光明
夕焼けが部屋に差し込み、視界を嫌に照らす。カーテンを閉め、真っ暗な自室。僕はベットに倒れる。
学校、辞めようかな。本気で思った。明日どんな顔して登校すればいいんだ。もうクラス中で広まっているかもしれない。
僕が園川さんのことが好きで、振られたと。いや、そもそも僕が園川さんのこと好きだなんていう根拠はどこにもないわけだし!
まだ振られたわけじゃないし!
振られてないから!
誰に弁明しているのかわからないが、必死に心の中で訴える。
ベッドの上で暴れまわり、布団に顔を押し付ける。
なんであんなことしてしまったんだろう……。
新学期でテンションが上がってしまったのだろうか。春だからといって何か新しいことが始まると期待してしまったのだろうか。だとしたら僕は小説の読みすぎだ。そんな都合よくラブストーリーははじまらない。
そうだ。僕に普通の恋愛なんて無理なんだ。そう自分に言い聞かせてきたからか、僕の恋愛経験はゼロだ。
生まれつき耳が聞こえず、他人とのコミュニケーションはどこか一線を引いたせいで生まれて15年、家族以外の人と仲が深まったことはほとんどなかった。ゆえに、恋愛感情を持つこともなく育ってきた。
相手のことを知らずに恋愛感情を持つのは無理だと思っていたし、仮に恋愛感情を持ったとしても、そんな行き当たりばったりな感情は一時の感情の高ぶりに過ぎない。そんなの本当の恋愛ではないと思っていた。
はっきり言って、一目惚れなんて馬鹿げていると思った。そんな僕がまさか、一目惚れなんてするとは思いもよらなかった。叶わないとわかっていて恋に落ちるなんて不幸になるだけだ。
そんなことわかっているのに……。どうしてか、僕は彼女に恋をしてしまった。
彼女なら恋が実ると思っているのか。
いや、それはない。
ただでさえ、僕は耳が聞こえず話せないから、普通のコミュニケーションがとれない。ましてや彼女は目が見えない。話すことでしかコミュニケーションをとれない彼女とどうやって仲を深めろというのだ。
真っ暗やみの天井を仰ぎ、手のひらを伸ばす。
いつだってそうだ。
僕が欲しい普通は、誰もが手を伸ばせば手に入れられる。
僕は、たった耳が聞こえないというだけで、多くの人が享受できる幸せを得ることができないのだ。家族と言い合いになることも、ただ学校でおはようとあいさつを交わし、休み時間にはくだらないことを言い合って笑いあい、放課後はゲームをしてばか騒ぎをする。
そんな当たり前なことが僕にはできない。
伸ばしていた手のひらは空を切り、暗いベッドに落ちてゆく。
どうすれば、彼女にこの思いが届くだろうか。またしても、僕は普通にはなれないのか。
体が暗やみに吸い込まれているかのように体が重くなってゆく。
僕はその力に抗わず、沈み、ゆっくりと目を瞑った。
僕は、何もできない。
小さな光が暗やみの海の中に灯った。僕は泳げないで、ひたすら海の中を沈んでゆく。小さな光を見つめるだけだった。きっと、普通の人は泳いであの光に手を伸ばすことができるのだろう。僕は違うから。普通じゃないから。あの光を物欲しそうに眺めることしか許されない。
いっそのこと、光なんてなければいいのに。
何かを望み、手に入れたいなんて思わなければいいのに。
世の中はいう。
生きているだけで幸せだ、と。
毎日、三食ご飯を食べられて、戦争もせずに平和に暮らせるだけで幸せだ、と。
だから僕も、きっと幸せなんだ。毎日、そう自分に言い聞かせている。
でも、当たり前のこともできずに、何かを望むことがただひたすら虚しく感じる人生なら……
暗やみのどこかから聞こえた気がする。口には出せない言葉が脳に響く。
生まれてこなければよかった。
暗やみの海の中を沈んでゆく。小さな光が視界から消えるよう願い、意識を遠くに捨てゆく。深い眠りにつくと、望んでもいない明日がやってくる。
