第11話 平家、動く ――六波羅の密命と五条の鬼
(治承六年〈西暦1182年〉八月・京 六波羅/五条大橋)
八月の京は、重い。
夕立が去ったあとの湿気が町を包み、六波羅の屋敷群にも蒸気のような熱が漂っていた。
平清盛はすでに世を去っているが、その威はなお京に残る。嫡流の家人たちは、都の秩序を守ることを己の誇りとしていた。
その誇りが、いま傷ついている。
五条大橋。
百人斬り。
刀百本。
噂は誇張を伴いながらも、確実に六波羅へ届いていた。
六波羅の一室。
障子の向こうに蝉の声が響く。
家人たちが膝を並べる中、ひときわ鋭い目を持つ若武者がいた。平家の一門に連なる武士、知勇に優れると評判の男である。
上座に座る家司が、低く言った。
「五条の鬼、放置すれば面子が立たぬ」
室内の空気が引き締まる。
家司は続ける。
「討て」
命令は短い。
若武者は頭を垂れた。
「承る」
声は落ち着いている。
彼は噂を軽んじていなかった。
百人を退ける者がただの浪人であるはずがない。
(鬼か、人か)
どちらにせよ、平家の威を揺るがす芽は摘む。
同じ頃、五条大橋。
武蔵坊弁慶は、橋の中央に立っていた。
七月の百人斬り以来、橋は“戦場”と化している。
今宵は静かだった。挑戦者の数は減り、噂だけが膨らむ。
弁慶は月を見上げた。
(……平家は、まだ来ぬか)
六波羅は動く。
遅いが、必ず。
足音が近づく。
重い。
規律のある足取り。
弁慶は薙刀を握り直す。
橋の袂から現れたのは、十数名の武士たちだった。鎧は揃い、無駄がない。中央に立つ若武者は、兜を外し、静かに鬼を見上げる。
彼の視線には、恐れがない。
「お前が五条の鬼か」
声はよく通る。
弁慶は答えない。
若武者は名乗った。
「平家方、平教経が家人、某」
平家の名を口にしたとき、橋の空気が変わった。
見物人たちが息を呑む。
弁慶の胸が静かに熱を帯びる。
(来た)
若武者は続けた。
「都の橋で血を流すは、許されぬ」
「退け」
弁慶は低く言った。
「刀を置け」
若武者はわずかに笑った。
「面白い」
その瞬間、合図とともに兵が散開する。
弓が構えられる。
弁慶は橋板を蹴った。
矢が放たれる。
月下に光る矢を、薙刀で弾く。柄で払い、身を捻る。
矢が欄干に突き刺さる。
(数で来るか)
弁慶は前へ出た。
橋の中央で待つのではなく、突っ込む。
兵の一人を薙ぎ払う。
血が飛ぶ。
若武者が太刀を抜いた。
その動きは洗練されている。
弁慶と若武者の刃がぶつかる。
衝撃。
若武者は重い。
都の武士とは違う、戦場の太刀筋。
(強い)
弁慶は一歩引き、間合いを測る。
周囲の兵が包囲を狭める。
弁慶は欄干を背にしない。常に川を横に、退路を確保する。
若武者が踏み込む。
太刀が上段から落ちる。
弁慶は薙刀の柄で受け流し、刃を返す。若武者の肩を掠める。
血がにじむ。
若武者は歯を食いしばる。
「鬼……!」
怒りではない。
興奮だ。
彼もまた、強者と戦うことを望んでいる。
弁慶の胸に一瞬、戦士としての感覚が走る。
だが、すぐに打ち消す。
(楽しむな)
若武者が再び斬りかかる。
弁慶は踏み込み、柄で兜を叩き上げる。若武者の視界が揺れる。
その隙に、薙刀の刃が鎧の隙間へ入る。
若武者が膝をついた。
兵たちが動揺する。
弁慶は若武者の喉元に刃を突きつけた。
静寂。
若武者は、血を吐きながらも笑った。
「……殺せ」
弁慶は動かない。
鬼面の奥で、目が揺れる。
(殺せば、百一)
(だが)
弁慶は刃を引いた。
若武者を突き飛ばす。
「帰れ」
低い声。
「平家に告げよ。鬼は、千本集めるまで橋を去らぬと」
兵たちは若武者を抱え、後退する。
敗北。
だが全滅ではない。
若武者は担がれながら、鬼を見つめた。
その目に、恐れではなく、疑問が浮かぶ。
(なぜ、殺さぬ)
橋に静寂が戻る。
見物人たちは震えながら散っていく。
弁慶は、落ちた刀を拾い、欄干へ並べた。
百五本。
夜風が吹く。
鬼面の内側で、弁慶は目を閉じた。
(母であることを忘れるな)
斬るべき時と、斬らぬ時。
鬼であり、母である。
その狭間で、弁慶は立つ。
治承六年(1182年)八月。
平家が本気で動いた。
そして都は悟る。
五条の鬼は、ただの辻斬りではない。
意志を持つ存在だと。
六波羅。
若武者は床に伏し、手当てを受けていた。
家司が問いかける。
「なぜ生きて戻った」
若武者は静かに答えた。
「……鬼は、選んで斬る」
その言葉に、室内の空気が重くなる。
平家は知る。
鬼は暴走しているのではない。
目的を持っている。
その目的が、平家に向いているとすれば――。
夏の蝉が、ひときわ大きく鳴いた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)八月、五条大橋にて平家家人率いる一隊と戦う。
太刀筋鋭き若武者現る。これを討たず、命を返す。
殺すは易し。選ぶは難し。
我が刃は無差別にあらず。
千本の供養は、平家への誓いなり。
橋に立ちて百五本。
六波羅、ついに動く。
我は鬼面を被るが、心は冷静であらねばならぬ。
母であることを忘れぬため、あえて命を残す。
次なる夜、さらなる強者来るであろう。




