幽閉王子は花嫁を逃がさない
晴天のこの日、見上げた塔は白く、淡い光を放っているようにさえ見える。いくらか蔦の絡んだ壁面を見つめ、ナタリアは小さく息を吐いた。
先導する騎士に連れられて、頑丈な鍵のかかった分厚い扉を二つくぐる。その先に続いているのは、ゆるくカーブした薄暗い階段だ。
白いドレスを纏ったナタリアを気遣うように、騎士が声をかけた。
「どうぞ、足元にお気をつけて」
「ありがとう」
彼の言葉に、ナタリアは笑って礼を言う。そうすると、騎士はその面にわずかな憐憫をにじませ、それでも仕方なさそうに先を促す。
だが、彼に憐れまれるほどにナタリアは自分の境遇を悪いものだとは思っていなかった。
だって、自分がここで――この階段の先に待っている男性の花嫁になれば、家族は充分な報酬と、国の庇護を受けることができる。没落を待つだけだったアディソン伯爵家は、救われるのだから。
(別に殺されるわけじゃないのだし)
父にも、母にも、そして弟にも、なんども止められた。そこまでする必要はないんだ、と。
そのたびに返した言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。
アディソン伯爵家を救うために王家から提示された条件は、この塔に幽閉された第二王子カーティスの花嫁となること。たったそれだけで、ナタリアは恩義ある両親と弟を助けることができるのだ。
やがて、階段の先に瀟洒な扉が見えてくる。薄暗い階段とは違い、その扉は強い魔法の光で照らされて眩しいほど。
「申し訳ございませんが、私はここまでです。どうか……」
「ええ、大丈夫です」
強い魔法力にあてられたのだろう。騎士の顔には、わずかながら汗が滲み、呼吸も乱れている。だというのに、ナタリアは長い階段を登ってきたとは思えないほど息も乱さず、平然としていた。
「どうか……」
お幸せに、とも、お気をつけて、とも言えないのだろう。複雑な表情を浮かべる騎士に一礼して、ナタリアは扉に手をかけた。
ナタリア・アディソンは伯爵家の娘である。といっても、実際には、ナタリアは伯爵夫妻の子ではない。
かつて、アディソン伯爵の兄が市井のお針子と恋に落ち、その娘に産ませた子ども。夭逝した兄の残したその子を、アディソン伯爵は養女としてひきとった。それがナタリアである。
しかし、貴族と平民の間に産まれたナタリアには、魔法力がない。それは、この国の貴族として致命的な欠落であった。
それでも、情に厚いアディソン伯爵は、兄の残した幼い娘を見捨てることができなかったのである。
(でも――お父様もお母様も、私のことを大切に育ててくださった)
翌年に産まれた弟と比べても、その愛情は疑うべくもない。まるで、実の子どもを育てるように、伯爵夫妻はナタリアを慈しんでくれた。
だが――それでも、魔法力がないことは、ナタリアの未来を暗くする。事実、十八を過ぎても、十九を過ぎても、ナタリアのもとに縁談が持ち込まれることはなかった。
加えて、アディソン伯爵が友人に誘われて投資した事業が失敗し、伯爵家は借財にまみれ没落寸前となってしまう。
その伯爵家にある日差し伸べられた救いの手――それが、塔に幽閉された第二王子、カーティスとナタリアの縁談だった。
幼いころから魔力過多症に苦しんでいるという第二王子。魔法力のあるものは、彼の強すぎる魔法力にあてられ、近寄ることもままならないのだという。
貴族の血をひきながらも魔法力のないナタリアは、彼の妻としてうってつけ。そう言われたわけではないが、つまりそういうことなのだろう。
両親も、弟も反対した。けれどナタリアは、その話を受けた。
これで、アディソン家の足手まといである自分でも、恩義ある両親と弟の役に立つことができる。その一心だった。
――がしゃん!
