虚ろな
春休み最終日。
その日の空は、綺麗な橙色をしていた。
桜並木を音無く歩く。
夕日が桜をオレンジに染め、春風が吹くたびに花びらは空を舞い、凪いでは静まり、まるで生きているかのように動く。しばらく歩くと、目的の場所に着いた。僕はヘッドフォンを外し、顔を上げる。
瞭綜学園。僕と妹が通う学校だ。瞭綜学園はエスカレーター式で小学校から大学まである。僕は明日からここの高等部の2年、妹は中等部の3年になる。見慣れた景色が視界に広がる。北に2階建ての体育館。東と西にはそれぞれアスファルトで作られた4階建ての校舎が2つずつ並んでいる。東は高等部、西は中等部だ。
今日は始業式前日にも関わらず、妹は部活動のバスケットボールに勤しんでいる。
夕方の4時50分。5時には妹の部活動が終わる。僕は妹に迎えを頼まれていた。
なにやら、新学期を迎えるにあたって、持ち帰る荷物が多いから手伝いが必要とのことだった。まだ部活が終わるまで少しある。何をして時間をつぶそうか悩んでいると、高等部の校舎付近にある駐車場に目が行った。
学校の駐車場には不釣り合いな高級な車が停まっている。黒い車体は夕日が反射するほど綺麗に光り、後ろの席はスモークフィルムで中身を一切映さない。
興味本位で近づき、より一層高級感溢れる車に酔いしれる。
僕は後ろの窓を見る。
本当に真っ黒で何も見えないんだな……。
ひとりで感心していると、見ていたドアが急に開かれた。
「っ!」
ぶつかりそうになるのをぎりぎりで避ける。驚きと戸惑いでバランスを崩し、地面に尻をつく。
車の中から女の子が現れた。
その瞬間、春風が通り抜ける。桜の花びらが彼女の周りを舞う。
このとき僕、水瀬歩の人生が大きく変わった。
桜の花びらと一緒に彼女の長く、夜を思わせる漆黒の髪も揺れる。
髪の一本ずつが夜空を煌めく星のように艶やかで、夕日を反射している。
夜空を思わせる髪とは対照に、シミ一つない素肌は月の光のように白く、明るい。
西洋の人間を彷彿とさせるほど鼻は高く、しかし顔全体のパーツはどれも細く、儚げだ。
口元は桜の花びらよりも薄いピンク色で、厚みも薄い。
綺麗な二重瞼の下にブラウンの瞳が微かに見える。薄っすらとしか開けておらず、どこを見ているかわからない。
まるで、暗闇をただ見据えているかのように彼女の目は虚ろだった。
こんな瞳を見たのは初めてだった。彼女の瞳には感情がなかった。
瞳は感情を映す鏡だ。喜怒哀楽。その人間の感情を最も大きく表す箇所だ。往々にして、子どもの瞳は輝いており、大人の瞳は暗い。
でも、彼女の瞳はそのどちらでもなかった。希望も絶望もない。何もない。何も感じていない。どうしてか、僕はそんな瞳に惹かれてしまった。まるで何も見ていないその瞳は僕を安心させた。おそらく誰よりも人目を気にする僕だからこそ、僕を認識しないであろう目に安心したのかもしれない。
ただ、彼女はあまりにも僕を認識していなかった。
僕が車の中をじろじろと見ていたから、それに文句を言われるものだと身構えていたのだが、そうではないみたいだ。
彼女は夕日が照らす校舎に顔を向け、茫然と立ち竦む。
まるで本当に、何も見ていないようだ。彼女をじっと眺めてしまう。
もしかしたら僕が謝るのを待っているかもしれないと思い、僕は立ち上がりズボンに着いた砂を払う。
『あの……すみません』
「………………」
意を決して話しかけるものの彼女からの返答はない。
『全然、悪気があって車を覗いたわけじゃなくて……すみません、あなたはここの生徒ですか?』
「………………」
一向に返事はない。完全に無視をされている。
たとえ僕が悪いとはいえここまで無視をされると少し心がざわつく。
『あの――』
「っ!」
僕が眉間に皺を寄せながら話そうとすると突然、彼女は動き始める。どうしたのかと思い、周りを見渡すと高等部の校舎から女性が出てきた。
黒スーツを身にまとう綺麗な女性だった。女性はこちらを向き、怪訝そうな目を向ける。
その瞳は、黒髪の少女の瞳と似ているが、少女とは違い大人の目をしている。
鋭く、疲労と苛立ちが浮かんでいる。
僕は急いでその場から離れ、駐車場に停まっている他の車のもとにしゃがみ、身を隠す。
女性は黒の高級車に近寄り、黒髪の少女に話しかける。
「――――――?」
「――――?」
何を話しているか聞こえない。
ただ少し話した後、女性は黒い高級車の運転席に座り、少女は後ろの席に座る。車がエンジンの起動でブレーキランプを光らせ、少しして車は発進していった。僕は胸を撫でおろし、車が学校を出たのを確認し立ち上がる。
心臓がいまだに早く鼓動する。
綺麗な人だったな……。
長くて綺麗な黒髪に、真っ白で透き通った肌。ピンク色の唇に、高い鼻。長い睫毛のもとにある虚ろな瞳。今まであんな美人な人には出会ったことがなかった。
顔が熱い。いつまでたっても鼓動は収まらない。また、会いたい。彼女と話したい。近づきたい。
誰かにこんな風に思うのは初めてだった。
もしかしてこれが――
一目惚れ、ってやつなのだろうか。
突如現れた衝撃に僕の頭は混乱し、妹との約束を忘れ帰ってしまった。
妹にめちゃくちゃ怒られた。
それでも僕の頭の中は、彼女のことでいっぱいだった。
春休み最終日、僕は恋に落ちてしまった。