1.婚約破棄は不幸ではない4
「ただ今戻りました!」
玄関にいた使用人の女性が驚いて花瓶を落としたが、割れる音は聞こえない。花瓶は宙に浮いたままで、時が止まったようにぴたりと静止している。
「シェリー様!? 帰ってくるのはまだ先ではなかったのですか!?」
「いろいろありまして、だいぶ予定より早いんですけど、帰ってきちゃいました」
「皆を呼んでまいりますので、しばらくお待ちください」
「はーい」
浮いた花瓶を手に取り台座の上に乗せると、女性は奥に引っ込んで行ってしまった。
「シェリーお嬢様が帰られましたー!!」
遠くから慌てた声が聞こえてくる。どんがらがっしゃんと、屋敷の中がちょっとした騒ぎになっているようだ。
「ちょっとそこで止まってください」
シェリーはつないだままになっていた手を放すと、数歩前に出て、屋敷の中に入ってから振り返った。スカートを持っての一礼は、完璧なまでのご令嬢の挨拶だった。
「ようこそおいでくださいました、グローリアス公爵家へ」
「お招きいただきありがとうございます」
ドレスを着たままなので、俺も同じように一礼を返す。返してから話が違うと、シェリーに突っ込んだ。
「公爵って何!? そこそこって言ってたじゃないの」
「表向きは存在しない国の爵位に、大して意味は無いですよ」
あっけらかんと、シェリーは悪びれもせずに答えた。そんなやり取りを玄関でしていると、屋敷の奥の方からちらほらと人が集まってくる。そのうちの一人の男性にシェリーは目を止めると、俺の腕を抱き足早に近寄っていった。
「お父様、婚約者を連れてまいりました。オリバー・ディアレイン様です」
シェリーはにっこり笑って、お父様と呼んだ男性に俺を婚約者として紹介した。ん? 婚約者として?
「……女性じゃん……。あ、ちゃんとついてる」
シェリーの父はどうやらシェリーと同じ方法で、俺の性別を確認したらしい。いや見るなよ、おい。父娘そろって、デリカシーという概念はないのだろうか。
そしてはっきりさせないといけないことが一つ。
「俺はまだ貴方の婚約者になった覚えはないわ」
「指輪を付けた時点で婚約は成立してますよ?」
当たり前のことに何言っているのと言わんばかりに、首を傾げられた。
「魔法の指輪としか聞いていないわ。ただの入国許可証だと思ってたわよ」
「まあいいじゃないですか。どっちみち遅かれ早かれ、私とオリバーは婚約するんですから」
婚約破棄から数時間後、俺の知らないうちに、人生二度目の婚約はあっさり成立していたのだった。だからあの時、シェリーはあんなことを言っていたのかと今更納得した。
「とりあえずオリバーは着替えましょう。服と着替える場所を今用意してもらいますから」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ」
グローリアス家の使用人に部屋まで案内され、着替える服を渡された。れっきとした男物の服だ。手伝いも申し出てくれたが、人に身体を見せるのに抵抗があったので俺は断わった。
用意された部屋の中で、窮屈なドレスを脱いだ。一人でも着られるように作られた、首元まで隠れる特注のドレス。与えられていた宝石はどれも、ひどく重かった。極力肌を見せないための手袋は、いつどんな時でも必需品だった。俺が女性らしくあるためならば、父上は金に糸目をつけなかった。でも、だから何だと言うんだろう。
出そうになった溜息を何とか飲み込み、手袋を脱ぐためにシェリーに着けられた指輪を一旦外そうとした。が、外れない。試しに手袋を外してみると、指輪をすり抜けて手袋は手からすぽっと抜けた。手袋の厚さ分緩くなるはずの指輪は、俺の指にぴったりフィットしたままだ。魔法の指輪すごっ。
シャツを着て、ズボンを履き、ジャケットに袖を通す。そんな当たり前の行動に手が震えた。もう二度と着られないと思っていた、久しぶりの男物の服だ。
あまりの感動に、ただのジャケットとシャツとズボンにこんなに感動した人間は、今まで存在しないのではと、自分で面白くなってしまった。着替えが終わった後は、靴を変え、化粧を落とした。かなり時間がかかってしまったので、急いで応接室に案内してもらう。
案内された応接室では、パーティー用のドレスから普段着に着替えてたシェリーと、シェリーの両親がすでに待っていた。空いていたシェリーの隣に腰かけると、俺は改めて向かい側に座ったシェリーの両親に挨拶をした。
「改めまして、お初にお目にかかります。オリバー・ディアレインですわ」
