泥人形の手記
生きることに向いていない、自分をそう評する人間は実はこの世に沢山いるのではないか。
自分もそうだ。夢も希望も期待も、心地のよい言葉は全て捨てた。見渡してもいかなる情愛も見つけられない。どこかで生ずる一抹の寂しさも、もはやその辺の砂利と見分けはつかないだろう。
掘り返せばまたいくつかの心の泉を見つけることもできるのかもしれないが、そんなことに使う労力があるのならば現実逃避に注ぐだろう。
私は終わりの時までこうしてただ虚空を見つめ、この飽きた大地で自分の不器用さに呆れ続けるのかもしれない。
異物感と違和感、焦燥。辛くてもその辛さを表に出す術は今までの生ではついに得られなかった。
色々なことで悩むだけ悩んだが救いはなくただ気落ちするのみなものだから、いつしか悔やむことすら忘れるようになったのだ。
こうして忘れることの救いを乱用したことで私の逃避はいよいよ癖となって、いつも後もないほどに自分を追い詰めてしまう。
だが、おかしな話だが、崖っぷちにまで引き下がってしまったと思っても後ろというものはまだまだあるもので、じりじりと後方に進み、ヤドカリかエビのように籠ったり進んだりして、いつしか自分でもなんだかよくわからない人間として生きてしまっていた。
それは内の自分と外の自分の大きな剥離を生んでいて、きっと外の自分を内の自分の目で見たとき、私は私のような人間は大嫌いだと思うことだろう。
誠実に生きる。もとはそれだけだった。
だが、ご存じのように誠実とは難しく、そして、世界は誠実さだけでは不十分だった。
自分を慰めることすら怠惰になり、やがてゴミに埋もれ、私は私であることすら億劫になってしまった。誠実にあろうとした結果、誠実でない自分という存在を誠実に自分から切り捨ててしまったのである。
誰でもそういう面があることはわかる。わかるが、これは共感を救済に転化するのが苦手な人間が陥っている罠なのである。つまりは底無し沼に沈みきってしまっているのだ。
ふと昔に誓っていつの間にか忘れていたことを思い出す。私は私の父となり母となろうと固く固く思っていた。それが今ではどうだろう、なぜそんなことを思っていたのかすら思い出すことができないではないか。
誰にも伝えるつもりのない秘密の標語ですら灰になってしまうほど、私にはもう燃える部分が残っていないのだ。
ただ、忘れ得ない過去の日は私にもあって、それらの、主にはトラウマの事柄は、いつも燻るような煙たさと味でもって甦ってくる。
払拭することができなかった負い目は人格に癒着し、いつまでも小火として私の心をよくない色で照らし出している。
人はいつ人になるのか。生れた時からか、物心ついたときか、人格がはっきり形成してからか。
きっとどれでもないのだ。おそらくは年齢も経験も関係なく、己が己として己を認められたとき、人は人になる。なれる。
だから私は人ではない。人であろうとして失敗してしまった。羽化不全を起こした人間なのである。
一つの矛盾がある。
私は命よりも生き方の方が遥かに重要だと思っている。人間いつ死ぬかわからない上にいつかは必ず死ぬからだ。
そして、人は誰の変わりに死んでやることも生きてやることもできないし、人に自分をやってもらうこともできない。徹頭徹尾自身が終わりへ向かうことを体験し続ける道行だ。
だが、結局私は生き方などどうでもいいと思ってしまっている。生き方などどうでもよく、終着点が来るのをもしかしたら待ち焦がれているのかもしれない。
いつか抜けることができるのか、これで良しと納得するためにはどうすればいいのか。隠しても隠しきれない屈辱、捨てきれない自尊心、代償行為の不得手が延々と卑しい運命を紡いでいく。
布団に潜り込んでも自分は消えてくれず、掌を組んで祈りながら眠れない夜を眠る毎日。
私に望みがあるとすれば、それは固定だ。これ以上も以下もない、未来永劫変化することのない安定。
だが、私の見える世界は不定形の泥だ。そして、まったく苦しいことに、私自身もその泥でできている。
もういらない。必要な糧は目の前にある分で十分だ。
もう嫌だ。生きている、それが私にとっての勝利。
先はなけれどもそこは先端。私は常に先端に立っている。