明日はやってこなかった。明日がやってくる前に、邪魔なやつがやってきた。
衝撃が走る。
「―――っ」
声のない悲鳴が上がる。一瞬で目が覚めた。
何事かと思い、起き上がろうとするものの体が重く起き上がれない。何か重いものが腹の上に乗っかっているようだ。
はあ。
心の中でため息をする。
こういうときは大体あいつだ。僕は布団に乗っかっているこいつを蹴り上げるようにして、ベッドからどかす。床に強い衝撃が走り、そいつが勢いよく起き上がった。
『何するの!? お兄ちゃん!』
『それはこっちのセリフだよ』
僕は部屋の電気を点け、手話で理不尽な抗議をするやつに反論をする。
『家に帰ってきて挨拶もせず、暗い自分の部屋でくたばってるお兄ちゃんを心配しに来た妹に対してそれはひどいね。思いやりがない。これだから最近の若者は』
『お前のほうが二歳若いだろ』
肩を竦めて僕に呆れた目を向けるのは生意気な妹、菜穂だ。
僕の母校でもある瞭綜中学校3年、バスケットボール部キャプテンで生徒会長。どうやら、学校では人気者で人望も厚いようだが、家での菜穂からその面影は一切感じられない。横暴で、唐突で激しい。その活発な性格は容姿にも表れている。
生まれつき茶色の髪は短く切りそろえられており、白い肌は適度な筋肉によって支えられている。
手にはテーピングがされており、部活を真剣に取り組んでいる様子が見られる。
今、腕相撲をしたら勝てる気がしない。僕と同じブラウンの瞳で、僕よりも大きい目で僕を睨みながら、手話をする。
『そういうこと言ってるんじゃない。どうせお兄ちゃんのことだから、また、青春真っ盛りな中学生みたいに悩んでるんでしょ』
『現役中学生が言うな。お兄ちゃんはお前が思ってるよりも高度で崇高なことで悩んでるんだよ。例えば、そうだな……どうしたら世界が平和になるだろうとか――』
僕は机に置いてあるノートに〈崇高〉と書き、それを突き出す。
『崇高って意味わかってる?』
ノートを机の上に戻す。
『それよりどう? 学校では色々頑張ってるのか。今年は受験だから勉強頑張らないとね』
菜穂は目を細める。
『お父さんか。というか、ごまかすな。私はそのまま瞭綜高校に繰り上げだから受験関係ないし』
『そんなー』
『なに、ご不満?』
菜穂はテーピングをしてある手で拳をつくる。
『いえ、立派で尊敬している妹様と同じ高校に通えることが嬉しくてたまりません。神様に感謝』
『よろしい』
菜穂は拳を降ろす。
殴られなくてよかった。というか、そのテーピングは飾りですか。お兄ちゃんにもそういう時期があったぞ。怪我もしていないのに腕にテーピングを巻いて登校していた時期が。
封印されし左腕が解放されたとき、半径20メートル以内にいる人間は無条件で全員死ぬという強烈な呪いだ。一度も解放されることなく、母親に指摘されて一日でその呪いは解けたがな。忌まわしき過去を思い出し、額の汗を拭う。
閑話休題。
『お前なら、もっといい学校いけるんじゃないの? もっとバスケが強いところとか』
菜穂は勝手に僕のベッドに座り、短い髪をくるくるといじる。
『べつに、ずっとバスケやるつもりないし。瞭綜高校は大学進学率良いから』
『もう大学進学なんて考えてるの? なにかやりたいことでもあるの?』
我が妹ながら大したものだ。僕なんて明日のことを考えるので精一杯なのに。
『うーん、まぁ、なんとなくはね』
ばつの悪そうに、髪をいじる。妹のしおらしい姿は珍しく、面白おかしく菜穂の肩をひじで小突こうとする。
『なんだよ。教えろよ――っ』
『触んな。キモいから! ホントキモいから!』
思い切り腹パンされた。審判、今のファウルですよね? この子僕の部屋から退場させてくれませんか!?