シェリーの両親は、明らかに困惑していた。魔法使いに困惑される俺の存在とは、という思いに駆られる。でももし、娘が連れてきた婚約者が女装していて女言葉だったら、きっと俺も困惑する。じゃあ仕方ない。
「私がシェリーの父、グローリアス公爵家当主フェルド・グローリアスだ。そしてこちらが妻の」
「ニーナ・グローリアスですぅ」
グローリアス公爵は至って普通の人だった。一方の公爵夫人は、語尾が間延びしたような独特の話し方をしている。シェリーのピンクゴールドの髪色は母親譲りで、琥珀色の瞳は父親譲りのようだ。顔立ち全体は母親似らしく、母娘揃って愛らしい雰囲気を醸し出していた。
「シェリーが言った通り、既に婚約は成立しているが、何処の馬の骨とも分からないものを認めるわけには」
グローリアス公爵の顔は渋い。ここで公爵夫妻に認められずに、婚約破棄となったら俺は一体どうなるんだ? 貴族の婚約といえば、当人同士だけでなく家同士の話になるものだ。シェリーの勢いに流されて、俺はそこまで頭が回っていなかった。
「あらあなた、一度送り出したからには、シェリーが誰を連れてきても文句は言わない約束よねぇ」
夫人からグローリアス公爵に、約束を守れと圧がかかった。俺とシェリーの婚約に、夫人は賛成してくれているようだ。
「………………私は二人の仲を認めるさ。でもあの子が黙っているかな!」
「うふふふ、負け惜しみの捨て台詞になってるわぁ。良かったわねぇ。お父様は認めてくれるそうよぉ」
「はい! お母様」
結局公爵夫妻は認めてくれるらしい。でもあの子って誰だ? 俺の疑問を置き去りにして、公爵夫人は興味津々といった様子でシェリーに尋ねた。
「シェリー、どうして彼と婚約することにしたのかしらぁ?」
「それはですね」
続けてシェリーが、ここに至るまでの経緯を説明した。
「そうして私とオリバーは婚約しました」
俺の左手を両親に見せつけながら、そうシェリーは話を締めくくった。
「すまなかった。そんな境遇だったとは知らずに、何処の馬の骨などと」
「そんな、謝って頂かなくて大丈夫ですわ」
「オリバー君は苦労したのねぇ」
俺の女装や女言葉の原因が分かったことで、公爵夫妻の困惑は無くなったようだ。俺が恐縮するぐらいに、二人は親身に話を聞いてくれた。苦労したと言われ、自分のことを肯定してもらえたようで、肩の荷が下りた気がした。
「そろそろお邪魔虫は退散しましょうかぁ。うふふふ、あとは若いお二人でというやつねぇ」
ひとまずの話が終わり、夫人はすぐに立ち上がったが、グローリアス公爵は座り続けたままだ。せっかく帰ってきた娘と、もっと話したいと顔に書かれている。立ち上がる気のない父親に、シェリーは冷たく言い放った。
「お父様、二人きりになりたいので、さっさとどっか行ってください」
「シェリー、お父様の扱いが雑過ぎない……?」
夫人に引きずられるようにして、グローリアス公爵は退場していった。
「オリバー!」
しっかり扉が閉まるのを確認してから、シェリーは俺に抱きついてきた。勢いに負けてソファに押し倒される格好だ。ぐりぐりと俺の胸部に頭を押し付けた後、顔を上げたシェリーは悲しそうな顔をしていた。
「これからは、ちゃんと食べていいんですよ?」
どうしてそう言われたのかは、すぐに分かった。シェリーは抱きついたことで、俺があまりに痩せ細っていることに気付いたのだ。
彼女の想像通り、俺は食事制限されていた。実家でも学院の寮でも、皇帝家とディアレイン公爵家の双方からつけられた侍女たちが、常に目を光らせていた。学院でのランチタイムは監視の目が緩んだものの、ばれてしまうと後が怖かった。甘いものが好きだったのに、カフェテリアのケーキは結局食べれずじまいだ。
「シェリーはカフェテリアのケーキを食べたことあるかしら?」
「ケーキですか? 学院のカフェテリアのだったら、何度か食べましたよ。…………グローリアス公爵家お抱えの料理人は、何だって美味しく作ってくれます。ケーキも当然美味しいです。カフェテリアのものより美味しいと、私が保証します」
「そう。……必ず幸せにすると約束してよね」
再び抱きついてくるシェリーの体を、抱きしめ返した。シェリーの重さと柔らかさと温かさに、心が満たされていく。
「はい、もちろんです! とりあえずはケーキですね。今日急にはちょっと難しそうなので、明日頼みに行きましょう。あと、これからのことなんですけれど、オリバーはケーキ以外で何かしたい事とかありますか? 私にできることなら、やれるだけのことはします」
「それは、これから考えるわ」
目を閉じて、シェリーを抱きしめる腕に力を込めた。今はただ、俺を愛してくれている彼女の、この感触を堪能させてもらおう。




