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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第15話 烏帽子の朝 ――牛若、義経となる

(治承六年〈西暦1182年〉十月下旬・近江国竜王)

近江の秋は、澄みきっていた。

琵琶湖から吹く風は冷たく、空は高く、雲は細い。

治承六年(1182年)十月下旬。京を発った牛若丸と弁慶は、近江国竜王の地にあった。

ここは湖東と東山道を結ぶ要衝。坂東へ向かう武士や商人が必ず通る地である。源氏の血を引く少年が、ここで元服を迎えるのは象徴的だった。

宿所は簡素だが、清められていた。

常磐御前から託された烏帽子と直垂が、床の間に置かれている。

弁慶は、それを見つめていた。

(いよいよ)

鬼として橋に立った夜から、まだ月日は浅い。

だが道は、すでに源氏の旗へ向いている。


夜明け前。

薄闇の中、牛若は一人で庭に立っていた。

冷えた空気が、肺を刺す。

だが目は澄んでいる。

「眠れぬのか」

弁慶が声をかける。

牛若は振り向き、少しだけ笑った。

「少し」

その声に、かすかな緊張が混じる。

弁慶は隣に立つ。

朝霧の向こうに伊吹山の稜線が見える。

牛若は、ゆっくりと言った。

「牛若という名は、母のもとにある名だ」

弁慶は頷く。

常磐御前の膝に抱かれた幼子の名。

平家の監視下で生き延びた、静かな名。

牛若は続ける。

「義経という名を背負えば、私は源氏になる」

その声は、まだ少年だ。

だが決意がある。

弁慶は静かに答える。

「あなたはすでに源氏です」

牛若は苦笑した。

「血はそうだろう」

「だが、名を名乗る覚悟は、別だ」

弁慶は、胸の奥で熱を感じる。

(この少年は、逃げぬ)

牛若は空を見上げる。

「父の名に恥じぬか」

問いは、自分へのもの。

弁慶は迷わない。

「義朝公の武は、坂東に今も語られております」

「潔く、そして強い」

牛若は、ゆっくり息を吐く。

「ならば、恥じぬように」


やがて、元服の支度が始まる。

近江の豪族の協力を得て、簡素ながらも整えられた儀式の場。

弁慶は、牛若の髪を整える。

黒髪が指をすり抜ける。

(弁丸……)

一瞬、胸が疼く。

だが手は震えない。

牛若は正座し、背筋を伸ばす。

烏帽子が、そっと頭に載せられる。

その瞬間、空気が変わった。

少年の面影が消えるわけではない。

だが、眼差しが鋭くなる。

名乗りの時。

牛若は、静かに声を出す。

「源九郎義経」

声は澄み、よく通る。

その名には、義朝の“義”がある。

そして源氏の流れを継ぐ者としての“経”。

弁慶の胸が熱くなる。

(始まった)

源九郎義経。

その名が、風に乗る。


儀式が終わり、庭に出る。

近江の空は青い。

義経は烏帽子を指で触れた。

「重いな」

その言葉に、弁慶は笑みを浮かべる。

「名は、重くてこそ」

義経は弁慶を見上げる。

「そなたの背ほどではない」

その冗談に、二人の間に柔らかな空気が流れる。

だがすぐに、義経の目が真剣に戻る。

「弁慶」

呼び方が変わった。

牛若ではない。

義経だ。

弁慶は膝をつく。

「は」

義経は言う。

「私は東へ向かう」

「兄頼朝のもとへ」

その名に、風が止まったように感じる。

頼朝。

伊豆で兵を集める男。

源氏の棟梁。

弁慶は深く頭を下げる。

「共に」

義経は続ける。

「だが、頼朝が我を受け入れるかは分からぬ」

弁慶は顔を上げる。

「それでも」

「あなたは義経」

義経は一瞬、目を伏せる。

「母上は、何も言わなかった」

弁慶は思い出す。

常磐御前の庭。

あの静かな覚悟。

「母上は、止めぬと仰せでした」

義経は微かに笑う。

「ならば、進むのみ」

近江の風が吹く。

枯れ葉が舞う。

義経は、ふと真面目な顔になった。

「弁慶」

「そなたは、なぜここまで我に尽くす」

弁慶は一瞬、沈黙する。

だが逃げない。

「あなたに未来を見たから」

「復讐だけではない未来を」

義経の目がわずかに揺れる。

弁慶は続ける。

「私は、守れなかった母です」

「今度こそ、守る」

義経は何も言わず、ただ頷いた。

その仕草は、主君のそれだった。


夕刻。

近江竜王の空が赤く染まる。

義経は馬に跨る。

烏帽子が風に揺れる。

弁慶はその横に立つ。

源九郎義経。

その名が、坂東へ向かう。

治承六年(1182年)十月下旬。

近江にて、少年は武士となった。

歴史はまだ静かだ。

だが、この名はいずれ、源平の世を揺らす。


夜、宿に戻った義経は、静かに呟いた。

「母上……」

その声は小さい。

弁慶は聞こえぬふりをする。

母の名は、武士の胸の奥にしまうものだ。

弁慶は火を見つめる。

(今度こそ)

火がはぜる。

鬼は家臣となり、少年は義経となった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承六年(西暦1182年)十月下旬、近江国竜王にて元服。

牛若丸殿、源九郎義経と名乗る。

烏帽子戴きし瞬間、眼差し変わるを見たり。

名は重く、父義朝公の義を継ぐ覚悟、胸に宿す。

東国へ向かうと宣言す。

我、盾となると再び誓う。

復讐の鬼、家臣となり、主の背を守る。

今日より、牛若にあらず。

源九郎義経なり。

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