背中を押す、三毛猫のキーホルダー
「おはよー」
聞いたことのないかわいげのある声。ゆっさゆっさと、俺は見知らぬ人に揺り起こされた。そう、見知らぬ人に。
「……はっ⁉︎」
外はいつもと何ら変わりない朝だ。素知らぬふりの青空が一面に広がっていた。一気に目が覚めて、俺は起こしてくれた見たこともない中学生くらいと見える女の子をまじまじと見つめる。
「……いやあ、そんなに見つめられると照れますねえ」
いつの間にか俺の一人暮らしの部屋に、俺ともう一人が寝転んでいた。その状況を再確認して、俺は青ざめる。
「マジか……やばい」
混乱してまともな言葉さえ出てこなかった。そもそも誰だかまるで見当もつかないし、仮にどこかのタイミングで俺と関わっていたとして、これはれっきとした犯罪だ。昨日はちゃんと戸締りをして寝たはずだから、勝手に忍び込んできたってことはないだろうし。誓って覚えていないが、泥酔した昨日の俺のことだから、お持ち帰りでもしたのだろうか。いや、さすがにそんなことは、
「ちょっと出かけてくるねー」
いったいどうしたもんかと足りない頭をひねる俺をよそに、その女の子は呑気にそうつぶやいた。ごく自然な風に言われたので俺はおう、と一度言ったものの、
「おいおいおい待て待て待て」
「ん? なんです?」
「いや、なんです? じゃなくて。……聞いても無駄だろうけど、どこへ?」
「コンビニ。おなかすいた」
「いや、飯くらいうちにも……」
俺が何とかこさえた引き止めの言葉も虚しく、女の子は出て行ってしまった。
「終わった……」
こういう時はコンビニとか適当なこと言っといて、実はそのまま警察に行って告発、あれよあれよという間にお縄になるものなのだ。きっと。
どうせすぐにでも警察の人がうちに来るんだろうし、それなら二日酔いで頭も痛いし寝るか、と俺はもう一度ベッドに潜った。下宿する大学生の春休みの生活なんて、バイトのない日はだいたいこんなもんだろう。だらけきった生活。伸びきってくたびれたジャージのズボンのゴムのような気持ちだ。
「……ん?」
しかしふと、俺は違和感に気づく。昨日の寝る直前まであったあれがない。寝る前、まだ何とか意識があった時に確かに小型テレビの横に置いたはずの、丸っこい猫のストラップ。もう一度のっそり起き出して周辺を探してみるが、やはり見当たらない。寝る前にちゃんとあるのを確認したんだけどな、でもベロベロに酔ってたし適当な記憶の可能性もあるか、とウジウジ考えていると。
「ただいまー」
件の少女が帰ってきた。あったかそうなもこもこのセーターに包まれた手には小さめの袋を提げていて、そこから何やら温かくかぐわしい匂いが漂い、あっという間に部屋を覆った。まさか本当にコンビニだけ行って帰ってくるとは。
「お前、いったい……」
「これ、ピザまん。いる?」
少女がごそごそと袋の中からピザまんを一つ取り出して俺に寄越してきた。受取拒否はできなさそうな雰囲気だった。そして何となく、一つ思い当たって思わずつぶやいた。
「お前まさか……あの猫のキーホルダーの化身とか? いやいやまさか、そんなわけないよな」
なぜ突然そんなことを思ったのかは分からない。だが妙にだらんとした猫――アンゴラウサギのような姿と、のっぺりした表情の“何となくかわいい猫”だ――と、少女の雰囲気が何となく似ているような気がした。もちろん当てるつもりで言ったわけではさらさらなかった。が、
「うむー……」
指摘した瞬間とたんにうつむき、もじもじ恥ずかしそうにしながらこちらをちらちら見だしたではないか。まさか当たってるのか。
「何でわざわざそんなこと……あ」
すると少女が毛糸の帽子を取ってみせた。今までそれが完全に少女の一部として見えていたから、気に留めさえもしなかったが、帽子の下の髪はもとのキーホルダーの猫のようにきれいに白、明るい茶色、黒の三色に分かれていた。やっぱりそうなのか。
「覚えてます? わたしをどこで拾ってくれたか」
