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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

岩人形と夜盗


 重い足音は周囲に響くものの驚く者などいない。そもそも人間の倍はありそうな大きさの大雑把な岩人形が立ち上がる場面を見ていた者が誰一人としていなかった。岩人形が寝かされていたのは小屋の裏手にあたり、小さな岩山と小屋の隙間にある小さな庭のような空間だった。小屋の中では一人の術士が安静にしているものの、その術士も驚いた様子は見せない。それどころか深い眠りについているようで身じろぎ一つしなかった。

 立ち上がり歩き始めた岩人形から響く足音は、その大きさの彫像から響くには似つかわしくない重量感だった。決して小さいとは言えない地響きまで立てているため、近所に人が住んでいれば気づく者もいただろう。しかし村のはずれに建てられている小屋からは、もっとも近い民家であっても刻四半(十五分)ほどの距離があった。

 彫像は周囲を見渡す──頭部と思しき岩塊が左右に振れた──と、手近にある小屋をぐるりと半周して、その戸口に立った。今この岩人形の歩みを妨げるものは何もない。岩人形が歩くたびに小屋は揺れたが、それでも術士は様子を見に外を窺うこともしなかった。

 その代わり、ではないのだろうが、岩人形が扉を開けようと試みる。しかし成し遂げられなかった。十分に簡素な造りである小屋の扉であっても、大小の岩石や石を組み合わせて形どられた掌には小さすぎた。無理を通せば自身が扉を破壊すると理解したのか少し迷った素振りを見せて、名残惜しそうな様子で手指を滑らかに動かしながら岩人形は小屋への侵入を諦めた。

 やがて岩人形は小屋を一周する形で裏手へと回り、最前まで寝ていた場所に再び静かに、しかし慎重に横たわった。

 と、ほぼ同時に小屋の中から声が上がる。

「手先をこれ以上かー、細かくしちゃうと呪紋が彫れないんだけどなー」

 と岩人形が喋っていた。その間に頭を掻きながら術士が小屋から姿を現して、岩人形の横たわる裏手へと回る。さっそく岩人形に取りついて掌にあたる岩石群を検分している最中も、岩人形は言葉にならない何事かをぶつぶつと呟いていた。

「でも足回りは大体、完成したよなー。やっぱり当面は、ただの移動体だなー」

 周囲には誰もいない。とはいえ独り言としては声量を間違えている。そもそも独り言を呟いているのは術士ではなく岩人形であった──見かけ上は。


 先の岩人形は、銀髪の術士たるボードの作品であり生き甲斐である。原材料たる岩石の選定から削り出し、呪紋の彫り込み、魔力の付与などすべての作業を独力でこなしてきた。この岩人形のためだけに系統の違う術の習得までをもこなした。ボードには才能があった。それ故に岩人形へ没頭し続けた挙句、周囲からは人がいなくなっていた。それでもボードが気にする様子はなかった。彼には岩人形があったから。

 原動力は、あった。彼自身の容貌である。

 夜明かりの下でなお煌めく銀髪は彼の年齢を反映してのものではなく生まれ持った髪色であったし、透けるような白い肌もまた生来の物である。更にボードの双眸は特異であった。青紫色の右目と赤色の左目。術に対する才能も特異であったなら、その容貌からして特異でありボードをボードその人足らしめ、彼を現在の孤独へと導いた。

 人と違った姿かたちはどうにかならないか、と一時は彫刻などにも没頭し、自らを代替する何かを追い求めた結果として、岩人形へ自ら憑依して動かすことに興味が落ち着いた。彼の幸運は、それら没頭したすべてにおいて一定以上の才能を示すことに成功したことだろう。彼の不幸は、それらに没頭する頃には他人を恃むことは諦めてしまっていたことだろう。

 そうしてボードは己の才能だけを頼りに、岩人形を己の分身として扱うことに成功していた。しかし世間が見れば成功と思える現状であっても、ボードの目には改良の余地が山ほど残されている、まだまだ途上と映っている。事実、人と同じ環境で暮らすには、まだまだ足りないものが多すぎた。


