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アネモネをきみに  作者: 影山ナイト
14/16


 暗澹とした雲が空を漂う。


 降水確率は40%。今朝は晴れていたので傘は持ってこなかった。

 ぼーっとしながら空を眺める。なんの感情もなく、ただひたすら流れゆく雲を見つめる。


『久しぶりだな、こうして屋上で会うのも』

『うん。そうだね』


 放課後、僕は一般棟の屋上に足を運び、親友の蘭太郎と一緒にいた。


『園川さんに歩取られちゃったからな~。今日は彼女と一緒じゃないのか?』

 蘭太郎が花の様子を確認しながら、問うてくる。


『今日は休みみたい』

『ふーん、そっか』


 太陽がまだ顔を出していた早朝、僕は希望と緊張を胸に抱き登校した。お花見の後渡したアネモネ。


 その意味を彼女が知ってしまっていたら、どうしよう。どんな顔して会えばいいのだろう。不安が渦巻いた。


 でも、彼女に会いたい。会って、他愛のない話をして、笑って、ごく普通の楽しい日常を過ごしたい。それで、放課後は雨が降ってるからと親に迎えに来てもらう。その間、園川さんと放課後、時間を共にし、よければまた音楽室で演奏をききたかった。でも、なにひとつ自分の思い通りの理想にはならなかった。


 今日は放課後まで時間が長く感じた。


 園川さんがいるときは、お昼どうやって誘おうとか、誘ったらどんな話をしようとか、放課後少し話せるかなとか、そういうことを考えているうちにいつの間にか一日が過ぎ去っている。


