第12話 月下の女童 ――鬼と舞う、鞍馬の影
(治承六年〈西暦1182年〉九月・京 五条大橋)
九月の京は、夏の湿り気を残しながらも、夜風にわずかな涼が混じる。
虫の音が鴨川に沿って響き、月は高く、澄んでいる。
五条大橋。
百を越える刀が欄干に並び、月光を受けて鈍く光っていた。
その中央に、鬼が立つ。
武蔵坊弁慶。
白頭巾をかぶり、鬼面を戴き、薙刀を手に。
六波羅の動きは鈍らない。
だが今宵は、平家の精鋭の気配はない。
代わりに――
軽い足音がした。
弁慶は視線を向ける。
橋の袂に立つのは、小柄な影。
細い腰。
長い黒髪。
女童のような姿。
薄衣が月に透ける。
見物人の囁きが風に乗る。
「……娘?」
「こんな夜に」
弁慶は動かない。
影は、橋を渡り始めた。
足取りが軽い。
川面を渡る風のように。
鬼の前で立ち止まり、影は面を見上げた。
顔立ちは整い、どこか気品がある。
だがその目は、静かに燃えていた。
「あなたが、五条の鬼?」
声は柔らかいが、芯がある。
弁慶は低く言う。
「戻れ」
女童は首を傾げた。
「どうして?」
その仕草があまりに自然で、橋の空気が一瞬緩む。
弁慶は薙刀をわずかに動かした。
「刀を持たぬ者は、斬らぬ」
女童は袖を払った。
細い指が、腰のあたりに触れる。
次の瞬間、鉄の光。
短刀。
いや、それは短刀ではない。
細く、しなやかな鉄笛――打ち鳴らせば音を出すが、武器にもなる。
女童は一歩踏み出した。
「では、これなら?」
風が変わる。
弁慶の背筋がわずかに緊張した。
(ただの娘ではない)
女童は笑った。
「鬼がいると聞いて、会いに来たの」
その声には、怖れがない。
弁慶は構えた。
「名を」
「まだ言わない」
女童は軽やかに橋板を蹴った。
速い。
月光の下で、衣が舞う。
鉄笛が弁慶の鬼面を叩く。
金属音が鳴る。
弁慶は薙刀で受けるが、女童はすでに間合いの外へ。
(速い……)
薙刀の長さが、逆に隙になる。
女童は橋の欄干を蹴り、宙を舞う。
軽い。
鞍馬山の天狗のように。
弁慶の胸がわずかに揺れる。
(……弁丸)
小さな影。
軽い足取り。
だが目の前の女童は、ただの子ではない。
再び突っ込んでくる。
弁慶は薙刀を横薙ぎに振るう。
女童は身を低く沈め、橋板を滑るように避ける。
そのまま弁慶の懐へ。
鉄笛が鬼面を打つ。
面が揺れる。
弁慶は柄で弾こうとするが、女童は一瞬早い。
「重いわね、その武器」
ささやくような声。
弁慶は一歩下がる。
女童は追わない。
橋の中央に、二人。
見物人は息を呑み、誰も声を出せない。
女童が言う。
「どうして斬るの?」
弁慶は答えない。
女童は続ける。
「供養って、聞いた」
その言葉が、弁慶の胸を刺す。
「供養なら、こんなに血はいらないでしょう」
鬼面の内側で、弁慶の目が揺れる。
女童は鉄笛をくるりと回した。
「鬼の顔の下は、何?」
弁慶は踏み込む。
薙刀の刃が月を裂く。
女童は跳ぶ。
その足運びは、まるで舞。
橋板を踏み、欄干を蹴り、弁慶の頭上を越える。
鉄笛が、再び鬼面を打つ。
ひびが入る。
次の瞬間。
ぱきり、と音がした。
鬼面が割れた。
半分が橋板に落ちる。
月光が、弁慶の素顔を照らす。
白頭巾の下。
長いまつ毛。
常磐御前を思わせる気品。
女童の動きが止まる。
目が見開かれる。
「……母上?」
思わず漏れたその言葉に、弁慶の心臓が止まる。
その顔。
月光の中で見る顔。
弁丸に、似ている。
幼い頃の弁丸。
生き写し。
弁慶の喉が震えた。
薙刀がわずかに下がる。
女童――いや、少年は、息を呑む。
「あなた……」
声が揺れる。
弁慶は、鬼面の欠片を見下ろした。
そして、ゆっくりと白頭巾を外す。
月光の下、絶世の美女が立つ。
橋の空気が止まる。
少年は呟く。
「……常磐御前に、似ている」
弁慶の目から、涙が一筋こぼれた。
(弁丸)
その名が、胸を裂く。
少年は鉄笛を下ろした。
「鬼じゃ、ない」
弁慶は震える声で言う。
「……名は」
少年は少し迷い、やがて微笑んだ。
「牛若」
橋に、虫の音が戻る。
治承六年(1182年)九月。
五条大橋で、鬼は出会った。
運命と。
弁慶は薙刀を地に立て、静かに頭を垂れた。
「……あなたは、斬れぬ」
牛若は首を傾げる。
「どうして?」
弁慶は答えない。
ただ、涙を拭った。
母の涙。
鬼の涙。
その二つが、月光の中で混ざる。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)九月、五条大橋にて女童の姿にて現れし者と刃を交える。
鉄笛を武器とし、足軽く、舞うが如し。
鬼面を打ち割られ、我が素顔、月下に晒される。
彼、我を見て「母上」と漏らす。
その顔、弁丸に生き写しなり。
我が刃、下ろす。
名を問えば「牛若」と答う。
これは偶然にあらず。
運命、橋の上に立つ。
我は鬼にあらず。
母なり。




