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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
8/15

8 雪乃の本体を移動、これが大変!

 人見街道を井の頭に向かった。トヨタ2000GTは、聞いたことのないエンジン音だった。まるで道路をたたきながら走っている。道路を耕しているのでは、と後ろを振り向きたくなる。

「しかし媚蓮和尚も、とんでもない車をもってるなあ」

「そうなんですか?」

「めったにお目にかかれない代物だよ。しかも現役でバリバリ走ってる」

「あの、高野さん。鍵はどうします?」

「鍵?」

「鍵、部屋の中なんです・・・」

「そうか・・・」

 雪乃がおなかに現れたとき、その手に鍵は握られていなかった。

 井の頭公園に差し掛かる。まずは雪乃のマンションにたどり着くことを考えた。

「中には、簡単には入れないのか・・・部屋は何階?」

「二階です」

「二階か。まあ、よかった。一階ならなおよかったけど。開いてる窓とかないよね」

「たぶん。戸締りはしっかりしたような・・・」

「きみの、その身体の方は、動かないかな? 動くんだったら中から開けてもらえばいい」

「感覚自体がないんです。顔、頭の部分の感覚しかないんです。たぶん、無理です」

「だろうね」

 雪乃は車から外を見ることができない。コンビニに車を置き、そこから徒歩でいくことにした。

「ここのコンビニから五分くらいです。高野さん、その信号を渡ってください」

 雪乃ナビに従う。

 僕は部屋に入る方法を考えた。管理している不動産に事情を話して開けてもらうおうか。しかしどんな事情にすればいいだろう。兄だとか親類を偽ってもそれを証明するものがない。窓を割って入るという大罪を犯すしかないのだろうか。この場合、住んでる当人の同意があるので犯罪にならないのかもしれないが、やはり気が進まない。

「高野さん、着きました」雪乃が言う。「このマンションです」

 六階建てのマンションだ。うぐいす色のタイル張りで家賃が高そうだ。

「いいマンションじゃない。やっぱり下手なことできないよ」

 僕はベランダ側に回る。

「いつ、どこから人が見てるかわからない。ベランダからよじ登るのはよそう。気がついたら警官が下にいたっていうことになりかねないよ」

「どうしますか?」

「窓、割るしかないと思ったけど。そんなことする気分にはなれないよ。いかにも犯罪者みたいでさ」

「割っても、かまいませんけど。後で直しておきます」

「管理人さんはいるの?」

「さあどうでしょうか」

「音を立てるのはまずいよ。僕はガラスの上手な割り方なんて知らないんだ」

「ガムテープを使ってはどうでしょう」

「なるほど。ガムテープか。コンビニで買っとくんだったなあ。ハンマーと」

「買いにいきますか?」

「ちょっと待って。もう少し考えよう。二階のベランダには簡単に登れそうかい?」

「わかりません。考えたことないので・・・」

「それはそうだ。きみのストーカーだったら考えてるだろうけど」

僕はやおら手帳を取り出し、以前のメモを調べた。

「あった!」

「なんですか?」

「いい方法がある。これでいってみよう」

「どうするんですか」

「まあ見ててよ」

 僕は手帳の番号をケータイに入れ、電話した。

「きみの住所を教えて。マンション名と号数も」

「はい。住所は・・・」

 僕は手帳にメモし、電話の相手に伝えた。八時には来れるという。

「八時か・・・少し待つね」

「どこに電話したんですか?」

「鍵屋さん。『鍵のキィハンター』ってところがあってさ。インキイしちゃったときに開けてくれるんだ」

「お世話になったこと、あるんですか?」

「恥ずかしながらね。でもよかったよ、電話番号のメモが残ってて」

 便意を催したので井の頭公園に向かった。公衆トイレに入る。日本式だったので、雪乃を圧迫しないようにするのに苦労した。腰が痛くなる。トイレットペーパーが備え付けてあるのは有り難かった。