 でも、今日は違った。彼女はいない。


 体調でも悪いのだろうか。だとしたら、お見舞いにでも行きたい。迷惑だろうか。


 もしかしたら、彼女が僕の気持ちに気づいて、それが原因で学校に来なかったのではないだろうか。いろいろな思考が錯誤し、混ざってゆく。


 水彩画を描くときに用意する水の容器のように、黄緑色の水がゆらゆらと僕の頭の中を揺らいでいる。


 最近はあまり感じなかった感覚だ。

 僕の瞳に映し出す世界ははりぼてで、何もかもがつまらない偽物のように感じる。


 またか……。


『そういやあの花(・・・)、園川さんに渡せたのか?』


 蘭太郎が切り出す。

 あの花(・・・)とは、先日のお花見の後に渡したアネモネのことだろう。

 あのアネモネは蘭太郎にラッピングしてもらった。


『うん。渡せたよ。でも――』

『そうか! 渡せたならよかった! 反応はどうだった?』


 蘭太郎がいきいきとしている。


『ありがとうって言ってくれたよ』

『それでそれで?』

『それだけだけど』

『そうか』

『うん』

『……どうした歩。暗い顔して。振られでもしたか?』


 真剣な表情を向けられる。


『いや、そういうわけじゃないと思うけど……』

『じゃあなんでそんな暗いんだよ? 俺にならなんでも話せよ』

『……園川さん、どうして今日休みなんだろう』


 空を見上げても答えは返ってこない。灰色の雲が僕を見下げているだけだ。


『聞いてみたらいいじゃん』


 蘭太郎は簡単なことだといわんばかりに言う。


『園川さんとは連絡とれないよ』


 園川さんの電話番号は知っている。

 でも、電話をしたところで僕は話せない。話せなければ、彼女と意思疎通はとれない。


『いや、そうじゃなくてよ。普通に先生に聞けばいいんじゃねえの?』

『……その手があったか』

『思いつかなかったのかよ』


 蘭太郎は笑う。思いつかなかったわけじゃない。でも、どうしてかききたくなかった。

 嫌な予感がする。


 それをきいてしまえば、残酷な現実が待っているような気がしたのだ。


『園川さん、目の手術をするみたいなんだ』

『え!? マジ!?』


 蘭太郎は飛び上がり、驚く。


『うん』

『そんじゃ、その手術を今日してるってことか?』

『いや、わからない。手術の日程は決めてないって前に言ってたから。それが本当かどうかわからないけど』


 蘭太郎は僕の前に座り、僕の肩を掴む。


『じゃあ、確認しなきゃだろ』


 真っ直ぐ見つめられる。僕は目をそらす。


『蘭太郎がそういうこと言うのは珍しいね』


 蘭太郎は僕が悩んでいるときには、あえて何も言わない。そして、僕が道を選んだら背中を押してくれる。こうして、僕自身の問題を強要することは今までになかった。


『お前はふわっとした性格のわりに、自分の意思を強く持って、それに従って行動できる勇気のある人間だ』

『そんなんじゃ、ないよ……』

『でもな、それはお前が常に、正しいと思うことを考えられる人間だからだ』

『…………』


 よく意味がわからない。


 僕は蘭太郎の言う勇気のある人間でも、強い意思を持つ人間なんかじゃない。


『お前はいま、考えてるか。自分がなにをすべきかを。いや、きっと考えたんだろうな。お前は人一倍無駄に考える人間だもんな』


『……無駄は余計だ』


 言い返せてもどうしようなないことしか言い返せない。考えたさ。

 僕は、いま、現実に向き合うべきだ。でも、向き合ってしまったら、今僕の手のひらにある希望の光がこぼれてしまいそうなんだ。


『なら、いまお前がすべきことはわかってんだろ』


 蘭太郎は今もなお、僕を真っ直ぐ見つめる。


『今のお前のことは、応援できない』

『え?』


 顔を上げる。


『俺はおまえの意思を絶対に否定しない。でもな、意思のないおまえのことは絶対に肯定しない』


 蘭太郎は淡々と、しかし力強く言う。


 僕の耳には届かないけれど、蘭太郎の意思は僕の心に響き渡る。


『大丈夫だ。お前なら絶対、前に進める』


 僕の瞳を真っ直ぐ見つめる。僕を、信じてくれている。

 蘭太郎は、ちょっと過大評価だけど、ちゃんと僕のことをわかってくれているんだ。


『どうして……』

『ん?』

『どうして蘭太郎は、僕にそこまでしてくれるの? 僕は、蘭太郎にそこまでしてあげていなのに』


 蘭太郎は顔をしかめ、頭を掻く。


『そんな簡単なこと聞くなよ』

『ご、ごめん』

『親友だからだ。親友はギブ&テイクなんて必要ない。親友が困ってたら、力になる。当たり前だろ』


 蘭太郎は照れ臭そうに目線をそらす。僕はつい、笑ってしまう。


『なに笑ってんだよ!』

『いや、ごめん。ありがとう。親友って今までいたことないからわからなかったよ。本当に、ありがとう。僕の親友でいてくれて』


『礼を言われる筋合いなんてないよ』

『そっか』


 親友同士笑いあう。ちょっとして再び、蘭太郎は真剣な表情をする。


