第8話:『もう一つの世界』
屋上で見つけた「三日月と星」の落書き。それは、ルカが確かにこの場所に存在した証であり、蒼一に新たな希望を与えた。世界がいくら上書きされようと、ルカの痕跡は完全に消え去ったわけではない。
翌日、蒼一は、ルカがよく行っていた場所を巡ることにした。公園、本屋、そして、二人が初めて出会った小さなカフェ。それぞれの場所で、ルカとの思い出が鮮明に蘇る。しかし、どの場所にも、彼女の存在を示すものは何も残されていなかった。公園のブランコはいつも通りに揺れ、本屋の店員は蒼一に笑顔を向け、カフェのマスターはいつものようにコーヒーを淹れていた。彼らの記憶には、ルカの姿は存在しない。
それでも、蒼一は諦めなかった。ルカが残した「三日月と星」のキーホルダーを握りしめ、次なる手がかりを求めて歩き続けた。
「……もし、ルカが、この『三日月と星』を、他のどこかに残していたとしたら?」
蒼一は、ふと、そんな考えが頭をよぎった。ルカは、絵を描くのが好きだった。もしかしたら、学校のどこかに、彼女の描いた絵が残されているかもしれない。
放課後、蒼一は美術室へと向かった。美術室は、放課後になると、いつも数人の生徒が残って絵を描いている。蒼一も、ルカと一緒に、よくここに遊びに来ていた。
ドアを開けると、絵の具の匂いが鼻をくすぐった。イーゼルに向かって絵を描いている生徒が数人。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。
「天海、ユキ……」
蒼一は、思わず呟いた。ユキは、イーゼルに向かって、真剣な表情で絵を描いていた。彼女の描いている絵は、抽象的な風景画だった。どこか寂しげで、しかし、深い色彩に満ちた絵だ。
蒼一は、そっとユキに近づいた。
「天海さん」
蒼一の声に、ユキはハッと顔を上げた。
「真咲くん……どうしてここに?」
ユキは、少し驚いた様子で蒼一を見た。
「いや、ちょっと美術室に用があって。君も絵を描くんだな」
蒼一は、努めて自然な声で言った。
ユキは、小さく頷いた。
「ええ。絵を描くのが好きで。真咲くんは?」
「俺は、見る専門かな」
蒼一は、ユキの描いている絵をじっと見つめた。その絵の片隅に、蒼一は、見慣れたモチーフを見つけた。
微かに、しかし確かに、三日月と星のシルエットが描かれている。
それは、蒼一が持っているキーホルダーと同じデザイン。そして、屋上の落書きと同じデザインだった。
「その絵……」
蒼一は、思わず指差した。
ユキは、少し照れたように微笑んだ。
「ああ、これ? なんとなく、描きたくなって。子供の頃から、このマークが好きで」
子供の頃から。
その言葉が、蒼一の胸に突き刺さった。
天海ユキは、ルカの記憶を持たない。しかし、彼女は、ルカと同じ「三日月と星」のモチーフを、子供の頃から好きだったという。
これは、偶然なのか? それとも、精神時間粒子による世界の書き換えが、ルカの「好きだったもの」までも、ユキに引き継がせたというのか?
蒼一の頭の中で、二つの世界が交錯する。
ルカがいた世界。そして、天海ユキがいる、ルカが消えた世界。
ユキは、ルカの「もう一つの姿」なのかもしれない。
もしそうなら、ユキを深く知ることが、ルカを取り戻すための鍵になるのではないか。
蒼一は、ユキの描く絵を、食い入るように見つめた。
その絵の中に、ルカの、そしてこの世界の真実が隠されているような気がした。