第9話:『重なる影』
美術室で天海ユキの描いた絵に「三日月と星」を見つけた時、蒼一の心は激しく揺さぶられた。彼女はルカではない。しかし、ルカの面影を宿し、同じモチーフを好む。これは単なる偶然ではない。
蒼一は、美術室を出た後も、ユキのことが頭から離れなかった。彼女の描いた絵。その片隅に描かれた、あのマーク。
(ユキは、ルカの「もう一つの姿」なのか?)
もしそうだとしたら、ユキと関わることで、ルカが消えた世界の謎、そしてルカを取り戻す方法が見つかるかもしれない。
翌日から、蒼一は意識的にユキと接するようになった。図書館で「並行世界論」の本を読んでいると、偶然を装って隣に座り、話しかける。
「この本、難しいよな」
「ええ、でも、すごく興味深いわ」
ユキは、蒼一の言葉に、いつも穏やかに微笑んで答えた。彼女は、ルカのように明るくはしゃぐことはないが、その静かな知的な雰囲気は、蒼一の心を落ち着かせた。
蒼一は、ユキが「並行世界論」に興味を持っていることに、かすかな希望を見出していた。もしかしたら、彼女も無意識のうちに、この世界の歪みを感じ取っているのかもしれない。
ある日の放課後、蒼一はユキを誘った。
「もしよかったら、美術室で、君の絵を見てもいいか? あの抽象的な絵、すごく引き込まれたんだ」
ユキは、少し驚いた顔をした後、嬉しそうに頷いた。
「ええ、もちろん。嬉しいわ」
美術室で、ユキは蒼一に、これまで描いてきた絵を見せてくれた。どの絵も、どこか寂しげで、しかし、深い感情が込められていた。そして、その中には、やはり「三日月と星」のモチーフが、様々な形で隠されていることに気づいた。
「このマーク、本当に好きだね」
蒼一が言うと、ユキは少しはにかんだ。
「ええ。小さい頃から、なぜか惹かれるの。夢の中で、このマークが光っているのを見たことがあるような……そんな気がするの」
夢の中。
その言葉に、蒼一の心臓が跳ね上がった。夢の中で、光るマーク。それは、ルカが消える直前に、ユキの指先で光ったあの輝きと、何か関係があるのだろうか。
蒼一は、ユキの言葉の奥に、ルカの影を感じた。彼女はルカの記憶を持たない。しかし、ルカの「何か」を、確かに引き継いでいる。
その時、美術室の窓から見える校庭の風景が、一瞬、揺らいだ。
校庭の隅にある、古びた桜の木。昨日まで、満開の桜が咲き誇っていたはずなのに、その枝には、もう花びらが一枚も残っていなかった。まるで、一瞬にして、季節が移り変わったかのように。
蒼一は、息を呑んだ。まただ。世界が、また、上書きされた。
そして、その変化に気づいているのは、自分だけだ。
ユキは、桜の木の異変には気づいていないようだった。彼女は、蒼一の視線に気づき、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、真咲くん?」
「いや……なんでもない」
蒼一は、慌てて視線をユキの絵に戻した。
この世界は、ルカを消し去るために、あらゆるものを書き換え続けている。
だが、天海ユキという存在は、その書き換えの波紋の中で、ルカの面影を宿して現れた。
蒼一は、強く思った。
天海ユキは、ルカを取り戻すための、唯一の希望だ。
彼女が持つ「三日月と星」の記憶。そして、彼女が惹かれる「並行世界論」。
蒼一は、ユキの秘密を解き明かすことが、ルカへの道だと直感した。
彼の孤独な戦いは、今、ユキという「もう一人のルカ」と共に、新たな局面へと踏み出そうとしていた。