 器用に動かせはするが大きすぎ、人と一緒に暮らすには重すぎる躯体は目下の課題だった。現時点では物の重さを軽減する魔術を多重に起動して凌いでいるが、それでも成人男性に換算して十人弱の重さがある。これでは人の生活圏へ入り込むには無理があるし、たとえ重さを解決できたとしても、そもそもの体格が普通の人の倍ともなれば尚更である。

 魔力の消費の激しさも気にかかるところだし、様々な術を多重に起動しなければ視覚を確保しながら動くことすらままならない。ボードの才能があればこその成功であり、およそ一般的な技術とは言い難かった。

 それでも固執するのは己の分身への渇望や、もはや意地だけなのかも知れない。夢としてはボードも、岩人形を一般化したい、と考えてはいた。しかし道は険しく長い。したがって現時点で、一般化はあくまで目標、として考えるに留めていた。





 そんな未来の展望へ思いを馳せていると、呪術で強化された聴覚が何かを捉えた。聴覚はまだ岩人形に残してある。戻したのは身体感覚と視力だけだったので、それ以外の感覚は未だ魔力で強化された上、岩人形に残されていた。ボードに何か予感があった訳ではない。ただ単に魔力の浪費も厭わない面倒くさがりであるだけだった。

 ボードは口を噤み、そして慎重に、かつ素早く有効にする術と無効にする術の選別を行ない、実行した。しかし身体感覚も視力も、まだ岩人形へは移せない。小屋の中で安静にするまでは、危なっかしくてどうにもならない。

 できうる限り静かに気配を消してボードは小屋へと舞い戻り、寝床へ飛び乗って安楽な体勢を整え始めた。体勢を整えながら岩人形へ移している感覚から何事かを読み取ろうとする。今の時点では主な情報収集能力は聴覚だけであるため、体勢を整えながら耳を澄ますことになる。

 八割がた整ったとしたところで、闇を見通す魔術の効果を体感してから本体に戻していた視覚と身体感覚も岩人形へ移した。これでボードの今の身体は、ほぼ岩人形となった。逆に発声機能は本体へ戻しているうえ各関節の静音について魔力の割り当てを厚くしたため、今の岩人形は思いのほか静かに動くことができた。そうすることで初めて、何者かが音を殺し声を潜めながらボードの小屋へと近づきつつあることを、はっきりと知覚した。


 村のはずれに偏屈な魔法使いが住んでいる、という話だった。夜明かりの下で夜盗のようなことをしながら村や町を渡り歩いているピティだが、この村では仕事をしようとして失敗を喫していた。村全体が貧しいのだ。しかし何も憐れんで仕事ができないのではない。実入りが期待できないから仕事ができない、という人道的とは言い難い理由による。

 そんな中で噂を聞いた。

 曰く、村のはずれの偏屈な魔法使いは相当に貯め込んでいるらしい、と。曰く、高価な魔法の道具を買い込んで研究に没頭しているらしい、と。魔法使いは侮ると恐ろしいことになるものだが、研究に没頭しているもやしのような奴であれば、つけ入る隙もあろうというものだ。

 事実としては、ピティの聞いた噂は半分だけ正しくて半分だけ間違っているのだが、それでも半分は正しい。話半分に聞いたとしても恐らくは村有数の金持ちに違いない、とピティには思われた。

 実際のところボードが大枚をはたいて買い入れるものの中には高価な魔法具もたまにはあるが、大多数は岩巨人の材料となる岩石であった。しかし金額にしてみれば確かに高額だが、一般的な価値としては金をどぶに捨てているような取引がほとんどだった。高級な岩石を使ったからと言って、必ずしも岩巨人の質が向上するとは言えない。むしろ様々な質の岩石を組み合わせる方が、質の向上という観点からは有望だった。


 つまり一般的には、高価な廃材に囲まれている、というのがボードの現状に対する表現として正しいのだが、ピティは真実を知らないままボードの小屋を目指していた。相手が魔法使いということで気は抜かない。まだ小屋など見えない距離であっても足音を殺しながら、次の街ではどんな豪遊をしてやろうか、などと考えつつボードの小屋へと続く小道を歩いていた。