『たぶんだけどな、おまえにとってつらい選択が待ってるかもしれない。でも、どんな選択でも、親友が決断したことは絶対に応援してやる。だからビビるなよ』

『うん』


 蘭太郎は僕に手を伸ばす。僕はその手を掴み、立ち上がる。


『行ってこい、親友』

『うん』


 蘭太郎は僕の背中を強く押す。

 押す力が強く、転びそうになるのをなんとか堪え、その勢いのまま僕は走り出した。



 息をきらしながら、職員室の前に立つ。

 手のひらを見つめる。汗をかいて、少し湿っている。希望の光がなくなることを恐れてか、手は震えている。でも僕には、応援してくれる親友がいる。


 大丈夫だ。僕は、親友が信じてくれる自分を信じる。

 手を強く握りしめ、胸を叩く。意を決して、ノックし職員室に入る。


 コーヒーの匂いが鼻を刺激する。教室と同じ木の床には綺麗にワックスが塗られており、ごみひとつ見当たらない。

 僕は顔を上げる。


 職員室の奥の方に、東先生がいた。

 僕は大きく一歩を踏み出し、一歩ずつ東先生の座る席に近づく。


 2mほど近づいたところで、東先生は僕に気づいた。


『……水瀬か。待ってたぞ』


 東先生は疲れた様子でそう僕に言った。

 待ってた、とはどういう意味だろう。


『失礼します。先生に聞きたいことがあってきました』

『来ることはわかってたよ。おまえはそういうやつだ。まあ、座れ』


 東先生は横の空席を指さす。


『いえ、こちらでけっこうです』

『そうか。で、何の用だ?』

『僕が来るのを待っていたってことは、聞かなくてもわかるんでしょう?』

『ふっ、そうだな』


 東先生は机に置いてあるコーヒーを飲み、長い息をはく。


『園川のことだろ? 今日の朝、彼女は休みだっていったろ』

『休みの理由を教えてください』

『単刀直入だな』

『回り道している暇はないんで』


 僕は睨めつけるように、東先生を真っ直ぐ見つめる。


『その割には、聞いてくるのが遅かったな。もう放課後だぞ』

『っ』


 眉間に皺が寄る。


『本当は聞きたくないんだろ? おまえは賢いやつだ。おれが言わなくてもなんとなくわかっているんじゃないのか? つらい現実が待っていることぐらい』

『それでも僕は、知らなければならないんです』

『どうしてだ?』

『それが僕の意思だからです』


 東先生はこめかみを押さえ、ため息をつく。


『おまえには、知られたくないんだがな……』

『どういう意味ですか?』


 そう僕が問うと、東先生は机の引き出しから白い袋を取り出す。


『これは園川から預かったものだ。お前に渡すよう言われている』


 園川さんから預かったもの? どうして僕に?


『なんですか、それ』

『受け取るのか?』

『当然です』

『そうか』


 東先生はしぶしぶといった様子で、机にある適当な用紙に何かメモのようなものを書き、それを白い袋に入れ、袋を僕に差し出した。僕はそれを受け取り、袋の中身を見た。

『手紙と、花?』


 さきほど東先生が入れたメモの紙以外に便せんと花が入っていた。

 白い便せんは桜の花びらのシールで封がされている。

 花は、紫色のアネモネだった。


『おれも中身は知らない。だがおそらく、おまえに宛てた手紙だろう』

『でも、園川さんは』


 目が見えないのだから、文字を書くのは困難なはずだ。


『いいから読んでみろ』


 僕は白い袋を持ちながら、便せんを封しているシールを剥がし、中身の手紙を見る。

 文章はすべてひらがなで書いてあり、ところどころ震えた字で書いてあった。

 それでも一生懸命に書いてあるのがわかる。


 僕はゆっくり、文章を読み始めた。


[みなせくんへ


 わたしはいまびょういんにいます


 かようびにめのしゅじゅつをするためきょうはにゅういんしています


 ごめんなさい


 うそをついていました


 しゅじゅつのひはまえにおんがくしつできかれたときにはもうきまってました


 いうのがこわくていえませんでした


 それともうひとついっていなかったことがあります


 わたしはめがみえるようになったらかいがいにいきます


 ふらんすのがっこうでぴあののべんきょうをします


 すごくすごくさみしいです


 やっとめがみえるようになっても


 みなせくんといっしょにさくらをみられないことがすごくさみしいです


 でもぴあのもすごくすきでぴあののおかげでいまのわたしがいます


 まえにすこしはなしました


 せかいじゅうの


 めがみえないひとたちをぴあのでかんどうさせることがわたしのゆめです


 そのためにはいっぱいべんきょうしなければなりません


 いまのままではわたしはゆめをかなえられません


 まえにすすまないといけません


 でもみなせくんのおかげでわたしはまえにすすめます


 みなせくんがゆうきをくれたからわたしはゆめをおうことができます

 