扉を開いた瞬間、何かがナタリアの頬を掠め、背後の壁に当たって割れる音が響く。ぼうっと自分の考えに沈んでいたナタリアは、その音に驚いてばっと顔をあげた。
傍にいた騎士がハッとしたようにナタリアの身体を自身の背後に隠す。
「……っ、殿下……っ」
「うるさい、俺は――結婚なんかしない、妻なんて、必要ない」
そっと騎士の背中から中をうかがうと、フードを目深にかぶった、線の細い青年の姿が見えた。髪の色も目の色もわからないけれど、着ている服は上等だ。それに加え、騎士が「殿下」と呼んだことからも、彼が件のカーティス王子だということがわかる。
「これは、王命で……」
「父上も愚かなことを」
尚も言い募ろうとした騎士が、苦し気に胸を押さえ、片膝をつく。開かれた視界の先で、カーティスのフードが一瞬はためいた。その奥からぎりりとこちらを睨みつけるのは、濃い紫色の瞳。
魔法力が多いことを示す色だ。
「――いいさ、何をしても無駄だって、わからせてやる」
「殿下、なにを……」
ずかずかと部屋を横切り、カーティスはナタリアの細い手首をつかんだ。ぎょっとしたのもつかの間、ぐいっと手を引かれ、室内へと引き入れられる。
痛みに顔をしかめたものの、ナタリアは悲鳴一つ上げず彼の腕に従った。
――何をされても、どんな扱いを受けても耐えるように。
それが、塔に来る前に受けた、国王からの命である。だが、そんな無抵抗なナタリアの様子を見て、カーティスは一瞬だけ戸惑ったようだった。
「お前……」
だが、そんな戸惑いも一瞬だった。乱暴に腕を掴んだまま、カーティスはずんずんと部屋の奥へ歩いていく。そこには、もう一つ扉があった。
細い指がノブを掴み、がちゃ、とひねる音がする。
「お、お待ちください、殿下……!」
「そこで待ってろ……!」
思わず振り返ったナタリアの視界に、カーティスを止めようとした騎士がよろよろと立ちあたり、部屋に踏み込もうとするのが見えた。だが、その一歩を踏み下ろすこともできず、彼が部屋から弾き飛ばされる。
どん、と騎士が背中を強く打ち付ける音が聞こえた。思わず振り返ろうとしたナタリアの背を、カーティスが乱暴に押す。
「……っ」
「ふん……お前はこっちだ」
扉が開かれ、背を押されたナタリアはよろけながら室内へ足を踏み入れた。薄暗い部屋の中、背後で扉をばたんと閉められて身がすくむ。
閉じ込められたのか、と思ったが、すぐ背後からカーティスの声がした。
「……脱げ」
「えっ……?」
一瞬、何を言われたのかわからずに、ナタリアは背後を振り返った。だが、暗い部屋の中ではフードを被ったままのカーティスの表情はわからない。
戸惑うナタリアを威嚇するかのように、カーティスの口から低い呻き声が漏れた。
「脱げ、って言ったんだよ。わかるだろ」
ナタリアは目を瞬かせた。脱げ、というのはドレスを、ということだろうか。いや、当たり前か、それ以外に脱ぐようなものをナタリアは身に着けていないのだから。
そんなナタリアを馬鹿にしたような態度で、カーティスが目の前にある大きな影に腰を降ろす。
――どんな扱いも、耐えるように。
王の言葉が再び耳元でよみがえって、ナタリアはきつく唇をかみしめた。
暗がりに目が慣れてきて、ナタリアの視界にもうすぼんやりと部屋の様子がわかる。部屋の大半を占めているのは、大きな寝台。天蓋付きの立派なもののようだ。カーティスが腰を降ろしたのは、その寝台だった。
つまり、ここは寝室で――ナタリアはこれから、ここで彼に抱かれるのだろう。
けれど、まだ彼の顔をはっきりと見てもいない。挨拶すらしていないのに――。
「……できないのか?」
そんな覚悟もなくここへ来たのか。言外にそう言われたような気がして、ナタリアはゆっくりと、震える手をドレスにかけた。覚悟は、とうに決めてきたはずだ。
ボタンを外し、身頃をを緩め――ナタリアはそこで重大な問題に気付いた。
「申し訳ありませんが……」
「怖気づいたのか」
