第17話 野間の闇、父の名、母の涙 ――義朝供養
(治承六年〈西暦1182年〉十二月・尾張国 野間)
十二月の東海道は、骨に染みる。
木枯らしが街道の松を鳴らし、旅人の吐く息は白い。
近江を出て、伊勢路を横に見ながら南へ下り、尾張へ入るころには、義経の指先はかじかんでいた。
それでも義経は、歩みを止めなかった。
目的地は野間。
父・源義朝が、最期を迎えた場所だ。
弁慶は、背後から主君の背を見つめる。
烏帽子を戴いた義経の姿は凛としているが、肩の線はどこか硬い。胸の奥に、言葉にならないものを抱えている。
(父上を、見に来たのだ)
父を覚えていない子が、父の死地を目指す。
それは武士の道というより、子の道だ。
野間の里は、冬枯れしていた。
海が近い。潮の匂いが混じり、風がさらに冷たい。
村は静かで、旅人の姿も少ない。戦の噂はまだ遠いが、世の不穏は農民の表情にも影を落としていた。
弁慶は、宿の老人に尋ね、義朝の供養塔へ案内される。
小さな塚。
粗末な石。
苔がつき、草が枯れている。
派手なものは何もない。
義経はその前に立ち、しばらく動かなかった。
風が吹き、烏帽子の紐が揺れる。
弁慶は少し距離を取った。
主君の“子の時間”を、邪魔してはならない。
やがて義経は膝をついた。
手を合わせる。
だが読経の言葉は出ない。
義経の唇がわずかに動く。
「……父上」
声が、掠れていた。
この一言に、全てが詰まっている。
父を知らない。
顔も、声も、抱かれた記憶もない。
それでも血は、そこへ向かわせる。
義経は石に触れた。
冷たい。
「私は、父上の子か」
風に問うような声。
弁慶は胸が痛む。
義経は続ける。
「平治の乱」
「敗北」
「逃亡」
「そして、ここ」
言葉は史実として知っている。
だが今、義経の口から出るそれは“伝聞”ではなく“傷”だった。
義経は目を閉じた。
「父上は、どんな気持ちで死んだ」
弁慶は一歩進み、膝をついた。
「義朝公は、最後まで源氏であったと聞きます」
弁慶の声は静かだ。
説教ではない。寄り添う言葉。
義経は目を開け、弁慶を見上げた。
その目に、怒りはない。
ただ、飢えがある。
“父を知りたい”という飢え。
弁慶は続ける。
「坂東武士は、義朝公の名を誇りとしております」
「そして今、あなたがその名を継いでいる」
義経は石を見つめる。
「名だけだ」
「俺は、まだ何もしていない」
弁慶は首を振る。
「名は、始まりです」
「あなたは、ここへ来た」
「逃げずに」
その言葉が、義経の胸に刺さる。
義経は、息を吐いた。
「……母上」
その名を出した瞬間、義経の声が幼くなる。
弁慶の胸も疼く。
常磐御前。
義経の母であり、弁慶が出会った“もう一人の母”。
義経は呟く。
「母上は、父上を愛していたのか」
弁慶は答えに迷う。
だが、迷っても答える。
「愛していたでしょう」
「だから生き延びた」
義経の肩がわずかに震えた。
「生き延びるために、平家に頭を下げた」
「それでも、源氏の子を産んだ」
弁慶は静かに頷く。
「母は、強い」
義経は目を閉じ、石に額を寄せた。
「父上……」
その声が、風に消えそうになる。
弁慶はそっと、義経の背に手を置いた。
支えるためではない。
そこにいると伝えるため。
義経の背は、まだ細い。
だが背筋は折れていない。
供養を終え、宿へ戻る道すがら、雪が舞い始めた。
小さな雪片が、義経の肩に落ち、溶ける。
義経はふと足を止め、言った。
「弁慶」
弁慶は答える。
「は」
義経の声は低い。
「俺は、父上の仇を討つ」
その言葉は決意だ。
だが、相手は一人ではない。時代だ。
弁慶はゆっくりと頷く。
「その道は険しい」
「平家だけではない」
「源氏の中にも、争いはある」
義経は目を細める。
「それでも」
弁慶は、もう止めない。
止める資格などない。
弁慶は言った。
「ならば、強くなりましょう」
「武も、心も」
義経は微かに笑った。
「そなたが言うと、説得力がある」
雪が舞う。
宿の灯が見え始める。
その夜。
湯浴みの支度をする弁慶は、ふと胸を押さえた。
冷えた身体が温まると、胸の奥が疼く。
(……また)
比叡山で気づいた“母の名残”。
弁慶は息を止め、衣をほどく。
湯気の中、胸を押すと――
ほんの僅か、乳が滲んだ。
弁慶は目を閉じた。
(弁丸……)
声にならない声が喉に詰まる。
だが、泣かない。
義経が隣の部屋で眠っている。
主君の前で崩れてはいけない。
弁慶は湯に沈み、静かに祈った。
(私は母だ)
(だから守る)
湯気の向こうで、雪の音がした。
治承六年(1182年)十二月。
義経は父を供養し、弁慶は母性を痛みとして抱え直す。
二人は、さらに東へ向かう。
源氏の運命へ。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)十二月、尾張国野間に至り、義朝公の塚にて供養す。
義経殿、父を知らずして父を慕い、石に手を当てて問う。
「我は父の子か」と。
我は答う。名を継ぐは始まりなり、と。
雪舞う道、義経殿「仇を討つ」と誓う。
夜、湯浴みの折、我が胸より僅かに乳滲む。
母の名残、消えず。
泣かぬ。守る。
我は家臣にして母。
義経殿の背を、終生守る。




