表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

Sleep01 デボラ

「あのガキが死んだかどうか、確認してきなさい」


メイド長にそう言われ、デボラは自分が担当しているルネの部屋へと向かった。

今は亡き前妻――ドロテ・ド・オーレリオンの時代から仕えてきたデボラだったが、

平民出の後妻、クローデットが屋敷に来てから、空気は一変した。


ルネの寝室を任されていたという理由で、ある日、クローデットが連れてきた新しいメイド長から声を掛けられた。


「ルネお坊っちゃまの監視役を頼みたいのだけれど」


その背後には、クローデット本人がいた。

笑ってはいたが、目だけが冷たく光っていた。


彼女は手にしていた金貨袋をデボラの前に差し出し、宝石のいくつかを、あえて床に散らすようにして見せた。


「母親の治療費、弟の学費。何かと入り用でしょう?」


声は甘く、しかし背筋が凍るような響きを帯びていた。

天からの恵みのようにも、悪魔の囁きのようにも聞こえた。

これらの資金の出所はクローデットの父親が豪商だからであることを、デボラはすぐに察した。

これさえあれば、家族を立て直せる―――デボラはそう確信した。


デボラの家族は、伐採場の作業員だった父と、病を患う母、それにまだ幼い弟の、四人暮らしだった。

生活は決して楽ではなかったが、それでも笑い声の絶えない家庭だった。


しかし、父が伐採場の事故で足を痛め、働けなくなると、家計を支えられるのはデボラひとりとなった。

弟も隣領の炭鉱で働き始めたが、子どもだったため、賃金は雀の涙だ。

デボラは男爵家のメイドとして雇われたが、支払われる給金は思ったよりも少なかった。

もともとこの男爵領は、これといった産業もない。父の伐採場の仕事も、たまたま辺境や隣の領地からの需要があったからにすぎなかった。

母親の治療費が重くのしかかっていたのもあり、デボラの家庭は困窮していた。


男爵家のメイドとして、デボラは必死に働いた。夜明け前に起き、日が沈んでもなお手を動かし続ける日々だった。


その仕事ぶりを見たドロテ夫人が、ある日、声をかけてくれた。

それが二人の出会いだった。


夫人は、デボラや他の使用人たちの暮らしをよく理解していた。

「働く者が飢えていては、家も滅びるのです」と言い、自らの私財を投じて屋敷の福利を少しでも良くしようとした。


そのおかげで、デボラは男爵家のまかないを口にできるようになった。

温かいスープをすすりながら、久しぶりに生きている気がした。

飢えが癒えれば、心にも少しだけ余裕ができる。浮いた食費を家族に回し、ようやく生活をつなぎ止めた。


だが、その穏やかな日々は長くは続かなかった。

夫人が病に倒れ、静かに息を引き取ったのだ。


デボラは葬儀の日をよく覚えている。喪主である男爵は挨拶をそこそこに街へと繰り出していった。ひとりすすり泣くルネだけが冷えきった屋敷に取り残されていた。


夫人の温もりが消えると同時に、屋敷は別の場所に変わった。

食堂の香りも、灯りの色も、すべてが薄暗く見えた。

そして、デボラは再び貧しさの現実へと引き戻されたのだった。


「ルネを頼むわね」


デボラは、その言葉を今もはっきりと覚えていた。

あのとき、病床の夫人はかすかな笑みを浮かべ、弱々しい力でデボラの手を握っていた。


まだ幼いルネは、デボラを姉のように慕っていた。

彼女もまた、病弱なその子を自分の弟や母と重ね、出来る限りの優しさを注いできたつもりだった。


しかし、それが「金にならない」と気づいたのは、夫人の葬儀が終わってしばらく経った頃だった。再び生活に余裕がなくなり、いかに夫人の存在が大きかったのかを痛感した。