あざけるような彼の言葉に、ゆっくりと首を振る。それから、彼の方に背中を向けると、ナタリアは羞恥に耐えながら次の言葉を発した。
「いいえ……その、コルセットは、どうしても一人では外せなくて。殿下、お願いできますでしょうか……」
ぎり、と歯ぎしりのような音が聞こえた。怒らせてしまったのだろうか、とナタリアの身がすくむ。
けれど、それ以上言葉を発することなく、カーティスは立ち上がるとナタリアの背後に立ち、そっとコルセットの紐を外し始めた。
「くそ……」
小さな悪態が背後で聞こえる。しかし、存外スムーズな手つきで、カーティスはコルセットを外し終えるとそれを放り投げた。
ナタリアの身に残されているのは、上質な絹でできたシュミーズとドロワーズだけだ。
その姿が見えているのかいないのか――。
カーティスが、突然乱暴にナタリアの腕を引いた。その息は荒く、暗闇の中でさえ紫色の双眸はやけに光って見える。
寝台の上に引き倒されて、上からカーティスが覆いかぶさってきた。その後は、まるで嵐のようにことがすすんだ。
熱い手が全身を這い、快感を引きずり出される。迷いのない手つきは、彼がこういったことに慣れていることを如実に物語っていた。
「くそ、こんな……こんな……」
そんな、小さなつぶやきと、彼の額から滴り落ちる汗。小さな水音と、与えられる快楽――そして痛み。
訳も分からず声をあげるナタリアの上で、カーティスが一心不乱に腰を振る。
どれくらいの時間がたったのかはわからない。一糸まとわぬ姿のナタリアに対し、カーティスは未だ着衣のまま、フードも被ったままの姿だ。
「こんな、ばかなこと……」
薄れゆく意識の中で、カーティスのそんな呟きが聞こえたような気がする。苦し気なその声に、思わずナタリアの手が彼の頭に伸びた。
さら、と艶やかな感触が手のひらに触れる。その時、手が引っかかったのかフードがぱさりと脱げた。その奥に見えたのは、獣のような耳――だった、ような気がする。
だが、それを確認するよりも先に、ナタリアの意識は遠くなり、闇に沈んでいった。
小鳥のさえずりが聞こえる。ふっと意識が浮上して、ナタリアはゆっくりと目を開いた。部屋の中は薄暗い。だが、薄明りに照らされた部屋の調度に見覚えはなく、自分がどこにいるのかとっさにはわからない。
だが、それも一瞬。昨夜――いや、昨日のことを思い出して、ナタリアは慌てて周囲を見回した。
調度類は高級品のようだが、思った以上に小さな部屋だ。部屋のほとんどを、今ナタリアが寝ている寝台が占めている。
部屋の中には自分一人のようで、おそらく一緒に寝たであろう彼の姿はすでになかった。 慌てて身体を起こそうとしたとき、下腹部に鈍い痛みを覚える。
「そうだった……」
身体はさっぱりとしていて、身にまとっているのは見覚えのないシャツ一枚。おそらく、ナタリアの身に着けるものの準備などされていないのだろう。
仕方なく、傍にあった大きなガウンを羽織り、もういちど周囲を見回す。
「どうしたらいいのかしら」
そんな小さなつぶやきと同時に、部屋の扉ががちゃりと開いた。
「……起き上がれるのか」
顔を出したのは、美しい銀の髪に濃い紫色の瞳をした青年だ。今日はフードを被っておらず、中性的な美貌がさらけ出されている。
初めて目にしたカーティスの美しい顔に、ナタリアは答えることすら忘れて見惚れた。
「……のうは、悪かったな」
「へっ?」
その沈黙をどうとらえたのか、小さな声でカーティスが言う。ナタリアが思わず目を瞬かせると、彼はふい、とそっぽを向いた。
「向こうに朝食が準備してある。食べられるなら来い」
「あ、は、はい。あの……」
「……ああ、着るものがないのか。あとで届けさせる」
「あ、ありがとうございます……」
呆気にとられたナタリアがそう答えると、カーティスは足早に扉の向こうに消えていく。ナタリアも慌ててそれを追った。
(結局、私……ここにいて、いいのかしら?)