その言葉に俺は口ごもるしかなかった。昨日あったことと言えば。数日分の服やらアメニティやらで散らかった床を見て思い返す。
「いいからわたしに言ってください。わたしはただここに来たくて来たわけじゃないんです」
「え? マジで」
「マジです。はい、一から全部」
なんで俺はそんなことを見ず知らずの女の子、というかキーホルダーに言わないといけないのか、ととりあえず黙ってみた。すると目に見えて少女がむすっとし始めた。さらにもう少し黙っていると、今度は拳を振り上げた。さすがにそんな手に出られては敵わないので、俺は諦めて正直に話すことにした。
「昨日は……彼女と今日から行くはずだった旅行の準備を一緒にしてて、そんで行き先のことでケンカになって。最初はささいなすれ違いだったんだけど、そんなところ行きたくねえって言ったら、とたんに泣き出して。そのまま出て行ったきり連絡がつかなくなって、旅行もおじゃんになった」
「その先は?」
「その先? えっと……それで、やけになって友達呼んで飲みに行って、ついつい飲みすぎて、たぶんベロベロになって帰って来て」
「そこです」
刑事が防犯カメラの記録に不審な点があって止めるような口ぶりだった。俺はぎょっとして話を中断する。
「その帰り道、わたしを拾ってくれたんですよ。汚い水たまりにはまってるところをわざわざ、ね」
「確かに……やたら汚れてるのを洗った覚えは……」
「本当は分かってるんじゃないですか。自分が悪いってこと」
「それは……まあ」
その猫のキーホルダーは、彼女がずっとお気に入りでかばんにつけていたものだった。
「あなたの彼女さん、昨日はそのままここに泊まる予定だったんです。でもケンカしたせいでいられなくなって、近場のホテルに駆け込むしかなかった。そこまではわたしも見えました」
「そうなのか」
「わたしを拾ってくれたところから一番近いホテルです。……どうしますか」
少女ははむはむとピザまんを平らげて、静かに俺に問うた。コンビニのまんじゅうはピザまんしか認めん、と言う強硬派の彼女と、目の前のキーホルダーの女の子の姿が重なる。俺はピザまんをひとかじりして、心に決めた。
「分かった、会いに行く。……ありがとう」
「いえいえ」
ケンカするのもいいですけど、自分に正直にはなってくださいよ。
それを最後にして、少女はぽんっ、と音と煙を立てた。後には例の猫のキーホルダーが転がっていた。
少女の言っていたホテルはすぐに見つかった。そもそもその周辺にはそこしかホテルがなかった。そして、エントランスに彼女はいた。
「……ごめん! 俺が悪かった」
「ほんとに思ってる?」
「ああ。せっかく旅行、楽しみにしてくれてたのに」
「ほんと。全部おじゃんなんでしょ?」
「……それが実は、昨日キャンセルとかしてなくて。電車は時間の指定があったからもう一回払うことになるけど、まだギリ予約してたホテルには行ける」
「……そうなの?」
彼女が明るい声になる。そういう反応をしてくれると思って、いつでも出発できる用意をしてから来ていた。俺は改めてごめん、と頭を下げる。
「いいよ、もう。泣いて逃げたこっちも悪かったな、って思ってたとこだし」
それより早く行こ、と彼女が隣に置いていたスーツケースを指差す。彼女も用意してくれていたらしい。俺は荷物を取りにいったん帰ろうとして、ふと足を止めた。
「これ、落としてただろ」
それは猫のキーホルダー。丸っこい三毛猫の、ちょっとだけむすっとしているように見える手触りのいいキーホルダーだ。よくよく見てみると、暖色の毛糸の帽子がおまけ程度にちょこん、と猫の頭についていた。
「あ、それ! 探してた。家に置きっぱなしだったとか?」
「ま、そんなとこ」
むきになってこっちから謝れずにいた俺の背中を、ちょっと押してくれた猫のキーホルダー。俺は彼女には聞こえないくらい小さな声で、キーホルダーに向かってありがとう、とつぶやいた。