 夜明かりの下、小屋や裏手と思われる小山の輪郭が見えて来た頃合いになって、まさに向かっている先で何者かが立ち上がった、ようにピティには見えた。遠目でも間違いようがない、はずだった。しかし、おかしい。夜目がきくとかきかないとか、そういう話ではない。小さく見える小屋と裏山の間で、何者かが立った。それは間違いない。身長が小屋や裏山とほぼ同じであることをおかしなことだと考えなければ、だが。

 しかも時を同じくして、軽く地面が揺れたようにも感じられた。何事かとも思ったが、目の前の誰かが立ち上がった際の揺れだとするならば、納得の一つもできた。

 直感して、身を潜めようとピティは考える。しかし小屋とピティまでの間に障害物となるようなものは、木の一本すらもなかった。やむにやまれずピティは足を止めて、その場へと伏せた。

 人影は周囲を警戒していたようだが、ある時から真っ直ぐにピティ見ているように思われた。こちらからも見えているのだから、向こうからも見えていて当然と考えるべきか、まだ見つかっていないと考えるべきか。人影の挙動から考えれば見つかっている、としか考えられなかった。

 しかし人影はそれ以降、何もしなかった。もしも視線が見えるのならば、それは真っ直ぐにピティを捉えているように思われるが、それ以上は行動を起こさないならばピティにも考えがあった。

 伏せから中腰へと移行したピティは小道を外れ、背の低い草むらをできる限り静かに急いで走る。小屋を障害物にするような位置取りを目指して。


 ボードは小屋に近づく人影を視野へと収めていた。それに気づいたのか人影は伏せたものの、もう遅い。どうするのか様子を見ていると、こちらが見ていることに気づいたのか中腰になって道を外れ、草むらへと駆け出した。

 それは小屋を障害物として使う方角だった。目的を理解して、ボードは少しずつ移動する。結果的には小屋の戸口側へ立つことになった。その間も周囲に気を配りながら人影を視界の外へ逃がすことはしなかった。今までの動きから考えて、ボードの小屋を目指していることは間違いないように思われたが、まだ確信はない。

 再び人影が動きを止めた。草むらの中で身をかがめ、明らかにボードの様子を窺っていた。ボードが戸口側へ移動したことにも当然、気づいているだろう。これで恐怖の一つでも感じて諦めてくれることをボードは祈った。


 ピティの動きに対応して、人影が位置を変えている。軽い地響きも人影についてくる。明らかにピティを認識している挙動だった。草むらを荒くかき分けながら小屋までの距離を少し詰めた結果、人影が人間ではないことを理解した。全体的には大雑把な造りの巨大な人形のように見える。問題はその人形がピティの動きに対応したことだった。

 意思がある。

 こんな夜更けに巨大な人形が、自らの意思で自分を注視しているかと思うと戦慄が走った。まさしく化け物であり、やはり魔法使いは恐ろしい、と認識を新たにしていた。それでもピティはつけ入る隙を探していく。守るものがいるということは、守るべき何かがあるということだから。

 しばらく観察を続けようと思ったが、人形との我慢比べに勝てる自信はなかった。ここはむしろ通りすがりを装って、よく観察するべきではないかと思い至る。いくら偏屈な魔法使いであったとしても、まさか通りがかっただけで襲いかかってくるような守衛を置きはすまい。そうなると初手で隠れてしまったことが悔やまれたが、もう遅い。ピティは開き直ることにした。





 人影は草むらでやおら立ち上がり、堂々と草をかき分けながら小屋へ近寄ってきた。ボードは、ただ黙って待った。相手の対応に明らかな変化が見られ、ひょっとすると何者かの使いではないか、と考えるに至る。

 所在を明らかにしている魔術士同士であれば、自らは動くことなく遥か遠方に報を届けることもできるが、お互いに魔術士である必要があり滅多にあることでもない。むしろ何者かを使者に立てて連絡する方が、もちろん一般的であった。