黙って朝食を食べるカーティスの向かいに座って自身もそれを口に運びながら、ナタリアは小さく首を傾げた。
塔の中にあるのは、最初に足を踏み入れた部屋と、それから寝室の二つだけのようだ。そのため、ナタリアは常にカーティスと過ごすしかない。けれど、その生活は予想以上に快適だった。
食事は一日三回、決まった時間に届けられる。希望すれば、本も届くし、手すさびに刺す刺繍用の道具も高級品が揃えられた。
カーティスは必要以上に口を開くことはなく、ナタリアが何をしていてもとがめることもない。
部屋から出られない、ということ以外は、ナタリアにとって何の苦もない生活だ。
最初はあれほど怒り狂っていたカーティスも、まるでそれがなかったかのようにナタリアの存在を受け入れていた。
決まって週に一度、カーティスはナタリアの身体に手を伸ばす。それが妻としての唯一の仕事である。
おとなしくそれに身を任せながらも、ナタリアは不安だった。
(あまりにも――都合がよすぎる)
しばらくしてから気付いたことだが、この部屋の――階段に続く扉には、ノブがない。こちらからは決して開けられないようにできている。窓には格子がはめられ、内側にしか開かない。
魔法力の多いカーティスであれば、おそらくそれを破壊して外に出ることなど容易いだろう。けれど、彼はそうすることもなく、ただこの部屋で過ごしているのだ。
ナタリアが来る前から、ずっと――一人で。
――どんな扱いをされても耐えるように。
国王の言葉を思い出す。最初こそ手ひどい扱いを受けたが、それ以降カーティスがナタリアに手をあげることはないし、無理強いすることもない。
あまりにも、国王の言葉とカーティスの言動が乖離していて、わけがわからない。
(もっと……ひどい目にあわされる覚悟もしていたのに)
カーティスと平穏な時間を過ごせば過ごすほど、ナタリアは不安だった。
けれど、ふた月も経つ頃には、カーティスの態度はかなり軟化していた。会話も増え、ナタリアが刺繍している手元をじっと見ていることもある。
興味があるのか、と彼のハンカチに刺繍してやった。すると彼は、目を輝かせてそれを抱きしめ、ありがとう、と微笑んだ。その微笑みに、胸の奥がほんわりと暖かくなる。
そんな風だから、ナタリアも少し浮かれていたのかもしれない。もしかすると、カーティスとの結婚生活は、こうして穏やかに過ぎていくものなのかも――そんな風に思い始めていたある日のこと。
「明日からしばらくここを空ける」
「え……?」
週に一度の行為のあと、カーティスはナタリアの髪を指に絡ませながらそう告げた。最近のカーティスは優しい。身体を重ねた後、こうして二人で過ごすのにもだいぶ慣れてきた。
だが、カーティスがここを出る、ということを考えたことのなかったナタリアは、驚きに目を見張り、彼の顔を見あげた。
不思議なことに、彼の濃い紫色の瞳は、以前と比べて少し透明感を増したような気がする。
そっとそこに手を伸ばそうとすると、カーティスは少しだけ口の端に笑みを浮かべ、その手を握った。
「だから――もう一度」
「え、えっ……」
意味が分からない。けれど、求められること自体は、ナタリアにとって嫌なことではなかった。こうしているときだけは、なんだかカーティスに愛されているような、そんな気分になれたから。
翌朝、まだナタリアが眠っている間に、カーティスは出立したようだった。立て続けに抱かれ、疲労の残る身体を起こして枕元の置手紙を読む。
――一週間ほどで帰る。
その置手紙の通り、彼は一週間で塔へ帰ってきた。一人ぼっちにされて少しだけ不安だったナタリアは、彼の帰還を喜んだ。
なぜかしっかりとフードを被ったままのカーティスに求められるままに抱かれ、また通常の生活に戻っていく。
