第1話:『消えた名前』
世界は、音を立てて、ひとつの記憶を閉じた。
朝の教室に入った瞬間、真咲蒼一の足は、まるで透明な壁にぶつかったかのように止まった。
机の並び、黒板に書かれた意味不明な落書き、天井で不規則に瞬く蛍光灯。すべてはいつも通りのはずなのに、そこには決定的な“何か”が欠けていた。
(あそこ、空いてたっけ……?)
教室の隅、窓際から二番目の席。いつも誰かが座っていたような気がしてならない。でも、誰が? 何年間もこのクラスにいたように、そこは最初から“空席”だったと、脳が強引に納得させようとする。
違和感を抱えたまま席に着き、蒼一は無意識にスマホを取り出した。画面には一件の通知。「未送信メールがあります」。
件名はない。本文は、たった数行。
もし世界がわたしを忘れても、
蒼一くんだけは、わたしを覚えていてください。
そこに、たった一つだけ、鮮明な名前が書かれていた。
——「天原ルカ」。
その瞬間、頭が割れるような激痛が蒼一を襲った。視界が歪み、黒板の文字がにじむ。音も色も、あらゆる記憶の断片が混線し、一つの鮮烈なイメージが脳裏に焼き付く。
——笑っていた。
ルカが、泣きながら、笑っていた。
「きっと、わたしはもうすぐ消えるから」
そう言って、唇を重ねてきた——その記憶だけが、世界の書き換えに抗うように、鮮明に、鮮烈に、そこに存在していた。
「……誰だよ、ルカって」
乾いた声でそう呟いた、その刹那。
蒼一の目に映るクラスメイトたちの顔が、一斉に、誰も彼もが知らない顔に変わっていた。
世界が、音もなく、“一段階”、書き換えられたのだ。
世界が変わっていく音がした。
時計は進むのに、記憶は戻れなかった。
それでも僕は、君の名前だけを、呪いのように覚えていた。