僕が床でうずくまっていると、菜穂は顔を赤くし、続ける。
『医療とか福祉とか、なんとなくいいかなーって思ってるだけだから。お兄ちゃんは関係ないから!』
『なんのこと? というか、まずは腹パンされてうずくまってるお兄ちゃんに何か言うことはないの?』
『進路の話!』
『ああ、それね』
いや、お兄ちゃんに対する謝罪の言葉はないのかよ。そんなことをいったら、また鉄拳がくるかもしれないので黙っておく。
僕は腹をさすりながら、ベッドに座る。
『そういうお兄ちゃんは何かやりたいこととかないの? もう高2なんだから進路の話とかあるでしょ?』
大きな瞳で見つめられる。
『あー、べつにないかな。強いて言うならお前のヒモになりたい』
『はあ? 馬鹿じゃないの!?』
菜穂は再び顔を赤くする。
『なんだよそんな必死になるなよ。もしかして、まんざらでもない?』
『何か言うことはある?』
『不快な思いをさせてしまい、大変申し訳なく思っております。どうか裁判沙汰にしないでいただけると幸いです』
殺意を込めた表情の妹様に渾身の土下座をかます。
『うむ。よきにはからえ。苦しゅうないぞ』
菜穂は腕を組み、胸をはる。
いや、何様?
再び僕はベッドに腰を掛ける。
『で、なんの話だっけ?』
『だから進路の話! お兄ちゃん将来何かやりたいことないの?』
二度も聞くということは真剣に聞いているみたいだ。
『あー、いや、本当にやりたいこととかないんだよ』
『そう、なんだ』
事実だ。実際僕には将来これをやりたいとかっていうのは特にない。むしろ、高校2年生で将来設計をしている人なんているのだろうか。将来、ずっとその仕事をやり続けると考えると荷が重いし、面倒くさい。それが現役高校生の素直な感情だ。
でも、それが僕の本当の感情かどうかは定かじゃない。僕は普通じゃないから。何か当たり前なことでも望んでしまえば、それはきっと叶わない。そんな風に思う僕がどこかにいる。何かを望んだら、それが叶わないとわかった瞬間、ひどく虚しいから。
だから、普通に夢を抱き、それに向かって進む菜穂が羨ましく、妬ましい。
菜穂は僕と違って普通に耳が聞こえる。
どうしてナホはママとはなせるの?
どうしてパパとたのしくわらいあっているの?
どうしてボクだけ、だれともふつうにはなせいなの?
どうしてボクだけなの――
幼いながらも覚えている。
妹が普通に誰かと会話しているのを見て、僕は絶望した。
それからだ。僕が何もかも興味を持てなくなった。何かに興味を持ったとしても、それは自分の手に届かないものだから興味がないものだと自分に言い聞かせるようになった。
そんな僕に、将来の夢なんてあるわけがなかった。
『お前が羨ましいよ。菜穂』
僕は言外に秘めた気持ちを出さぬよう努めて微笑む。
『なにそれ』
菜穂は眉間に皺を寄せ、睨む。
『……なんだよ』
怒りを露にする美穂に気後れする。先ほどまでの冗談の怒りじゃない。
本気で怒っている。
「――!」
菜穂が顔をゆがませ、何かを叫び、僕の部屋から飛び出した。
いったいなんだっていうんだよ……。
僕は再びベッドで横になり、スマホを弄ろうとしたが、年季の入ったスマホはすでに充電が切れ、眠っている。黒い画面に映るのは冴えない普通の高校生。いや、必死に普通を装う未完成な人間の姿があった。僕はきっと何者にもなりたくないのだ。何かになったとしても、それは未完成だから。
小学生のころ、僕は卒業文集でこんなことを書いた。
〈僕は、中学生になったら部活動に入って、勉強もいっぱいして、友だちもいっぱい作って楽しい中学校生活を送りたいです〉と。
そして、中学の卒業文集では――
〈僕は、高校生になったら文武を両立し、たくさんの友人とともに充実した高校生活を送りたいです〉
なに一つ叶っていない。
小学生のときに書いた目標も中学生のときに書いたそれも、傍から見たら大したことないかもしれない。でも、僕にとっては最大で最高の目標で希望の光だった。
