第14話 鬼面を置き、母に誓う ――京の別れと東への道
(治承六年〈西暦1182年〉十月・京 六波羅/常磐御前邸)
十月の京は、秋の色を深めていた。
大内裏の北では楓が赤く燃え、鴨川の流れは澄み、空は高い。
だが都の空気は穏やかではない。平家の権勢は続いているものの、東国では源頼朝が坂東武者をまとめつつあるという噂が、商人や僧の口からひそやかに広がっていた。
その日、牛若丸は六波羅へ向かった。
手には、割れた鬼面。
あの夜、五条大橋で弁慶の顔を晒した面である。
六波羅の屋敷は重厚だった。
赤い柱、整えられた庭、整然と並ぶ兵。
かつての平清盛の威光を引き継ぐ者たちが、静かに牛若丸を迎える。
牛若は落ち着いた足取りで進む。
まだ少年でありながら、その背筋には凛としたものがある。
屋敷の奥で待っていたのは、平家の家司と数名の家人だった。
鬼面が差し出される。
牛若は、静かに告げた。
「五条の鬼は、討ちました」
嘘ではない。
鬼面は割れ、鬼は終わった。
家司は面を見つめる。
割れた面の内側に、血の跡。
「見事」
短い言葉。
家司はうなずく。
「これで都も静まろう」
牛若は頭を下げる。
その目は、奥底で光る。
(鬼は終わらぬ)
鬼は、家臣となった。
六波羅を出た牛若は、すぐに常磐御前の邸へ向かった。
常磐御前の邸は、質素だが整っている。
庭には秋の草花が揺れ、縁側に差す光は柔らかい。
牛若が庭に入ると、常磐御前はすぐに立ち上がった。
息子の顔を見るたびに、亡き義朝の面影が重なる。
牛若は、母の前に膝をついた。
「母上」
常磐は、その声だけで何かを察する。
「五条の鬼のことか」
牛若は顔を上げた。
「ご存じでしたか」
常磐は静かに微笑む。
「都に住めば、噂は避けられぬ」
彼女はゆっくりと牛若の前に座った。
「お前は無事か」
牛若はうなずく。
「鬼は、もういません」
その言葉の意味を、常磐は深く追わない。
だが、牛若の目に映る何かを見逃さなかった。
「……新たな影が、お前の背にある」
牛若は少しだけ笑った。
「母上に似た顔の尼が、家臣になりました」
常磐の指が止まる。
「尼?」
牛若は静かに語る。
五条大橋での戦い。
鬼面が割れた瞬間。
その素顔。
常磐は目を伏せた。
「母を失った女か」
牛若は頷く。
「夫と子を平家の兵に奪われたと」
庭の風が揺れる。
常磐はゆっくりと言う。
「戦は、女の涙で成り立つ」
その声には、深い実感がある。
義朝を失い、子を抱えて生き延びた女の言葉。
牛若は、母を見つめる。
「母上、私は東へ向かいます」
常磐の指先が、わずかに震えた。
「頼朝のもとへか」
牛若はうなずく。
「いずれ源氏は動く」
「その時、私はただの牛若ではなく、戦う者でありたい」
常磐は、しばらく沈黙した。
庭の紅葉が一枚落ちる。
やがて、彼女は息子の頬に触れた。
「母は、止めぬ」
その声は柔らかいが、強い。
「だが忘れるな」
「血を流す道は、戻れぬ道」
牛若は目を閉じる。
「承知の上」
常磐は、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「その尼に会わせよ」
夜。
弁慶は白頭巾を被り、常磐邸の庭に立っていた。
鬼面はもうない。
ただ、七尺の美女が、月下に立つ。
常磐御前が現れる。
二人の女は、静かに向き合った。
似ている。
血縁ではない。
だが気品と強さが、どこか通う。
弁慶は深く頭を下げた。
「武蔵坊弁慶」
常磐は、その名を反芻する。
「鬼の名だと聞いた」
弁慶は顔を上げる。
「鬼は終わりました」
常磐は、弁慶の目を見つめる。
そこにあるのは、怒りではない。
覚悟。
「息子を守れるか」
問いは短い。
弁慶は即座に答える。
「命を」
その声に迷いはない。
常磐は、しばらく弁慶を見つめ、やがて頷いた。
「牛若を、頼む」
その言葉に、弁慶の胸が熱くなる。
母から、母へ。
託される。
弁慶は静かに言った。
「弁丸を守れなかった母として、今度こそ守ります」
常磐の目が揺れた。
「……弁丸」
その名が、夜に溶ける。
三人はしばらく無言で立った。
やがて牛若が、笑った。
「母上、泣かせるな」
常磐は苦笑する。
「泣いておらぬ」
だが、目は光っていた。
治承六年(1182年)十月。
牛若丸と弁慶は、京を発つ。
夜明け前。
東山の空が白む。
常磐御前は門前に立ち、息子を見送る。
牛若は振り返らない。
振り返れば、足が止まる。
弁慶は一度だけ、深く頭を下げた。
母に。
京の町を抜け、東へ。
源氏の道へ。
鬼は面を脱ぎ、家臣となり、母は息子を送り出した。
歴史は、静かに動き出す。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)十月、牛若丸殿、六波羅へ鬼面を差し出す。
鬼は討たれしと告げ、都の騒ぎ静まる。
夜、常磐御前に拝謁す。
気品高き御方、我を見て「息子を守れるか」と問う。
我、命をもって守ると誓う。
母より母へ、託される重みを知る。
京を発ち、東へ向かう。
鬼面は流れ、我は家臣となる。
牛若丸殿と共に、源氏の旗のもとへ。




