第6話:『天海ユキ』
「ルカ? 私は、天海ユキ。あなたは?」
少女の声が、図書館の静寂に響いた。その声は、確かにルカのものより少し低く、落ち着いていた。だが、目の前の顔は、蒼一が何よりも鮮明に覚えている、天原ルカそのものだった。
「俺は……真咲蒼一」
蒼一は、掠れた声で答えた。心臓が、耳元で激しく脈打つ。期待と、恐れと、そして確信が、胸の中で渦巻いていた。
「天海ユキ……君は、天原ルカじゃないのか?」
蒼一は、縋るように問いかけた。彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。そこに、あの日のルカの面影を探した。
ユキは、困惑したように眉をひそめた。
「天原ルカ? ごめんなさい、人違いじゃないかしら。私はずっと、天海ユキよ」
その言葉は、蒼一の胸に冷たい現実を突きつけた。やはり、彼女は「ルカ」としての記憶を持っていない。しかし、その顔、その雰囲気は、あまりにもルカと瓜二つだった。
蒼一の脳裏に、あのオカルトサイトの記事が蘇る。
『別の人格、別の選択、別の彼女に出会い続ける。彼女は毎回違う名前で現れる。別人として生き、また消える』
まさか、本当にこんなことが起こるなんて。目の前の少女は、精神時間粒子によって書き換えられた世界に存在する、もう一人のルカなのか?
「あの……何か、ご用かしら?」
ユキが、居心地悪そうに視線を逸らした。蒼一の尋常ではない様子に、警戒しているのが見て取れた。
「いや……ごめん。あまりにも、知り合いに似てたから」
蒼一は、咄嗟に嘘をついた。ここで、世界の異常を話しても、彼女は理解できないだろう。いや、下手をすれば、彼女の存在そのものが消えてしまう引き金になるかもしれない。
ユ蒼一は、必死にルカとの共通の記憶を探した。
「君、もしかして、昔、この近くの公園で、よくブランコに乗ってた?」
「ブランコ? あまり乗った記憶はないわね……」
「じゃあ、小学校の時、理科室で実験中にフラスコ割ったこととか……」
「ふふ、それはないわ。私は理科は得意な方だったから」
ユキは、困ったように微笑んだ。その微笑みは、ルカのそれと酷似していたが、蒼一が求める「記憶」は、そこにはなかった。
彼女は、本当に「天海ユキ」として、この世界で生きてきた人間なのだ。
蒼一は、絶望しかけた。しかし、同時に、微かな希望も感じていた。
彼女はルカではない。だが、ルカの面影を宿している。これは、ルカを取り戻すための、最初の手がかりかもしれない。
「ごめん、変なこと聞いて」
蒼一は、もう一度謝罪した。
ユキは、小さく首を振った。
「いえ。でも、本当に似ている人がいるのね」
ユキはそう言うと、手に持っていた「並行世界論」の本を、元の棚に戻した。
その時、蒼一は、ユキの指先に、微かな、しかし鮮やかな光が瞬いたのを見た。
それは、まるで、遠い星の光が、一瞬だけ、この世界に届いたかのような輝きだった。
そして、その光が消えた瞬間、図書館の窓の外の景色が、一瞬だけ、歪んだように見えた。
街並みの色が、ほんのわずかに、深みを増したような気がした。
ユキは、蒼一に軽く会釈をすると、そのまま書架の奥へと消えていった。
蒼一は、その場に立ち尽くした。
天海ユキ。
彼女は、ルカではない。しかし、ルカの「何か」を宿している。
そして、彼女の指先で光ったあの輝き。
世界は、まだ、変化し続けている。
蒼一は、ユキが置いていった「並行世界論」の本を手に取った。
この本が、彼女が、ルカを取り戻すための、次の道標になるのかもしれない。
彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。