しかし、希望の光は、僕には眩しすぎた。希望はときにひとの心を燃やし、塵にする。何度も何度も希望の光に手を伸ばし、そのたびに身を焦がし、枯れゆく。
灼熱の砂漠の中をただひたすら歩いても、一向にその光に近づくことはできない。それどころか、光に近づけば近づくほど、身が焦げ、憔悴してゆく。
焦げた心は砂漠にぽろぽろと落ちてゆく。
必死に落ちた心の欠片を拾おうとしてもそれはすでに塵となり、消え失す。心があった場所は、ぽっかりと穴が開いている。
ああ、僕には無理なんだ。生きてから高校一年生の頃までは何度もそれを繰り返していた。希望の光を見つけるたびにそれを追いかけ、身が焦げ、心が塵になってゆく。
もう疲れた。
どうせ届かないのであれば、絶望の海に沈んでいったほうがましだった。何もなくて寂しいけれど、心が焦げ、塵になることもない。絶望の闇の中ほうが、涼しく、落ち着くんだ。何も望まない。何も求めない。そう心に決めたはずなのに、僕はまた希望の光に手を伸ばしてしまった。
園川奏という希望の光に手を伸ばし、再び散った。
僕は何度間違えば気が済むんだ。スマホに映る真っ黒な自分を睨む。映る自分が憎く、怒りを拳に込めぶつける。拳に痛みが走り、余計に腹が立った。
手をぶらぶらと揺らす。痛みをこらえている間、僕はあることに気づいて血の気が引いた。スマホの真っ黒な画面に、右肩上がりの斜線が入っていた。
おいおいおい! 嘘でしょ!?
勢いよく起き上がり、画面を凝視する。何かの拍子で付いた汚れかもしれないと、僕は袖で画面をこすってみるものの、その斜線、ヒビは消えなかった。
やっちまった……。
年季が入っており、替えどきだったとはいえ、愛着も湧いていた。それに八つ当たりしてしまうなんてどうかしていた。急いでベッドの近くにある充電器をスマホに挿す。
真っ暗でヒビの入った画面は白くなり、電源が入った。
よかった……。壊れてはいない。それでも、割れた画面はなおらない。
一度傷ついたものは、治りはしないのだ。
どれだけ時間が経っても、風化してゆくだけだ。
割れた画面を見つめて、余計に虚しくなった。まるで、自分の心のようだと思ったから。
まだ、割れただけで壊れてはいない。でも、これ以上の衝撃を与えてしまったら壊れて、取り返しがつかないだろう。愛着のあるスマホのことか、今の自分の心のことか。それは本人でもわからなかった。
もう、園川奏には近づかないでおこう。これ以上、傷つけたら壊れてしまう。
僕はスマホを置き、部屋の電気を消そうとする。
瞬間、部屋の扉が勢いよく開けられた。そこには、先ほど怒り心頭のまま部屋を飛び出した妹、菜穂がノートパソコンとスマートフォン、それらを繋げるケーブルを持っていた。
菜穂はそれらを僕の机に置き、未だ眉間に皺を寄せながら手話をした。
『忘れてた』
『何が?』
『本当は今日、これをお兄ちゃんに見せるために来たのに、お兄ちゃんが無駄にへこんでたせいで忘れてた』
菜穂は置いたパソコンの電源を点け、何か操作を始めた。
『無駄とはなんだ。それで、見せたいものって何?』
『ちょっと待ってて』
菜穂は椅子に座り、パソコンを操作している。アプリケーションを立ち上げ、スマホをパソコンに繋げた。しばらくして、パソコンを閉じ、今度はスマホを操作したと思ったら、
「――!」
怒りをスマホに叫び、こちらを睨みながらスマホを差し出してきた。
画面には、『バカ!』という文字が入力されている。
『なにこれ?』
「――――――」
僕が首を傾げると菜穂は再び、スマホに何か話しかけている。その後再び、僕にスマホの画面を差し出す。そこには
『お兄ちゃんがバカってこと』という文章が書かれている。
『いや、それはわかるけど』
『なんだ、自覚あったんだ』
今度は手話をしながら僕を冷笑する。
『いや、それはわからないけど。そうじゃなくて、そのスマホで何してんの?』
尋ねると、菜穂は誇らしげに手話をしながら話し出す。
『これね、孝則くんが作った画期的なアプリなんだよ!』
『誰だよ孝則くん』
『知らないの? 私の同級生、東孝則くん。お兄ちゃんの担任の先生の子どもだよ』