だが、カーティスが塔を留守にする頻度は、だんだんと高くなっていった。
そのたびに、彼は貪欲にナタリアを求める。
(何が起きているんだろう……)
すでに、ナタリアが塔に来てから一年が過ぎようとしている。
塔の外のことは、ナタリアには全くわからなくなっていた。けれど、そうして家を空けた後のカーティスは、時折怪我をして帰ってくることもある。
「ねえ、カーティス様……」
眠っている彼の髪をそっと撫でて、ナタリアは小さく呟く。頭の上を撫でた時、ふとナタリアの脳裏に、最初の日のことがよぎった。
まるで、彼の頭に獣の耳が生えているかのように見えたことだ。
(まだ何か、私に隠していることがあるの……?)
魔力過多症の男性は、その精を女性に注がないと――つまり、性交しないと身の内に溜まった魔法力を暴走させ、周囲に甚大な被害を与えることがある。
そうカーティスから教えられたのは、塔に来てしばらく経ってからのことだった。
それに加え、過去にそのために身体を重ねた女性がいたことも告白された。けれど、その女性たちはひと月も持たず、体調を悪化させてお役御免となったらしい。
「きみには、悪いと思っているけど――」
彼の言によれば、どうやら、カーティスとナタリアは相性がいいのだそうだ。ようやく見つかった、とはにかんだように笑っていた彼のことを思い出すと、ナタリアの胸が疼いた。
「これで、魔法力の制御に失敗することも減った。きみのおかげだ」
そうして、魔法力を制御できるようになったから――だから、カーティスは危険なことをさせられているのではないだろうか。そんな不安が、ナタリアの胸を過る。
だが、そんなナタリアの心配が杞憂であったことを知るのは、カーティスがまたしても塔を留守にした翌日のことだった。
「姉さん……! やっと、会えた……!」
久しぶりに会う弟は、たった一年で見違えるような成長を遂げていた。凛々しい青年に成長した弟の姿に、ナタリアも頬を緩ませる。
「ねえ、姉さん……ここを出よう。カーティス殿下はおかしいよ……こんなところに、姉さんを閉じ込めたままで……」
「え……?」
だが、再会の挨拶もそこそこに弟の口から飛び出したのは、思いもよらない一言だった。目を瞬かせたナタリアに、弟は尚も言い募る。
「カーティス殿下は、魔法力の制御ができるようになったことで陛下に認められて、今は軍務に就いてらっしゃる。もう、塔にこもっている必要なんかないんだ……それなのに、姉さんはずっと塔に閉じ込められたまま……」
「え、だって、そんな……?」
そんなこと、カーティスは一言も言わなかった。呆然としたままのナタリアの腕を、弟が握る。強くその腕を引っ張られて、ナタリアは自分でも意図しないうちに、一歩、また一歩扉へと近づいた。
そして、塔に来た日から一度も外に出たことのないナタリアの身体が、とうとう扉をくぐった――その時。
部屋の中に、大きな竜巻が突如として現れる。強すぎる風にぎゅっと目を閉じたナタリアは、恐る恐る目を開いて驚愕した。
弟は部屋の外に吹きとばされ、壁に身体をしたたかに打ち付けたらしく呻いている。慌てて駆け寄ろうとしたナタリアの腕を背後から誰かが掴んだ。
「ナタリア、どこへ行く気だ」
「カ、カーティス様……!」
振り返ると、そこには恐ろしい形相をしたカーティスの姿があった。どうやら、あの竜巻は彼が空間を渡ったことで発生したらしい。
しかし、それよりもナタリアを驚かせたのは、彼の頭に生えた――一対の獣の耳だ。
銀の髪のカーティスの頭から、やはりそれと同じ色をした――犬の耳のようなものが生えている。
(あれは……見間違いではなかった、ということ……?)