しかし、目の前にいるのは何の力もないただの子どもだった。

いくら自分が世話を焼いたとしても、窮状を脱する助けになりやしないのだ。


どうして、自分が貴族の子に情けをかけねばならないのか。

男爵とはいえ、貴族は贅沢ができる立場ではないか。

デボラはルネの世話をする中で、次第に、胸の奥にあるドス黒い感情を膨らませていった。


そして、クローデットが金貨を携えてやって来た。

袋の口が開かれた瞬間、金の粒が陽の光を弾いて眩しく揺れた。

デボラの胸の奥に、何かが微かに緩んだ。


――ルネを売るだけで、家族の生活が安定する。


そう思うと、心がふっと軽くなった気がした。


「や、やります」


だが、金貨を受け取るその手は震えていた。

掌に伝わる冷たい重みが、恐怖と欲望を区別できなくしていく。


瞳の奥に、これまで見たことのない光が差した。

それは、救いの光にも、堕落の光にも見えた。


だが、つい先日のことだった。

メイド長が、掌の上に小瓶をのせて差し出してきた。


瓶の中では、無色透明の液体がゆらゆらと揺れていた。

ラベルもなく、ただ光を受けて、きらりと妖しく光る。


「これをあのガキの飲む水差しに入れなさい」


メイド長の声は低く、そして澱んでいた。


それが魔法で作られた毒薬であることを、デボラは一瞬で理解した。

血の気が引いていくのがわかる。頭の中が張り裂けそうになり、視界が滲んだ。

喉の奥で空気が詰まり、世界がぐらりと揺れた。


「こ、殺すんですか?」


デボラは目の前の現実を、確かめるように問い返した。

自分の声が、他人のもののように震えていた。


「なにを言っているの? これは薬よ。あのガキを楽にするね」


メイド長の口元が、わずかに歪んだ。

その表情には、人の情の温度がまるでなかった。


「どうせ、魔力も制御できず、いずれ暴走して死ぬような人間よ。それに、ここは王国からも忘れられた下級貴族の屋敷。病弱で今にも死にそうな貧乏貴族の子どもが一人死んだところで、誰も気にしないわ」


デボラは言い返す言葉が、見つからなかった。喉の奥で何かが詰まり、ただ小さく唇が震える。

メイド長の冷たい論理が、石畳の上を這うように響いた。


確かに、この世界では子どもの死など日常の一部に過ぎない。

児童労働、奴隷、病死、餓死――理由はいくらでもあった。

小さな命がひとつ消えたところで、世界は何も変わらない。

ただ、今日も同じように朝が来るだけなのだ。


その日の夜、屋敷には薄い月光だけが差し込んでいた。

風はなく、窓の桟に触れた光が静かに揺れている。

デボラは台所の隅の椅子に腰を下ろし、毒薬と共に受け取った金貨袋を何度も握りしめた。透けるほどに薄い布越しでも、硬貨の輪郭が指先に当たる感触は確かに現実だった。


受け取った金は重かった。

暮らしのための重さと、これから背負わされる罪の重さが重なってできたものだった。

彼女の頭の中で、夫人の声がかすかに反芻される。


――ルネを、頼むわね。


だが、思い出すのは同時に、家族の姿だった。

母の薬代を稼ぐために昼も夜も働き、弟の小さな肩が苦労だけを知り、少しずつ逞しくなっていく。


椅子にもたれて、彼女は目を閉じた。

幼いルネの寝顔を思い出す。

頬の痩せた曲線、すぐに息を切らして眠るあの癖。

ルネは自分に笑いかけたことがある。デボラはそれに答え、頭を撫でたことがある。


立ち上がると、台所の薄明かりに自分の影が長く伸びた。足は重く、動作はぎこちない。布で包んだ小瓶をポケットに押し込みながら、デボラは一度だけ窓の外を見た。空の端に黒い雲が薄く垂れていて、月光をわずかに覆っている。