「──に者なんだ?」

 ボードは反射的に音を増幅する呪術を切った。人影はもはや顔を判別できるほど近くに来ていたため囁き声などではなく、相手は通常の音量で喋っていた。この距離で喋られると呪術の効果が強く働きすぎるため事前に切っておくべきものだったが、ボードは様々な対応に追われていた。

「もう一度。よく聞き取れなかった」

 音の増幅を切り、同時に発声機能を岩人形へ移した。もちろん詠唱などなく頭の中で処理していたのだが、この切り替えを詠唱もなく滑らかに行なえるのはボードの非才を如実に現していた。


「……アンタ、何者なんだ?」

 この距離で聞き取れないのか、と訝しんだがピティは質問を繰り返した。

「この村に住まう者だが、あなたこそ何者か?」

「オレは旅の者だ。珍しいものが見られるかも知れない、と噂を聞いて来た。

 実際、見れたがな」

「では用件はもう終わったでしょう。夜も更けていますし、お引き取り願います」

「せっかく来たんだ、もう少し付き合ってもらいたいな。

 コイツは一体全体どういう仕組みで動いてるんだ? 中に人でも入っているのか? それにしては石造りで隙間なんかないように見えるんだが」

「夜の夜中に世間話をしたいと思うほど、暇を持て余している訳ではありません。やはり、お引き取り願いましょう」

「ん? これは機嫌を損ねたかな? だとすると容赦して欲しいもんだが、そうもいかんか。

 ……わかった、これで引き下がるよ。世間話に付き合ってくれてありがとさん」

「どういたしまして」


 岩人形からは愛想など感じられるはずもなく、むしろ岩のように冷たい視線をピティへ浴びせかけたまま立ち尽くしていた。声の抑揚は意図的に抑えられているようだったし、この状況で本当に愛想を期待した訳でも、世間話がしたかった訳でもない。

 ボードにしても思惑は似たようなもので、安売りするような愛想など元より持ち合わせていないし、世間話に取り合う暇などないことに至っては本当のことですらあった。もちろん、目の前の男が簡単に引き下がった、とも思っていない。

 二人はそれぞれに疑念を抱えたまま別れることとなった。しかし少なくともピティの方は次の経路を考えながら離れている。次の狙い目は、やはり裏手の小山だ。どのくらいの距離で気づかれたのかはわからないが、障害物を確保しながら動くのは悪くない。逆に小屋か裏山を利用しなければ、障害物に隠れながら近づくことは難しいだろう、と踏んでいた。





 再訪は一刻(一時間)後だった。

 夜明かりの下で何もなければ時間を正確に計ることは難しいが、ピティは刻四半ほど来た道を戻って小屋も人影も、先ほど見た何もかもを視界から消した。代わりに、ではないが一番近いであろう民家を視野におさめたところで、周囲を警戒しつつ道から左手の草むらへ入り込む。この方角へしばらく行けば、位置としては小屋の裏手へ回ることができるはずだった。

 この挑戦が失敗したならば、もう次はないだろう、とピティは考えていた。守るものが何なのか、あの大仰な守り手の存在を念頭に置けば想像が止まらない。小屋そのものはみすぼらしい、まで言っても言い過ぎではないような造りだったが、あるとすれば小屋の中しかありえないだろう、と結論していた。

 盗れるものなら盗ってやる。たまには人を殺さない物盗りも悪くはなかろう、くらいのことを考えながら体感で半刻(三十分)ほど道なき道を歩き続けた。たとえ盗れなかったとしても、せめて何を守っているのかは知りたかった。

 ここが新たな出発点である、とピティは決めると更に左手へ折れた。ここからは足音を殺し、もとより上げてもいなかった声を潜め、周囲に気を配りながらの移動となった。姿勢もただ歩くのではなく、中腰になったまま少しでも草むらへ身を隠しながら動くことを心掛けていた。なにせ人間ではない。どの距離からどうやって気づかれるのかなど皆目見当もつかなかった。だからこそ選べる手段をすべて使ってでも押し入るつもりだった。


 刻四半に足りないと思える程度を移動したところで、先ほどの小屋の裏手に見えていた裏山がぼんやりと姿を見せた。ピティの感覚では、まだ遠い。しかし、あの巨人はこの距離でも反応して見せた。ピティは再びしばらく足を止めて様子を見ることに決めた。