ナタリアの視線の先に気付いたのか、カーティスが自分の耳に触れる。ハッとした顔つきになった彼は、慌てたように扉をしめ、ナタリアを寝室へと連れ込んだ。
「み……見たな……?」
「え、ええ……」
というか、現在進行形で見ている。ナタリアが目を瞬かせて頷くと、カーティスが呻いた。
「恐ろしくはないのか」
「恐ろしくは……特には」
というか、むしろかわいい。触らせてほしい。もしかしたら、尻尾もあるのだろうか。確認したいが、軍のものらしき長い外套に身を包んでいるカーティスの背後を確かめることはできなかった。
そんなナタリアの姿に、カーティスは呆然としていたが――やがて、はは、と乾いた笑い声を漏らした。
「そうだ、きみはそういうやつだったよ……」
「そういうやつ、ってなんですか」
ナタリアが呟くと、カーティスはその彼女の頭をぽんと撫でた。
「もっと早くに、打ち明けていればよかった。俺は――いわゆる先祖返り、というやつでね」
遠い昔、まだ神々が地上にいた頃。王家の祖先は神に銀の狼を伴侶として与えられた。神の力により人の姿を与えられたその狼と交わって、力を得たのだという。
それから幾世代にもわたり、その力は王家を繁栄させてきた。しかし、何代かに一人、カーティスのように力の強すぎる子どもが生まれることがある。
獣の耳と尻尾を持ち、身の内に貯めておけないほどの魔法力を持って生まれる子ども。先祖返りとして大切に扱われる一方で、その力を持て余され、生涯を幽閉されて終わる場合も多い。
しかし、相性のいい異性――王家ではそれを「つがい」と呼んでいるらしい――と交わることができれば、力は安定し、その能力を国のために役立てられるようになるのだという。
「そんなの、眉唾ものだと思っていた。けど、ナタリアに出会えて、わかったんだ」
最初は、それだけだった。ナタリアを抱くだけで、それまで身を焼くようだった魔法力がみるみるうちに安定し、気分が落ち着く。
けれど、とカーティスは続ける。
「次第に――それだけじゃなくて……ナタリアそのものに、俺は惹かれた。だから……こうして、魔法力が安定して父に認められても、きみを塔から出すのが怖くなった」
もしかしたら、塔から出て外の世界に触れたら、ナタリアは自分から去ってしまうかもしれない。そう思うと、不安で不安で、結局そのままナタリアを塔に住まわせていたのだ、と。
「ばかですね、カーティス様」
くすりと笑うと、ナタリアは肩をすくめた。
「私には、行く当てなんかありません。魔法力なしの貴族の娘なんて、ただのお荷物、厄介者で――カーティス様の元に来られなかったら、どうなっていたか」
「ナタリア……」
震える指で、カーティスがナタリアに触れる。そうっと、なにかを恐れるように。
その手をぎゅっと握りしめ、ナタリアはそれに自分の頬を擦り付けた。
「愛してます、カーティス様。ずっと、何があっても――私はあなたから離れない」
城の一角には、真っ白い壁の塔がある。蔦の絡んだその塔は、窓に鉄格子がはまり、分厚い扉で厳重に守られている。
塔に立ち入ることを許されているのは、専属のメイド以外にはたった一人。銀の髪の王子だけ。
そして、そこでは――彼の最愛の妻が、今日も帰りを待っている。
「おかえりなさい、カーティス様」
「ただいま、ナタリア」
幸せそうに微笑んだナタリアが、両手を広げてカーティスを迎え入れた。