 さいしょはじしんがありませんでした


 かけているわたしにはゆめをかなえることなんてできないとおもっていました


 でもみなせくんがゆうきをくれました


 ゆうきがあればじぶんのせかいをかえられる


 みなせくんのそのことばでわたしのせかいはかわりました


 だからわたしもせかいじゅうのひとたちにゆうきをあたえたい


 まっくらなせかいをてらしたい


 そうおもえるようになりました


 ほんとうにありがとうございます


 みなせくんのおかげでわたしはまえにすすめます


 でもほんとうはすごくすごくこわいです


 みなせくんがいないとすごくすごくこわいです


 みなせくんがいたからいまのわたしがいます


 みなせくんといるとゆうきがでます


 いっしょにおひるごはんをたべたこと


 いっしょにぱふぇをたべたこと


 いっしょにさくらをみたこと


 いっしょにおはなのべんきょうをしたこと


 いっしょにおはなみをしたこと


 ぜんぶきみといっしょだからできました


 きみといるとちからがでる


 きみといるとすごくたのしい


 きみといるとすごくむねがどきどきする

 

 きみといっしょにいたい

 

 だからわたしは


 きみのことがすきです


 いままでありがとう


 あねもねをきみにおくります]


 視界が歪んでいる。

 自慢の視力がまったく機能をはたしていない。


 雨でもないのに、手に水滴が落ちる。


 どうして、

 どうして言ってくれなかったんだ。


 彼女には立派な夢があることは知っていた。

 でもまさか、海外に行くなんて思わなかった。


 目が見えるようになったら普通科に転科し、人生を謳歌するものだと思っていた。

 東先生が僕に転科願の書類を渡し、その直後、園川さんに会わせたことからそういうことだと確信していた。


 でも、現実は非情で、いつだって僕の予想も都合も自分の通りにはならない。


 残酷だ。


 いったい僕が何をしたというのだ。

 僕は何度、希望の光を見失えば神様は許してくれるんだ。


 どうして……。どうして!


「っ!」


 僕は歪んだ視界のまま東先生を睨みつける。

 園川さんが海外に行くことを東先生は知っていたはずだ! どうして僕に教えてくれないんだ! 園川さんも! どうして嘘を付くんだ!