 どのくらい経ったのか、計る手段を持たないピティにはわかりにくくなっていた。感覚が正しければ、たっぷり半刻は待ったはずだった。その間に裏山の背後で巨人が動く様子は見受けられなかったし、巨人が動くときに付随する地響きも感じない。まだ見つかっていない、とピティは判断した。

 にじり寄るかのような遅さで、ピティは裏山へと近づく。巨人に動きはない、ように思われる。小屋と裏山の間に巨人が立ったことから、目の前の小山のすぐ裏手に巨人はいるはずだった。ピティが引き下がってからも戸口側から巨人が動かなかった場合は、さらに状況が好転して、裏山と小屋を障害物として使える位置関係となる。

 しかし、そこまで良い状況は訪れなかった。音を殺して裏山へ近づき、忍びに忍んで小屋側を覗き込んでみると、小屋と裏山の間に設けられている庭に巨人が横たわっていた。巨人は身動き一つしていない。どうやら休んでいるように思われた。

 寝入ったか、と更に刻四半ほどを待ってピティは判じた。さすがに巨人から寝息は聞こえてこない。したがって胸──にあたる部分──が上下する様子も見られない。寝返りを打つ打たないは人による。しかし動く様子は、やはり見られない。目に至ってはそれらしき場所に何かが刻まれているだけで、そもそも開いているのか閉じているのかすらわからなかった。


 意を決して、ピティは可能な限り足音を殺したまま庭へと躍り出た。そのままの速度で巨人の横をすり抜け小屋の戸口を目指す、と同時にピティの眼前に岩石の塊が迫ってきた。ピティは横たわっていた巨人の膝蹴りをまともに受けて血反吐を吐き、もんどり打って倒れた。ピティは瞬時に死を覚悟した。

 と同時に、岩巨人が着地の地響きと共に跳ね起きる。素早くピティを見つけると近寄って巨大な掌をかざした。自分の行為に自覚があるようだ。横たわっていたとはいえ、術で軽減した上でなお大人十人分に近い重さを誇る岩巨人の膝蹴りである。まともに喰らえば命があるものとは思われない。

「あーあー……よし、呪紋の起動完了。治癒術は慣れてない。失敗したら自分を恨めよ」


 ──Restore body and soul with the vitality of thy inner power.

 ──Heal thy wounds.


 ピティは薄れる意識の中で呪文の詠唱を聞いてはいたが、どんな意味かはわからない。これが最後の光景だろうか、などと考えていると小さいが鋭い痛みに思考を中断させられた。しかし痛みの中から暖かい感覚が沸き上がり、次第に痛みが和らいでゆく実感を得ていた。


「……なんだ、これ?」

「初歩的な治癒術だ。傷だけなら、これでも十分だろう」

「地味に痛い、が死ぬほどじゃあないな」

 ピティの痛みは、もはや蹴られた痛みではなく治癒術の副作用として現れる小さな痛みに取って代わっていた。

「当たり前だ。殺すつもりはなかった。死にかけるとは思っていたが」

「……ひょっとして死んだのか?」

「であれば、この術では無理だ。しかし術自体はもう完成した。これで駄目なら、あなたは死ぬ」

 その言葉を受けて口元の血を拭いながらピティは立ち上がる。岩巨人は体勢を起こす形で立ち上がるピティを避けた。岩巨人は立膝をついているため、ピティより少し高い程度の位置に顔と思しき岩塊があった。

 その目や鼻、口と思われる場所に紋様が刻まれているだけで、人面に見えないこともなくはないが、明らかに人面のそれとは別の何かだった。そんなことを判断できるだけの余裕が、今のピティにはあった。まだ生きている。

「大丈夫のようだな。さて何が目的かは知らないが、同じ目に遭いたくなければ引き下がって欲しい」

「……そうする、もう時間切れだ」

 気がつけば周囲が白み始めていた。夜明かりの下でのみ夜盗へと成り替わるピティだが、その夜がもうすぐ明ける。

 久しぶりの朝が訪れようとしていた。

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