第18話 伊豆の兄 ――冷たい海と源氏の現実
(治承七年〈西暦1183年〉正月・伊豆国 蛭ヶ小島)
年が改まった。
治承七年(1183年)正月。
伊豆の海は、冬の色をしていた。
灰色の波が岩を叩き、冷たい潮風が浜を渡る。京の雅とは無縁の荒々しさ。だがこの地こそ、源氏再興の火がくすぶる場所である。
蛭ヶ小島。
流人として伊豆に配されていた源頼朝が、いまは坂東武士をまとめる拠点としている地。
源九郎義経は、浜辺に立ち、その陣を見つめていた。
粗末な柵、質実な館。
だがそこに集う武士たちの目は、鋭い。
坂東武者。
彼らは京の公家とは違う。
実直で、荒く、疑い深い。
弁慶はその空気を感じ取る。
(ここは、甘くない)
義経は静かに言った。
「兄上に、会う」
声は落ち着いているが、その胸の内は弁慶にも伝わる。
父を知らぬ子。
次は、兄。
館の中。
頼朝は座していた。
年は三十を越え、目は細く、静かだ。
派手さはない。だが周囲の武士が自然と距離を取る。
その場の空気を、頼朝が支配している。
義経が進み出る。
「源九郎義経、参上」
その声はよく通る。
頼朝はしばし無言で義経を見つめた。
血を感じる顔立ち。
だが、共に育った記憶はない。
頼朝は、ゆっくりと口を開いた。
「……牛若か」
その呼び方に、義経の眉がわずかに動く。
頼朝は続ける。
「元服したと聞く」
「はい」
義経はまっすぐ答える。
「義経と名乗ります」
頼朝は目を細める。
「父の“義”を継いだか」
その声には感情が読みにくい。
義経は膝をついた。
「父上の志を継ぎたく」
頼朝は、わずかに視線を逸らした。
父・義朝。
敗北。
流転。
頼朝にとっても、傷である。
「志は、口で言うものではない」
短い言葉。
館の空気が重くなる。
弁慶は、背後でその緊張を感じる。
頼朝は続けた。
「坂東は京とは違う」
「甘い情では動かぬ」
義経は顔を上げる。
その目に、恐れはない。
「承知の上です」
頼朝は一瞬だけ、その目を見返す。
似ている。
義朝の目に。
だが同時に、若い。
頼朝は静かに言った。
「今は、挙兵の時ではない」
「平家の目は鋭い」
「軽率に動けば、源氏はまた滅ぶ」
その現実は、重い。
義経は黙して聞く。
頼朝は視線を弁慶へ移した。
「……そなたは」
弁慶は進み出て、深く頭を下げる。
「武蔵坊弁慶。義経殿の家臣」
頼朝はその巨体を見上げる。
「坊主か」
「尼僧より武を学びました」
頼朝は、わずかに口元を歪める。
「変わり者が集まるものだ」
館の武士たちが、低く笑う。
だが嘲りではない。
興味だ。
頼朝は再び義経へ目を戻す。
「いずれ時が来れば、呼ぶ」
その言葉は、約束ではない。
保留だ。
義経は深く頭を下げた。
「お待ちいたします」
その姿勢に、頼朝の目がわずかに揺れる。
だが感情は表に出ない。
「今日は休め」
「伊豆の冬は厳しい」
それが、兄の精一杯の情かもしれない。
館を出ると、潮風が強く吹いた。
義経は、しばらく海を見つめた。
弁慶は隣に立つ。
「冷たいな」
義経が呟く。
海のことか、兄のことか。
弁慶は答えない。
義経は続ける。
「兄上は、強い」
「だが……遠い」
その言葉に、弁慶は静かに頷く。
頼朝は孤独だ。
流人として十数年を耐え、疑いと策の中で生き延びた男。
情よりも、計を優先する。
義経は拳を握る。
「それでも、源氏は一つ」
弁慶は言う。
「いずれ、共に戦う日が来ましょう」
義経は微かに笑う。
「その時まで、強くなる」
潮風が髪を揺らす。
その夜。
義経は寝所で目を閉じたが、すぐに開いた。
「弁慶」
呼ぶ声は、少年に戻る。
弁慶はすぐに応じる。
「は」
義経は天井を見つめたまま言った。
「兄上は、俺を必要とするか」
その問いは、子のものだ。
弁慶は少し考え、答えた。
「時が来れば」
義経は苦笑する。
「時、か」
弁慶は火を見つめる。
「義経殿」
「兄上は、慎重な方」
「だがあなたの目を見ました」
「見抜いております」
義経は沈黙する。
やがて、目を閉じた。
「ならば、証明する」
その声は低い。
(兄に、父に、そして自分に)
弁慶は静かに胸に手を当てる。
(守る)
治承七年(1183年)正月。
伊豆の海は冷たい。
だがその奥で、源氏の火は確かに燃えていた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承七年(西暦1183年)正月、伊豆蛭ヶ小島にて頼朝公に拝謁。
義経殿、兄に対し堂々と名乗る。
頼朝公、慎重にして冷静。情を表に出さず。
今は挙兵の時にあらずと諭される。
義経殿、兄の背に遠さを感じつつも、源氏は一つと誓う。
我は傍らにありて、その覚悟を見届ける。
海冷たし。
されど火は消えず。