 そう叫びたくても、叫べなかった。


 東先生は真っ直ぐ僕を見る。

 その目はまるで僕の心を見透かしているようだった。重い口を開く。


『おまえがそのことを知って、おまえはどうする。彼女を止めるのか。それとも彼女の進む道を純粋に応援するのか。おまえに選べるのか?』

『………………』


 何も答えられない。唇から鉄の味が染みる。僕は、彼女と一緒にいたい。でも、彼女は夢を叶えるために海外に行く。僕は、彼女の背中を押すとを決めた。


 でもそれは、彼女と離れ離れになるということだ。

 それでも、僕は笑顔で彼女を送り出せるのか。


 答えは…………迷っている時点で、答えは出ている。

 自分で彼女の背中を押すと決めたくせに、それを自分のわがままで拒絶している。


 そんな醜く、どうしようもなく自分勝手な自分に、今まで人生で抱えてきた劣等感よりも強い嫌悪を感じた。


 逃げ出した。

 醜い自分を誰にも認識されたくない。

 自分自身をどこか遠くに捨てやりたい。

 僕は職員室を後にし、そのまま学校の外までとにかく走った。


 先ほどまでは灰色の雲でしかなかったものは、涙を流し、僕の全身を濡らす。

 雨なんてどうでもよかった。

 ただとにかく走った。

 逃げて、逃げて、とにかく自分から逃げ出したかった。


 しかし、どんなに走って逃げても、自分からは逃れられなかった。


 それに気づいたときには全身が雨で冷え、肺には充分な酸素が取り込めておらず、立っていることすらできなかった。


 僕は倒れ、頭に衝撃が走る。重い痛みが脳を揺らす。木の幹に頭をぶつけたみたいだ。

 そのまま、木の幹に寄りかかる。


 あたりを見渡すと、そこは学校の登下校で通る桜並木の道だった。

 なんでよりによって、ここなんだよ。


 彼女との思い出が頭の中に再生される。


 だがその思い出は、濃く鮮明にあればあるほど、それを失う今、喪失感は比例して大きくなっている。失って当然なのかもしれないな。


 勇気のある人間ならば、彼女を止めるのかもしれない。


 理性のある人間ならば、彼女の夢を応援し、笑顔で背中を押すのだろう。


 僕には、そのどちらもできない。

 ただ、逃げ出すことしかできない、中途半端で、未完成な人間なんだ。


 やっぱり僕は、どうしようもない欠けた人間なんだ。


 そんな僕に、希望の光が手に届くなんてことはあり得ないんだ。


 このまま雨に流され、消えてしまいたい。


 僕は目をつむり、音も光もない冷たい世界に逃げようとした。冷たい雨が僕を責めるかのように突き刺す。

 しかし、その感覚も次第になくなった。


 本当に消えていなくなれたのだろうか。

 目を開くと、上には天井があった。


 いや、天井ではなく傘だ。ビニールの傘が僕を覆っていた。

 どうして傘なんか。僕は茫然としたまま正面を向く。そこには少年が立っていた。


「――――――?」


 何かをこちらに問いかけてきている。

 僕はスマホででんごんくんを開き、見覚えのない少年に向けた。


『誰?』

『大丈夫ですか?』


 少年は僕の問いに答えず、さらに質問で返してきた。

 誰かと話したい気分じゃない。


『放っておいてくれない?』

『すみません。あの、水瀬歩さんですよね?』

『……どうして僕の名前を知ってるの?』


 そう僕が問うと、彼は焦った様子で喋りだす。


『あ! すみません! おれ、瞭綜学園中等部3年の東孝則っていいます。いつも菜穂さんにはお世話になっています! あと、父がお世話になっています!』


 東孝則……どこかで見覚えのある名前だ。それに、瞭綜の中等部3年ということは菜穂の同級生か。


『ああ……もしかして、この〈でんごんくん〉の製作者?』


 たしか菜穂が〈でんごんくん〉を僕に紹介したときにきいた名前だ。


『はい! そうです! ……無事、お兄さんに使っていただいているようで良かったです』


 少年、孝則くんはほっと胸を撫でおろす。


『それと、お父さんが世話になっているって』

『はい! 高等部の特別支援教室で担任をやっている東は僕の父です』


 ああ、菜穂がそんなことを言っていた気がする。どうしてその子が僕の前にいるのだろう。驚きを隠せずにいると、少年は何を思ったのか、僕の隣に腰を落とす。おしりが雨で濡れてしまっている。それよりも気になることがあった。


『僕が無事〈でんごんくん〉を使っているってどういうこと? はじめから僕を対象として作ったみたいな言い方だけど』

『その通りです。おれは、お兄さんに使ってもらいたくて、この〈でんごんくん〉を作り、菜穂さんを通して使っていただこうと思っていました。そう思ってから実行するまでに5年かかりましたけどね』


 孝則くんは苦笑する。


『なんで僕のために作ったの?』


 理由がまったく思いつかない。僕が疑問を呈すると、孝則くんは僕の方を向く。


『それは、おれが一番お兄さんに聞きたかったことです』

『え?』

『おれ、小学生のときにいじめられていたんです。昔から運動も勉強もできなくて、空気も読めなくて、それが原因で周りから執拗な弄りがあって、それがどんどんエスカレートして……』

『大変だったね』

『でも、いじめはなくなりました。ある日、僕の前にヒーローが現れた。それが、水瀬 歩さん。あなたです』

『…………』


 そういえば昔、僕がまだ小学生だった頃、菜穂にちょっかいを出す生徒に注意して、そこから喧嘩にもなったことがある。そのついでに、明らかにいじめのようなことが見受けられたら、そのいじめにも注意をしていた。