彼女は息を吸い、吐いた。

そして、自分がこれからすることを、何度も自分の胸に問いかけた。どれを選んでも、選んだ先には失うものがある。


台所の灯りを消して、デボラはゆっくりと廊下へ出た。靴を履いているにもかかわらず、床は冷たく感じられた。

補修もせずに老朽化した階段は軋んでいる。一段ずつ上るたびに、過去の自分と未来の自分がせり出しては引っ込むような気分になった。

手には、毒を入れた水差しが握られていた。


部屋に入ると、ルネが咳き込んでいた。その痩せた体が小刻みに震え、肌は青白く、唇の色は失せかけている。

意識は今にも途切れそうだった。

ただでさえ、いつ死んでしまうのかと気が気でなかったというのに――

まさか自分の手で、その死期を早めてしまうことになるとは思わなかった。


「デ、デボラ……?」


掠れた声が、空気を切った。

その一言で、彼女の心臓が跳ねた。


「は、はい、ルネ坊ちゃま」


平静を装いたかった。

けれど、喉の奥が焼けるように熱く、言葉がうまく出てこない。


「あのね、さっき夢を見たんだ」

「夢、ですか?」

「うん……女神さまが、僕の夢に出てきて『もう大丈夫だ』って言ったんだよ。明日には全部うまくいくようになるからって」


ルネは弱々しい力でデボラの手を握る。その手は驚くほど冷たく、なのに、かすかに震えていた。


「そうしたら、デボラにも贅沢をさせてあげたいな」


ルネの笑顔が、死に際のドロテ夫人と重なった。

デボラは、躊躇した。

このままで良いのだろうか――。

思わず唇を噛んでしまい、血の味が口の中に広がる。

手の中の水差しが、わずかに震えた。


「ぼ、坊ちゃま……もし、喉が渇いたら……」


「大丈夫だよ、デボラ」


ルネはそう言うと、デボラの手から静かに水差しを受け取った。

その動作は、まるで彼女を気遣うようだった。

彼はそれをサイドテーブルの上に置き、もう一度、微笑んだ。


「大丈夫だから」


その言葉を聞いた瞬間、デボラはもう何も言えなくなった。


自分は――なんてことを。


「おやすみデボラ。また明日ね」


ルネはそのまま、静かにコップへと注ぐ。

デボラは思わず息を止めた。

ルネは、何のためらいもなくコップを持ち上げ――素早く、それを飲み干した。


デボラは、これ以上見ていられなかった。

背を向け、ふらつく足取りで部屋を出る。


廊下はひどく静かで、遠くの燭台の炎だけがゆらめいていた。その光の揺れが、胸の奥の不安と同じリズムで震えているように思えた。


割り当てられた使用人部屋にたどり着くと、ドアを閉め、鍵を掛けた。

そのまま背を預けてずるずると床に座り込む。


後悔は――ないはずだ。

家族のためにやったことなのだから。


なのに、どうして。

どうしてこんなにも胸が締めつけられるのだろう。


手を胸に当てると、鼓動が乱れていた。


朝になり、メイド長の命令でルネの部屋へと向かった。

その足取りは重かった。


念のためにノックをする。

こんな動作が無意味であることくらい、わかっていた。


「失礼します」


扉を開けた瞬間、空気がひやりと肌を撫でた。

金色の瞳と、目が遭った気がした。


そして次の瞬間、不意に自分の身体が重くなり、デボラは悲鳴を上げる間もなく、床に叩きつけられた。

重力魔法だと気づいたが、デボラの平凡な魔力では対抗することができなかった。


ベッドの上から、漆黒の影がこちらを見下ろしていた。

金の瞳が、薄明かりの中で冷たく光る。


「あなた、わずかに魔法薬の臭いがしますね」


黒猫がしゃべった。

その声は低く、よく通る。

まるで人間のような響きだった。


毛布がこんもりと山を作っている。

その山が、小さく、規則正しく揺れていた。


「ぼ……坊ちゃんは生きているのですか?」


デボラは床に手をつき、震える声ですがりつくように問いかけた。

なぜだかそうしなければならないと感じた。言葉にならない祈りがうずいていた。


黒猫は、ゆっくりとデボラを見下ろす。金色の瞳が冷たく光る。

そのまま、薄く鼻先を動かすと、低く滑らかな声で返した。


「おかしなことを聞きますね。ルネ様を殺そうとしたのは、あなたではないのですか?」


問いは他人事のようにも聞こえたが、刃のように鋭かった。声には苛立ちも譴責もない。ただ事実を告げるだけの冷淡さがあった。


「そ、それは……」


デボラは言葉に詰まった。


「このままルネ様に危害を加えるのでしたら、私も黙ってみているわけにはいきません。ただ『殺せ』という命令も聞いておりませんし……」


黒猫は淡々と重力魔法を発動させながら窓の外を見上げた。


「首謀者は誰ですか?」


デボラはクローデットとメイド長の名を口にするのを躊躇った。

ルネが生きている――その可能性に、わずかな安堵が胸をよぎる。

だが、もし本当にそうなら、メイド長は「任務に失敗した自分」をどう扱うだろうか。

想像しただけで、背筋が凍った。


「悩んでいる場合でしょうか?」


黒猫が、首を傾げた。


「ルネ様も、あなたも、今日を生き抜いたとしてもいずれ殺されますよ」


その声は、驚くほど穏やかだった。

その言葉を聞いて、デボラは殴られたかのような衝撃を受けた。心臓を掴まれたような衝撃だった。

デボラの喉が、ひどく乾いた。


「ど、どうしてそう言いきれるんですか?」


声にならない言葉を、必死に繕おうとする。喉が乾き、唇は震えていた。


「どうしてって……もし私が首謀者ならば、元主人を裏切った人間を信用なんてしませんから。それにリスクを負う必要もないですし。あなたにルネ様暗殺の濡れ衣を着せて処刑することもできますからね」


言葉は刃物のように静かに突き刺さった。

金貨を受け取った時、なぜその考えに思い至らなかったのだろうか。

デボラの脳裏に、後悔の念が押し寄せてくる。


「ルネ様の記憶をのぞかせていただきましたが、以前の生も今世も、この方に余裕なんてありませんでした。余裕がなければ思考も停止する。思考が停止すれば、もはや自分で考える力を完全に失う。自分が何に加担しているかもわからなくなる……あなたも、そうだったのではないですか?」


黒猫の言葉は、責めるでも、慰めるでもなかった。


確かにそうだった。

少なくとも、ドロテ夫人がいた頃の自分には、まだ心の余裕があった。

クローデットがやって来て、金貨や宝石を与えてくれた時も、

あの瞬間までは、まだ余裕があると信じていたのかもしれない。


だが実際は違った。

ルネやドロテ夫人を裏切り、家族のためにと自分に言い聞かせながら、

彼女の中の余裕は、音もなく削られていった。

精神的な余裕はなかった。

ただ与えられるままに、考えることをやめ、「楽であること」だけを維持するために、生きてしまったのだ。


「ルネ様のためにも教えてください。この毒薬を用意したのは、どなたですか?」


デボラは決断しなければならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