『あの人子どもいたんだ。というか今どきの中学生ってアプリとか作れるの?』
『まあ、瞭綜学園は色んな特技を持っている人が多いしね』
『あー、たしかに』
うちの学校、瞭綜学園は小学校中学校高校大学とあり、特別推薦という制度を導入している。
特別推薦とは、学業、部活動、その他秀でた能力を持った者が瞭綜学園からスカウトという形で入学できる制度だ。
菜穂は昔からやっていたバスケットボールの実力と勉強ができていたから推薦された。他には、歴史ある花屋の息子で、花のことならなんでもわかるという理由で推薦されたという生徒もいる。ちなみに僕の友だちだ。
そういうわけで、瞭綜の生徒は秀でた芸を持つ者が少なくない。パソコンが得意でアプリケーションを自作できる生徒がいても不思議ではないのかもしれない。
ちなみに僕は、なぜかわからないが推薦されたので、なんとなく中学から瞭綜に入学した。
菜穂は満面の笑みで話し出す。
『このアプリをですね、なんと! お兄ちゃんにプレゼントしたいと思います! まあまあ、そんな手放しに喜ばなくてもいいよ。そうだなー、お返しはスペシャルな〈百花繚乱 春の桜花パフェ〉で――』
『え、いらないけど』
『なんでよ!?』
菜穂はギョッとした目で僕を見やる。
『だって使わないし。家族ではこうして手話で話してるし、そっちのほうが慣れてる』
『いやでも! 友だちとかと話すとき便利じゃない!?』
菜穂は必死に訴える。
『僕、そんなに友だちいないから』
『あっ……』
菜穂は口元に手を抑え、後ずさる。
いや、やっちゃった……。みたいな反応やめて! いるから! 一応、ひとりはいるから! でもそいつは手話ができるから、それは必要ないだけだから!
僕が心の中で抗議していると菜穂は再び食い下がる。
『でもほら! 新しい友だち作ったり、彼女つくったりしやすいんじゃない?』
『お兄ちゃん、彼女いない前提で話しされるの傷ついてるよ。どうしてそういうこというの?』
『つべこべ言わずスマホを渡せ』
凄まじい形相で見下される。
『仰せのままに』
僕は仕方がなく、スマホを充電器から抜き菜穂に渡した。
『なにこれ、画面割れてるじゃん』
『ああ……ちょっとね、転んじゃって』
『はぁ、本当にお兄ちゃんは仕方がないね。私がいないとしょうもないんだから』
菜穂は上機嫌に肩を竦める。
『そう思うなら、僕にずっと付き添えよ』
冗談でいう。どうせまた、キモいと一蹴される。
『まあ……たまになら、いいけど。部活で忙しいからホントにたまにだよ!』
『お、おう。ありがとう』
冗談を素直に受け取られ、つい、困惑してしまう。菜穂はたまにこういうところがある。
横暴でわがままだけど、どんな時でも頼んでなくても僕が困っていたら喜んで僕に手を差し出す。今もそうだ。わざわざ友人が作ったアプリケーションを僕に紹介している。
僕が友だちを作れるようにと。当然、悪い気はしない。いや、正直すごく嬉しい。
どうして妹が僕にそこまでしてくれるかわからないが、菜穂の手助けのおかげで僕は何度も救われている。感謝がつきない。菜穂が妹で本当によかったと思う。こんな僕にも何の隔たりを持たずに接してくれるのは嬉しい。
でも、同時に暗澹たる気持ちが心の中で湧いてしまう。常に僕は、妹に支えられ、救われる立場なんだと意識してしまう。人を救える人間というのは、救えるほどの力が自力であるということだ。
僕は常に妹から支えられているだけで、僕は妹を支えていない。そのことに罪悪感があるというのも事実だ。しかしそれ以上に、自身の欠けている部分を強く認識してしまうのだ。
お前は未完成で欠けている、そう暗闇の中の自分に言われているような気がして、そのたびに自身の無力さを自覚してしまう。そんな風に思ってしまう自分に余計嫌気が差す。あとは抜けられない負の無限ループを繰り返す。
それが、僕が友だちをほとんど作らない理由の大きな要因だった。
