10:8 赤の果実は失う
『非常に残念だよ。君たちがその選択をしてしまうなんて』
「ふざけるな。自分の計画を完遂させる為に、ブライトたちの家族を人質に取ったのはお前で――」
『きっと君たちは私に罵詈雑言をぶつけている最中だろうけど…。今、君たちが見ているこの映像は"録画"しておいたものだからね。私には何も聞こえないよ』
ゼルチュが手の平の上にデジタル時計を創造して、そこに記された数字をノアたちへと見せる。時刻は午後十三時を少し過ぎた頃。まだノアたちが黒と白のチーム分けをしていた時間帯だった。
『この映像が流れている。つまり君たちは"ノエルをこちらに渡さない"という選択をしたということ』
「お喋りなやつだ」
『だから私は約束通りここに転がっている君たちの家族を…この手で"殺さないといけない"ようだね』
手に持っているのは注射器。数時間前にゼルチュがジュラルミンケースから取り出していた注射器と同じもの。ノアはそれを見て、ゼルチュが自分たちへと取引を持ち掛けた後、すぐにこの映像を録画していたのだと確信する。
『Noel Project。君たちは私がその計画を進行させている、と"あの二人"から聞いてしまった。これは僕にとっての誤算だったよ』
ゼルチュは左手に持っていた小瓶の中へと注射器を刺し、液体のようなものを薬液の筒へと吸入した。その液体は決して透明ではなく、やや黒味を帯びているものだ。
『七つの大罪と七元徳を夢の中で倒してしまったことも大きな誤算だ。おかげで盛り上がるはずだった先月の殺し合い時間は、やむを得ず中止』
「ざまぁねぇなー」
『私は"オリジナル"に近しい七つの大罪と七元徳を"クローン"で再現したつもりだった。それなのに"レプリカ"如きの君たちが倒してしまう。これがどれほど罪深き行為なのかを理解しているのかい?』
左右の画面外からアニマとペルソナがゼルチュと同じ注射器を持って現れれば、その場で横たわっているブライトの"家族たち"一人一人に、その針先を刺していく。
「アイツ、毒で殺すつもりか…!!」
「やめて! パパとママを…! やめてぇぇ!!」
ウィザードが両拳を強く握りしめ、ステラは両親の首筋に注射器が刺されていく姿を見て、悲痛な声を上げる。
『ああそうだ。君たちにこの液体の説明をしていなかったね』
「綾香…!!」
ゼルチュは横たわっているウィザードの妹の元まで歩み寄り、薬液の筒に入れられた液体について、こう説明を始めた。
『この液体の名前は『Noel V』と呼ばれている薬液だ。君たちが思っているような毒性もない。だから体内に注入されても死ぬことはないよ』
「ノア、あの薬液について何か知らないんですか?」
「いいや、俺でさえあんな薬液の名前を聞いたことがない」
ティアの質問にそう返答するノア。その向かい側で、ルナが追憶にふける様子を見せながらゼルチュが手に持っている注射器を見つめていた。
『ただ――この薬液は体内に一度入ってしまえば、その者の体のあらゆる組織を激しく変化させる』
「組織を?」
『数倍に膨れ上がる創造力と身体能力。所持できる能力数とユメノ使者の上昇。これらの恩恵をほんのわずかな薬液だけで、得られることができる。それが『Noel V』だ』
"Noel V"。その正体は人間そのものの限界を超えることが可能となる禁忌の薬。ノアはその説明を聞いて、顔をしかめていた。
『しかし、だ。誰もがこの薬液に適応するわけじゃない。適応する者は真の選ばれし者のみ。その辺にいる一般人が『Noel V』を使ったところで、それはただの自殺行為となる』
「自殺行為だと?」
『さて、ここでルナさんに問題だ。もしこの『Noel V』に適応が出来なかったら…その人間は一体どうなると思う?』
ルナにそう問いかける数時間前のゼルチュ。彼女はその質問に対して、ゆっくりと口を開きぼそぼそと、独り言を呟き出した。
「私が初代教皇だった頃、ナイトメアであれに似た薬を開発してた。薬の効果もアレとほぼ同じ。その時はまだ名前は付いていなかったけど、その薬は邪教徒の子たちに与えられていて」
「…それで、その薬に適応できなかったらどうなるの?」
「――"異形"」
レインに、ルナはたった一単語だけで答える。
「邪教徒の子たちも、その薬を扱えなかった。だから中途半端な強さのせいで半分人間、半分異形。そんな姿で自我を失いながらも戦っていたから…」