「女の子の前でウンチするなんて、恥ずかしいはずなんだけど・・・慣れっこになったね」「恥ずかしがることはありません」

 僕は兼田係長のウンチョコを思い出した。ウンチ観の変革なんて、お菓子にそんな使命を負わせていいものだろうか。

 トイレを出てベンチに座る。夕日が公園の池を赤く染めていくその変化をただ眺める。

「あれ?」

「どうかしましたか?」

 僕はしばらくおなかに神経を集中させた。便意が再び襲ってきたのだ。

「まただよ。別に下痢でもなんでもないんだけど」

 日本式トイレに再びしゃがむ。

「さっきもまあまあの量だったけど、今度もすごかったよ」

 流してからつぶやいた。

「今の、わたしのかもしれません」

「きみの? まさか」

「わたしも、四日前から食べてますから・・・」

「そうだね。まさか、排泄だけ本体の方がしてるとも考えにくい。でも、僕の身体を使っているというのも納得いくことじゃないよ」

「すみません。下のお世話までしていただいて」

「下のお世話ねえ。僕はふつうに排泄してるだけだから。でも、今度から絶対に洋式トイレでするよ」

 八時近くなり、雪乃のマンションに戻る。玄関に立っていると、住人らしい人と会う。僕はでるかぎり目立たないように心がけた。ひっきりなしに時計を見た。

「なにか変わったこと、あります」

「いや、さっき住人らしい人に会ったけど、会釈をしたよ。そうだ。きみの、部屋の様子を教えてくれないか」

「部屋の様子、ですか」

「入ったら、何がある? まず右には」

「右は靴箱があります。廊下があって・・・左にはバスの扉があります」

「なにかこう、特徴的なものはない? 靴箱の上に飾り物はないの?」

「飾り物ですか・・・ええっと、よく思い出せません」

「自分の部屋でしょう?」

「はい。でもなんだかぼやけてて」

「まずいなあ、あ、来たよ」

 『鍵のキィハンター』の車が見えた。僕は手を振る。

「早く思い出して」

「はい。あの、ベッドの横に大きなテディベアが・・・」

「ベッドはまずい。きみの本体を見られちゃう。もっと玄関のあたり・・・」

「こんにちはー。時々お世話になります。鍵のキィハンターです。ご依頼主はあなたさまでしょうか」

「はい。森下といいます。二階の208号室です。どうぞ」

 僕はマンションに入った。キィハンターが郵便受けで森下の文字を確認しているのがわかった。

「ここなんですが・・・」僕は208号室を指さした。

「キィは、どうされました?」

「無くしたんです。運転免許証なんかも全部。電車の中かなあと思ってるんですけど」

「それは災難でしたね」

「それでは、隣の方とか、管理人の方と面識はありますよね」

「いえ、ほとんど会わないですね。仕事柄、朝は早いし帰りは遅いし」

「わかりました。とりあえず開けましょう」

 キィハンターは道具を取り出し、膝をついて作業を始める。彼から少し離れ、雪乃に小声で話し掛ける。

「思い出した?」

「確か、あの、靴箱の・・・」

「開きましたよ」キィハンターの青年がドヤ顔を見せる。

「は、早いですね」

「それでは、チェック入れますね。中の様子をおっしゃってみてください。本人であるか確認しますので。規則なんで、どうかご容赦ください」

「はい。わかってますよ。入って、右の方に靴箱があります」

「靴箱ですね。失礼いたします」キーハンターが中を覗く。

「靴箱の、なに?」僕が小声で雪乃に聞く。

「中に・・・」

「はい、靴箱、確かにあります。でも靴箱だけでは・・・」

「左の方には、あの、バス、風呂の扉があります」

「バスですね、はい、確認しまーす」

「中になにがあるの?」僕は再び雪乃に聞く。

「えっ? なんですか?」キーハンターが振り向く。

「いえ、なんでもないです。どうです。ありますか?」

「はい、確かに。他にもっと特徴あるもの、ないですか」

「靴箱の中に古新聞が・・・」雪乃がささやく。

「えっ。今、なにかおっしゃいました? 女の人の声が―」

「女の声? 僕には聞こえませんが」僕は辺りを見回してとぼけた。

「えーと、何でしたっけ。靴箱の中ですか?」キーハンターは靴箱の扉に手をかけた。

「そう。靴箱の中に古新聞があります」

「古新聞ですね。チェック、入れます」

 キーハンターは古新聞を探している様子だった。

「失礼ですが」キィハンターが出てきて言う。

「なんですか?」

「疑うわけではないんですが、女物の靴が多いので・・・」

「ちょっと、僕を疑ってるわけ?」僕は多少の怒気を入れて言った。「もともと彼女のマンションなんだよ。居候してるわけ。察してくんないかな?」