今までの人生、僕を珍しがってか、僕に声を掛け、積極的に話しかけてくる人が何人かいた。彼ら彼女らは無償の奉仕を僕に施した。学校行事の校外学習で工場見学に行った際には、ガイドの人の通訳をしてくれたり、授業で先生の説明を聞けず理解に苦しんでいた時には、頼んでもいないのに授業後、ノートを見せてくれる人もいた。
彼らの好意はとても助かった。
彼らがいたからこそ、僕は高校生活の数か月、普通科の生徒として過ごすことができた。本当に感謝している。でも、同時にとても不安だった。彼らは、僕に何を求めているのだろう。素直に好意を受け取れなかった。彼らが僕に奉仕をしてくれるのは、何かの見返りを求めているのではないだろうか。
そう思うと、彼らの奉仕に嫌気が差し、手を差し伸べられるたびに不愉快になっていった。今思うと、本当に自分勝手で自意識過剰だと思う。彼らには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
それに、本当は気づいていたんだた。彼らが僕に何も求めていなかったことを。
彼らはただ、困っている人に手を差し伸べていただけだったんだ。
そこには、自愛の気持ちもあったのだろう。それはべつにどうだっていい。
でも、彼らの奉仕を受けることは、すなわち、僕自身を困っている人だと言っていることと同義だった。それがとてつもなく嫌だった。
たしかに僕はみんなとは違う。普通の人間じゃないかもしれない。でも、僕はそれを否定したく、自分の存在を肯定するために普通科でみんなと同じように普通の学校生活をしたかった。
しかし、彼らはそれを否定した。誰かに手を差し伸べられることは、必ずしも本人の救済にはならない。手を差し伸べられている時点で、当の本人は救われていないのだ。本当に、自分のわがままさと自意識過剰さが嫌になる。
こんなことを考えずに生きられればいいのにと思う。
普通科から特別支援科に転科する際に、親には相談した。しかし、さきほどのことを言っても、理解されなかった。そんなものは気持ちの問題だ、とまで言われた。
わかっている。気持ちの問題だ。でも、気持ちの問題こそ、本人にはどうしようもないのだ。どうしようもなく、僕は普通科という現状から逃げ出すしかなかった。
逃げたってどうしようもならない。結局、学校を変えなければ再び、彼らに合うことはある。多くの生徒や教室、体育館を見る度に去年のことを思い出し、虚しくなる。
いっそのこと転校すればよかったかもしれない。僕のことを誰も知らないところで、ひっそりと過ごせばいい。そう思ったのにも関わらず、どうして僕は転校をせず、今もまだ瞭綜高校に居続けているのだろう。
きっと、僕は今でも暗闇の海の中で、ずっと手を伸ばしているのだ。
運命なんて信じない。幾度も運命というやらには裏切られてきたから。もし運命なんてものがあるなら、それは呪いだ。でも、呪いでもなんでもいい。希望の光があるなら、どうしても手を伸ばしてしまう。呪いなんだから、気持ちの問題だから仕方がないさ。
もう一度、光に手を伸ばしてみよう。
何度目だろうか。失敗したら傷つき、心がぼろぼろになるだろう。でも、それも運命なんだから仕方がない。
何度でも、何度でも僕は手を伸ばす。
『ちょっとはマシな顔になったじゃん』
菜穂が僕の顔を見つめる。
『なに? 僕に惚れた?』
『キモい。まあ、死んだ目でいるよりは今の方がまだほんっの少しだけましかもね』
菜穂は歯を見せ笑う。
『なんのことだよ。で、ダウンロードはしてくれた? そのアプリ? だっけ?』
『うん。できたよ、ほら』
菜穂は僕にスマホを渡す。
画面を見ると、〈でんごんくん〉という文字が表記されており、紙コップをさかさまにし、かわいらしい表情をしたキャラクターがいる。
『なにこれ』
僕が怪訝な目で菜穂を見ると
『さっきナホが使ったでんごんくんだよ。かわいいでしょ! そのキャラクターと名前はナホが考えたんだー』
『なんで紙コップ?』
『糸電話をモチーフにしてるの!』
『へー』
『まあ、どうでもいいことは置いといて、孝則くんが作った素晴らしい〈でんごんくん〉について説明するよ。画面をタッチすると、文字を入力する画面が出るでしょ。そこに文字を入力して、画面下にあるスピーカーボタンを押すの。やってみて』