「おい待て。それじゃあ、ただの人間がそんな薬を投与したら――」
ノアが言いかけた途端、画面の向こうで薬液を注入された少女が苦しそうにその場で暴れ回った。
『正解は『Noel V』の効果に耐え切れず、凶暴性が増し、自我を失い、醜い"異形"の姿となる』
『きゃ"あ"ぁ"あ"ぁ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"ぁ"あ"』
肌が焼け、吐血交じりに胃液を吐き出し、身体のあらゆる部分が蝋のように溶けていく。テレビのスピーカーから聞こえてくるのは悲鳴と悲鳴と悲鳴。
「綾香!! 綾香ぁぁ!!!」
ウィザードがテレビに掴みかかり、必死に妹の名を呼ぶ。だがその声は届くはずもなく、少女の悲鳴だけがノアの部屋に響き渡るのみだった。
『あぁ忘れていた。異形となって自我を失うといっても、完全に失うわけじゃない。ほんのひとつまみほどの意識はある』
異形となった少女は指先の爪が鋭利な刃物と化し、醜いその顔をノアたちへと見せつける。もはや面影など残っていない。これが元々人間だったと言われても、誰も信用してくれないだろう。
『助けを求めようと。安らぎを求めようと。この異形たちはその意識に従って、とある場所へと向かうことになる』
カメラがゼルチュと少女から引けば、周囲には"家族だったもの"が映り込む。ゴツゴツとした巨体の異形や、身体の節々が伸びている異形。視界に入れるだけでも、酷い吐き気に襲われるが、
「あれって…」
ブライトたちはその異形たちから目を離せなかった。それもそのはずで、彼女たちは異形たちの姿に既視感を覚えていたからだ。
『そう、それは"自分の大切な人の元"。つまりこの異形たちが今から向かう場所は――"君たちのいるところ"』
「そんな、じゃあ、まさか、俺たちは…」
『オ"ギ"ィ"ィ"ガ"ァ"ァ"ァ"ア"ン"ン"』
少女だったモノの叫び声。
それを耳にしたウィザードは、膝から崩れ落ちる。
『最も、その凶暴性が故に君たちへと襲い掛かってくる。それをどう対処するのか、君たち次第だ』
ノアの部屋へと奇襲を仕掛けてきた異形たちの正体は、世界と天秤にかけていた"家族"。その真実を知れば、家族を人質に取られていたブライトたちは両手を震わせてその場にしゃがみ込む。
『それにしても…Drop Projectによって生み出されたレプリカが、こんなにも"出来損ない"だとはね。正直、期待外れ。まだ私のクローンの方が優秀だ』
「…ッ!! ゼルチュ!!」
ノアが画面の向こうにいるゼルチュを睨みつければ、彼は空になった注射器を投げ捨てて、カメラの近くまで寄ってくる。
『私が憎いのなら、今月の殺し合い時間に参加するといい。君たちの相手をしてあげよう』
「…こいつ」
『集合場所は校庭だ。しっかりと準備をしてから来るといい』
今月の殺し合い時間。
ゼルチュはノアたちへとそう予告をし、高笑いをした。
「わたし、わたしはパパとママを殺して…」
「い"や"ぁ"ぁ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁ"」
「綾香ぁ…! クソ、クソォ、クソォォォッ!!!」
ノアとルナは泣き叫ぶ仲間たちを他所に、テレビに映るゼルチュを静かに睨む。
『卑怯だ? 約束が違う? ははっ、結局君たちはノエルを渡そうとしなかったじゃないか! 何も変わらないんだよ。何も変えられないんだよ。君たち"二人"じゃあねぇ!』
「外道が」
『すべてを変えられるのはこの私だけだ…っ! それをよく覚えておけ!!』
テレビの画面に灰色のノイズが走る。ゼルチュの姿が画面から消えても、二人はしばらくその画面を見つめることしかできなかった。
「…どうしたの?」
背後の方で少女の声が聞こえる。
そこにいたのは"ノエル"。ノアたちが全てを捨てて選んだ"モノ"。
「どうして、みんな泣いてるの?」
「理由は…ないよ。人間は、理由もないのに泣きたいときがあるから」
ノアはノエルの頭を優しく撫でて、壁にかかっているカレンダーへと視線を移す。
(ゼルチュ、いや白金昴。お前は人間の皮を被った――ただの"異形"だ)
約束の殺し合い時間まで残り二週間ほど。ノアの後方で白色の壁と向かい合っているルナ。そんな彼女の後ろ姿は、肩を震わせ、激しい怒りに身を焦がしているように見えた。