『ずっと訊きたかったんです。どうしてまったく見ず知らずのおれを助けてくれたのかなって』

『そんな大したことはしてないよ』

『いえ、お兄さんのおかげでおれは、学校に行き続けることができたんです。お兄さんのおかげで救われた人は何人もいます。お兄さんはおれの学年ではヒーロー扱いですよ』


 孝則くんは嬉々として話し出す。


『でも、全員を救えたわけじゃない。僕が介入したせいで余計に苦しむ羽目になる子もいた』


 僕がどうして他人のいじめに介入していたか、よく考えたことがなかった。

 単純に体がそう動いただけだった。でも、考え無しの行動には必ずツケが来る。


 僕が余計な手出しをしたせいで、いじめが悪化し、結局転校する羽目になってしまった生徒がいた。    


 それを知らされたときから、僕はもう他人のいじめに関与しないと決めた。

 その頃からだった。


 他人に手を差し伸べるという行為に嫌悪感を抱くようになった。

 僕が誰かに手を差し伸べることも、誰かに手を差し伸べられるのも嫌になった。


 後悔している。

 菜穂への嫌がらせに関与したことは家族だし、守るのが当然だ。そこに後悔はない。


 ただ、それだけに飽き足らず、赤の他人の人生にまで、頼まれてもいないのに首を突っ込む。それがどれだけ、醜い行動だったのだろう、と。後悔のやみは消えてなくならない。


 嫌なことを思い出し、さらに憂鬱な気分になっているところ、孝則くんは構わず話し出す。


『たしかに転校してしまった生徒もいました。でも、その子は喜んでいましたよ』


 僕は目を見開き、孝則くんを見つめる。


『今も連絡を取ってるの?』

『ええ、転校した後も、今も連絡を取っています。その子は言っていました。転校することにはなってしまったけれど、救われた、と。他人のために頑張れる人がこの世にはいるんだって知って、それが救いになったと言っていました』

『……そっか』


 僕のしたことは過ちであることは間違いない。でも、少し救われた気がした。


『でも、どうしてもわからないことがあります。どうしておれ達を救ってくれたのか、その理由をずっと訊きたかったんです』

『それを確認するために、この〈でんごんくん〉を作ったの?』

『それも理由のひとつです。でも、おれが〈でんごんくん〉を作ったのは、お兄さんに恩返しがしたかったらからです。それがおれの理由です。おれには、いや、ほとんどの人間は理由がなければわざわざ他人の問題に傷ついてでも首を突っ込まないと思います。でも、お兄さんは違った』


 孝則くんは俯く。


『僕がキミ達の問題にどうして介入したか……か』

『はい。教えてください』


 孝則くんは顔を上げ、こちらに顔を近づける。


『たぶんだけど、特に理由はないよ』

『は?』


 孝則君はきょとんとする。まるで納得できないという表情だ。


『まあ、理由がないっていったら嘘になるか。どういったらいいか難しいな……』

『ゆっくりでいいんで教えてください』

『自分のため、かな』

『自愛や正義感ですか?』

『そういうのも多かれ少なかれあったかもしれない。でも一番は、僕の世界は僕の見えているものだけっていうことだと思う』

『……すみません。よくわかりません』


 孝則くんは頭を下げる。


『いや、ごめん。僕のいい方が悪かった。キミが知っての通り、僕は耳が聞こえない。だから、僕が認識していることのほとんどが視覚だけなんだよ』


 細かくいえば嗅覚、触覚、味覚などあるが、紛らわしいのであえていわない。


『……はい』


 孝則くんは必死に理解しようとゆっくり頷く。


『みんなが感じられる小鳥のさえずりとか、綺麗な歌や曲、友だちと話して笑ったり、そういうことが僕にはできないんだ。僕が認識できるのは、誰かが笑顔になっているか、泣いているか、それぐらいなんだ。菜穂が小学生のとき、家に帰ってきて泣いていた。それを認識することしかできない。僕には見ることしかできないから、見て見ぬふりなんてできなかったんだ。菜穂が泣いている世界は、悲しい世界。そんな世界は嫌だから、変える。見知らぬ他人が泣いていたとしら、それも悲しい世界。そんな世界は嫌だから、変える。たぶん、それぐらい単純なものだったんだ』


