社殿の前。
白い幣が揺れ、鈴の音が、春の湿った空気を震わせた。
神前に立つ静――いや、今日からは“花嫁”の静は、白と薄紅の衣に身を包み、顔を伏せている。
その背丈の高さは隠せない。だが、そこに“威圧”はなかった。むしろ、凛とした一本の木のようで、見ている者の背筋が伸びる。
義慶は、静の横に並ぶ。
湛増が、前に進み出た。
「和田義盛殿」
「はっ」
「熊野は起請の地。誓いは神に聞かせ、神に裁かれる」
義盛が笑いを消し、真顔になる。
「承知」
湛増は、義慶を見た。
「義慶殿。娘・静を娶り、守り、偽りなく共に生きると誓えるか」
義慶は、腹の底から声を出した。
「誓います」
「静。和田義慶殿に従い、共に生き、共に守り、偽りなき縁を結ぶと誓えるか」
静は、顔を上げた。
その瞳は、揺れていない。
ただ、どこか濡れている。
「……誓います」
鈴が鳴った。
盃が運ばれる。
三献。
夫婦の杯。
義慶は、盃を受け、静を見た。
静は、盃を受け、義慶を見た。
目が合う。
それだけで、胸が苦しくなるほどだ。
「……これで、夫婦ですな」
義盛が、ずい、と前へ出て笑った。
「別当殿。あとは“宴”です。熊野の酒、うちの坂東武者に飲ませてください」
湛増は、ふっと口元を緩めた。
「……熊野の酒は強い。坂東者でも倒れるぞ」
「倒れるのも、武士の修行です」
「修行の意味が違う」
周りが笑い、張り詰めていた空気が少し緩む。
静は、ほんの小さく笑った。
義慶は、その笑顔を見て、喉の奥が熱くなった。
――この人を、守りたい。
そう思うのに理由はいらない。
宴は、熊野らしく“豪快”だった。
焼いた山鳥。
熊野灘の魚。
木の葉味噌。
山の茸。
塩を効かせた粥。
「うまい!」
「これ、都の料理より強いぞ!」
坂東武者たちが、すぐに盛り上がる。
熊野の者も負けず、笑い、酒を注ぐ。
義盛が、義慶の肩を抱いて大声で言った。
「おい義慶!」
「……はい」
「嫁さん、めちゃくちゃ美人だな!」
「父上……いま言いますか、それ」
「いま言うんだよ! 祝言だぞ!」
静は、少し頬を赤くし、しかし目を逸らさず言う。
「義盛殿。……お褒めに預かり、恐れ入ります」
義盛は目を丸くして笑った。
「いいな! 熊野の娘、肝が据わってる!」
湛増が横から、ぼそっと言う。
「娘は肝が据わっている。問題は婿の方だ」
義盛が爆笑した。
「別当殿、それ言っちゃいます? うちの婿、でかいだけで中身は――」
「父上」
義慶が、低い声で止める。
「……その先は、殺します」
「おお怖い怖い。静殿、これが坂東の愛情表現です」
「……よく分かりました」
静が言って、少し笑った。
義慶は、静の笑いに救われる。
この人は、強い。
けれど――その強さが“寂しさ”の裏返しだと、義慶は分かってしまった。
夜。
宴が落ち着き、人が引いていく。
熊野の森は闇が深い。灯りが消えれば、世界が黒一色になる。
義慶と静は、館の奥の部屋に案内された。
「……ここが、今宵の部屋です」
女房が言って、下がる。
扉が閉まった。
二人きり。
――静けさが、急に重くなる。
義慶は、座ったまま、手を膝に置いた。
戦場なら、どう動けばいいか分かる。
だが、ここは戦場ではない。
静が、そっと口を開いた。
「……義慶殿」
「はい」
「怖いですか」
義慶は、正直に答えた。
「怖い」
静の目が少し揺れる。
「……私もです」
義慶は、息を吐いた。
「俺はでかい。力もある。……だから、あなたを怖がらせたくない」
静は首を振った。
「私は、力が怖いのではありません」
「“捨てられる”のが怖い」
その言葉が、胸に刺さる。
でかい女、強い女。
貰い手がない。
笑われる。怖がられる。
――そうして、自分の価値を疑ってきたのだ。
義慶は、静の前に膝をついた。
「捨てない」
静が、目を見開く。
義慶は、言葉を重ねる。
「俺は、坂東武者だ。嘘は嫌いだ」
「今日、神前で誓った。……誓いを破ったら、熊野の神罰が下るんだろ」
静が、ふっと笑ってしまう。
「……そこは、現実的ですね」
「現実的な方が、信用できる」
義慶は、真面目に言った。
静は、少し泣きそうな顔になった。
「……義慶殿」
「はい」
「私、あなたに――“可愛げ”を見せられるか分かりません」
義慶は、静の手を取った。
「可愛げってのは、弱さを見せることじゃない」
「一緒に笑うことだ」
静の手は、ひんやりしていた。
けれど、握れば確かに生きている。
義慶は続ける。
「……俺、武蔵の馬が好きなんです。荒いけど、慣れたら忠実で」
静が、きょとんとする。
「馬……?」
「はい。熊野の山道も、馬が頑張ってくれた。だから、馬を撫でるのが趣味みたいなもんで」
静が、くすっと笑った。
「武士の趣味が、馬撫で……」
「笑いましたね」
「……はい」
静の頬が緩む。
義慶は、その笑顔を見て、胸がほどけた。
「静殿の趣味は」
静は少し考え、答える。
「……読経です」
「硬いな」
「熊野の娘ですから」
「じゃあ、俺は馬を撫でて、あなたは経を読む。……変な夫婦だな」
静が、今度はちゃんと笑った。
「……変でも、よいです」
その言葉が、義慶の胸を満たした。
翌朝。
熊野の森に、薄い光が差す。
鳥が鳴き、遠くで水が流れる音。
義盛が、廊下で腕を組んで待っていた。顔がやたらニヤニヤしている。
「おーい義慶」
義慶が出てくると、義盛は肩を叩いた。
「どうだ。夫婦になった気分は」
「父上……」
「言え言え」
義慶は、少しだけ目を逸らして言った。
「……家が、できました」
義盛は一瞬、笑いを止めて――
「そうか」
とだけ言った。
それが、父の祝福だった。
静が後ろから出てくる。
義盛が、珍しく丁寧に頭を下げた。
「静殿。息子を頼む」
静は、まっすぐに答えた。
「はい。……こちらこそ」
湛増がその様子を見て、ぼそっと言う。
「坂東者が頭を下げるとは、熊野の神も驚く」
義盛が笑い、静も笑い、義慶も苦笑する。
春の熊野で、二人は“夫婦”になった。
そして、ほんの少しだけ――
未来を信じられるようになった。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承三年(西暦1179年)春、熊野にて祝言を挙ぐ。
熊野は起請の地、誓いは神前に重く置かる。
和田義慶殿、武蔵の武士らしく実直にして、我を見て笑わず、恐れず、ただ守ると申す。
父・湛増、表には厳しくあれど、杯を交わす背に安堵の影あり。
宴の席にて義盛殿、坂東武者らしく声大きく、場を明るくする。
夜、義慶殿は「家ができた」と呟き、我は胸の奥が熱くなり、涙こぼれそうになるを堪えたり。
熊野の春は冷える。されど今宵、我が心は温かい。
ただ――この温かさが、永く続けばと願う。