僕は菜穂に言われた通り、画面に文字を入力してスピーカーボタンを押す。すると、微かにだがスマホに振動が走る。何か音声が出ているようだ。
『菜穂は横暴な妹です』
菜穂に無言で睨まれる。無事に伝わっているようでよかった。
「――――――――」
菜穂がスマホに向けて何か言う。すると、一秒ほど経過したのち、画面には文字が勝手に入力される。
『で、こうやってスマホに向けて話しかけると、文章が自動で入力されるわけ』
おー、すごい。多少、会話にラグがあるものの、会話が成立している。これなら、手話を知らない人とも円滑にコミュニケーションがとれるかもしれない。
つい、感動してしまいテンションが上がる。
『すごいなこれ! 大発明なんじゃないか!? これを使えば手話を使わなくてもひとと話せるってことだよね』
『そう! もしこれで友だちできたら何かご褒美ちょうだいね!』
菜穂は楽しそうにいう。
でも、こればかりは仕方がない。成果に見合った報酬は払わなければならないだろう。
『わかったよ。でも……これで、どうやって友だち作ればいいんだ』
人と話す手段があっても、話す動機がなければ宝の持ち腐れだ。
『うーん、とりあえず適当に使ってみればいいじゃん。周りの反応も変わるだろうし。それに、お兄ちゃん好きな人とかいないの?』
痛いところを突いてくる。僕は一瞬で、園川奏の顔が浮かんだ。園川奏とコミュニケーションをとるのは至難の業だ。僕は耳が聞こえないし、園川奏は目が見えない。
これで、どうやってコミュニケーションをとればいいのだ。
いや、待てよ……?
この〈でんごんくん〉を使えば園川奏とコミュニケーションが取れるのではないか?
機械を通して会話することに多少、抵抗があるが、そんなことはいっていられない。
暗やみの海の中から光明が差した。
『菜穂! やっぱ、この〈でんごんくん〉最高かもしれない! ありがとう、菜穂!』
僕はテンションが上がったまま、菜穂の手を握る。
すると菜穂は頬を赤くし、手を思い切り離した。
『さわんなっ! お兄ちゃん手ぇ熱いの!』
『ごめん。つい、テンションが上がっちゃって』
顔を紅潮させるほど熱いって、僕の手はどうなっているんだ。
菜穂が微笑む。
『お兄ちゃんが喜んでくれて、よかった』
『うん。喜んでるよ。どうした急に』
そう僕がいうと、菜穂は髪をくるくるといじる。
『さっき、お兄ちゃん、ナホのこと羨ましいっていった』
『ああ、そうだね』
さきほど菜穂はその台詞に激怒し、外に飛び出していった。どうして怒ったのか、理解できないままだった。
『お兄ちゃんはそういうけど、ナホは、ずっとお兄ちゃんが羨ましかった』
『え』
『お兄ちゃんは、ナホの憧れなの』
『そう、なのか』
僕のどこに憧れを抱いているのか本気でわからない。
まさか、僕の過去のことを言っているわけではないだろうし。
『だから! お兄ちゃんをバカにするのは、お兄ちゃんであろうと許さないから!』
『わかったよ、ごめん。僕が悪かった』
菜穂は再び頬を膨らませる。
『違う。謝ってほしいわけじゃない』
誤ってほしいわけじゃない。だとすれば――
それがわからないほど、僕は鈍感じゃない。
僕は、手のひらを菜穂の頭に乗せた。
『ありがとう、菜穂』
「――――――――」
菜穂は顔を紅潮させ、手を頭の上から払う。そして、僕のスマホに何かを叫び、パソコンとスマホ、それらをつなぐケーブルを持って僕の部屋から飛び出していった。
スマホには文章が入力されていた。
『お兄ちゃんのばーかっ! お兄ちゃんはバカなんだから、何か困ったことがあったらナホに頼りなさい! ナホだけを頼りにすればいいの!』
スマホを見て、つい笑みが零れる。妹にここまでやってもらって、頑張らないわけにはいかないよな。僕はスマホの画面を消し、見つめる。
映るのは、希望を手にした自分。
絶望に打ちひしがれる自分はもう、割れていなくなっていた。