 僕の長い話も一言一句逃さず孝則くんは頷き、聴く。


『自分の見たい景色、見たい世界を見るために戦ったってことですか』

『戦ったっていうのは大げさだけど、まあ、そんな感じかな。見えているものだけが、僕のすべてだったから』


 僕がなんとか伝えると、孝則くんは手を顎にやる。


『なるほど……』

『答えになったかな?』


 孝則くんはしばらく考え続けた。


『……はい。わかりました』

『そっか。よかったね』


 真剣な表情をしていた孝則くんだったが、次第に笑顔になる。


『やっぱり、お兄さんはヒーローだっていうことがわかりました』

『……なんでそうなるの』

『見たい景色、あるべき世界のために動く。それはお兄さんだけでなく、誰でもそういうことを行動原理として動きます。でもそれは十人十色です。お金や名誉、欲望のために動く人がこの世界には多いんじゃないでしょうか。それが普通(・・)です。それは何も間違っていないし、誰もそれを否定することはできない。でもお兄さんは違った。お兄さんは、他人の笑顔を見るために戦ったんです。これがヒーローと言わず、なんだっていうんですか!』


 孝則くんは力説する。傘を握る拳には力が入り、震えている。


『はは……ありがとう?』


 僕はそれをきいてどう返していいか、少し照れ臭くなってしまう。

 再び、孝則くんは僕を見つめる。


『でも、今はどうなんですか?』

『え?』

『今は、見たい景色を見られているんですか?』

『…………』


 僕の今の景色。

 暗澹とした雲から雨が流れ、灰色のアスファルトに跳ねる。次第に雨は溜まり、暗澹とした雲を映す鏡となる。鏡は揺れ、世界が歪む。それが今の僕の世界だ。


『見たい景色、見ているようには思えません』


 痛いところをついてくる。


『なんでもかんでも、見たいものを見られるとは限らないんだよ』


 僕は失笑し、空を見上げる。


『見て見ぬふりできないんでしょ? じゃあ、手に持ってるものはなんですか?』

『え?』


 もう何もかもどうでもよくなって気づかなかったが、僕は東先生に渡された白い袋をそのまま持って飛び出してきたみたいだ。袋の中には、手紙と東先生が書いたメモ用紙、そして紫のアネモネが入っている。最初は手紙に気を取られ、気にしていなかったが、このアネモネには何か意味があるのではないだろうか。


 僕は紫のアネモネを手に取り、見つめる。


 綺麗だな。

 たしかアネモネの花言葉は〈はかない恋〉だったっけな。


 まさに今の僕じゃないか。園川さんめ、きついジョークを言ってくれる。

 …………。

 アネモネには、花の色ごとに花言葉がある。

 たしか紫のアネモネの花言葉は――


〈あなたを信じて待つ〉


 僕はアネモネを白い袋にしまい、孝則くんの方を向く。


『ごめん、急な用事ができた』

『はい。行ってください。お兄さんの見たい世界を見てください』


 孝則くんは僕に笑顔を向ける。


 僕は立ち上がった。


『あ、それと孝則くん』

『はい。なんですか?』


 僕は笑顔でいう。


『キミにお兄さんと言われる筋合いはない!』


 孝則くんは苦笑する。

 僕は前を向き、走り出す。


 雨は相変わらず降っており、全身を濡らすがどうでもいい。


 僕には僕の見える世界がすべてなんだ。

 見て見ぬふりなんてできない。


 正しいとか間違っているとか、何を選択するとかどうだっていい!


 ただ見たい景色、世界を見るために走る。


 彼女に会いたい。

 それだけだ。

 それだけで充分だ。



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