田丸蘭子の色日記
小さなため息、かと思えば大きな深呼吸に変わる。ささやかな誰にも届くことのない、元来誰に届けるつもりもないそれは、東京の雑多な人の群れへと姿を消した。幾分か呼吸ができるようになったはいいが、それでも彼女にとっては息苦しく、濁った空気は彼女の瞳を曇らせるばかりだった。たまらず上までしっかりと止められたシャツのボタンを一個、二個と外していく。
東京もすっかりと夏めいてしまって、幾らか暑さに強いと思っていた彼女も煩わしく感じていた。上京してからだいぶ伸びた髪の毛は申し訳程度に後ろで束ねられている。それでも汗で首筋に張り付く髪は、彼女をさらに陰鬱にさせ、どうしようもない息苦しさを生む。彼女の感じるどうしようもないそれは、暑さのせいだけではないようだ。“あっちはそんなことないだろうに”たいして意識をやったつもりでもないのに浮かんでくるあの町は、大分時が経ったというのに褪せるどころか、さらにつやつやとして見える。それに比べて、今自分が映す街はどうだろうか。どこに目を向けても人、人、人。「今日は星がよくみえるねぇ」なんていう暇も、余裕もない。上を見上げても無機質にそびえ立つコンクリートの塊に囲まれ、派手に装飾されたネオンが目に毒だった。会議室からちょこちょこと漏れる光が可愛く思えてしまう。
上京7年目の春を横目で見送りながら、何度目かの郷愁を覚える彼女は今日も行きつけのバーで酔い潰れているようだった。週末にも関わらず、いつもと変わらず人は少なく見知った顔がちらほらあるばかりである。「結局帰らなかったのね」なんていうマダムにんー、と適当な返事をする。一気に飲んで開けてしまったグラスのふちを何をするでもなく指でなぞる。しっとりと漂うジャズピアノと程よく効いた空調が心地よくて、まぶたが重くなってきたところでちらりと腕につく時計を見ると、終電までにはそう時間が無いようだった。なんとか体を起こしおぼつかない足取りで店を後にする。外に出ればまたあのうっとおしい熱気が彼女を包んだ。さっきに比べたら少しはいいのかもしれないが、暑いものは暑い。酔いを覚ますように、辞めたはずの煙草に火を点け、青い煙を静かにくゆらせる。こんなふうに黄昏るようになったのはいつからだったろうか。
人並みに恋愛はしてきたし、それに伴う離別もそれなりに経験してきた。なんとなく酒の勢いで短縮的な色恋に酔ったことも大声では言えないがあった。若さとほんの少しの好奇心を言い訳にして、お互いの傷を慰めあうかのようにただ、ひたすらにお互いを求め合い、翌朝は酒の酔と自分がしてしまったことへの罪悪感に頭を抱えたのも、大分昔に感じる。口寂しくなるとまた煙草に手を伸ばしてしまうのは、なんだかんだ言って、もうお決まりになっていた。
と、しばしば夜に一人で思いにふけったりするのである。こんな時には何か一つ口ずさみたくなってしまうものだ。なんとも正確さにかける鼻歌交じりな歌を口ずさんでは煙草をふかす。この歌を口ずさむとき、決まってあいつが思い浮かんでくる。鍋の底からぼわんと現れる、少々の胡散臭さを漂わせる初老の男であり、別段、どこかで見た覚えはないのだが、決まってこいつが出てくるのだ。彼は彼女に何かをしてくれるようなわけではなく、時々彼女の中に現れては思考を鈍らせ、よくわからない呪文を唱えるだけである。時々こうして現れる初老の男に、彼女はかつての父の姿を重ねるのであった。
あたしゃ、大人になんかなりたくなかったよ。
誰に届けるつもりもないため息を、煙草の煙と一緒になって吐き出す。
まる子よ、今お前は何を思う―――。