「すみません、鍵屋は信用第一なもので。それでは最後にお聞きしますが、新聞は何新聞をお読みですか?」

「何・・・新聞?」

「はい・・・」青年が疑心を露わにした目で見る。

「新聞も彼女が読んで、僕はあまり読まないからなあ。確か・・・」

 雪乃からの声を待った。小さな声だったが、僕はなんとか聞き取った。

「新日本ですよ、新日本新聞」

「はい。正解です!」

「正解って・・・」

「それでは料金をいただきます」

「確か五千円ですよね」

「口止め料込みで六千円です」

「口止め料って、きみねえ」

 僕は六千円を手渡した。

「毎度、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 キィハンターは去った。

「またのご利用だって。人の不幸で金を稼ぐって因果な商売だよな」

 僕は思いっきり小声で悪態をついた。

「こんにちは」

 背後で声がする。キィハンターの青年と誰かがあいさつをしている様子だ。誰かが上がってくる。そう予感した僕はすぐに部屋に入った。が、間に合わなかった。入る瞬間を見られたような気がした。玄関で息を飲む。何事も起こらない。僕は胸を撫で下ろした。

「どうかしましたか?」雪乃が訊く。

「誰かに入るところを見られたよ」

「大丈夫だと思います。もし誰か来たとしても、いろいろ言い訳はできます」

「それはそうだ。恋人だって言えばいいか。失礼するよ」

「どうぞ」

「ふつうにしゃべろう。小声で話すこともない」

 雪乃の部屋に入った。廊下を進む。しかし、心臓が高鳴ってきた。雪乃の本体の様子を想像すると、容易に進めるものでもない。

「ベッドルームは奥です」雪乃がトーンを落とす。

「そう。なんだかどきどきするよ」

「わたしもです。あるかどうか・・・」

「本体が? あるにきまってるさ」

「高野さん、クーラー入れましょうか」

 僕はリモコンのスイッチを入れた。

「風も入れよう。しばらく間」

「冷蔵庫に冷たいものがあります」

 僕は冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、半分をコップに注ぎ、缶の方にはストローを差し込んで雪乃の口に当てた。

「ソファに座っていい?」

「どうぞ。気楽になさってください」

「シャツも全開にしようか」

 ふたりはジュースをゆっくり飲み、しばらく気持ちを落ち着けた。

「部屋に入れてよかったですね」雪乃が安堵のため息をつく。

「ガラスを割らずにね。でも冷や冷やものだったよ。寿命が一日ほど縮まったな、たぶん」

 雪乃の部屋を眺める。動物がよほど好きと見えて、動物をデザインした物が目に付く。飾りっ気のない、落ち着いたインテリアでまとめてある。

「いい部屋だね」

「あまり見ないでください。恥ずかしいですから」

「落ち着く部屋だよ。ほんとに」

「そうですか?」

「そうだ、きみの写真を見せてよ。どこかにない?」

「窓側のラックの上に・・・」

 雪乃の言葉を聞く前に僕はもう動いていた。フォトスタンドがいくつかある。

「これが、きみか・・・」

「恥ずかしい・・・」

 写真の中の雪乃は、別人に見えた。普段は真上から見ているだけだから無理もなかった。

「俳優の吉永エリカ似なんだね。これはどこに行ったときの?」

「確か、北海道です」

 大平さんをはじめ鈴木さん、田中さんがいる。背景には湖が写っている。雪乃の髪はセミロングで、風を受けて少し乱れている。おなかに張り付いた雪乃とはやはりイメージが違う。美しい。森下雪乃は確かに美しい。

風が入ってきた。クーラーが効いてきたので窓を閉める。

「さて、そろそろ行ってみようか」

「はい」

 リビングのすぐ隣が寝室だった。人の気配は感じない。そこに果たして雪乃の身体が横たわっているのだろうか。ドアノブをゆっくりと握る。回すとカチッと音がした。

「開けるよ」

僕は思い切ってドアを押した。部屋から熱気が漂ってきた。カーテンが閉まっているせいで薄暗い。が、ベッドの上には確かに雪乃の本体らしいものがある。

「あった。あるよ! 雪乃さん!」僕は叫んだ。

「はい! よかった・・・」

 だが、やはり容易に近づけない。新たな不安が胸を締め付けた。本体はあっても、もしその本体が死んでしまっていたら・・・。暑い部屋に四日間も放置された本体は、生命体として存在できたのだろうか。少し、異臭もする。

「異様な匂いがしますね」雪乃が鼻を鳴らす。

「熱気のせいだよ。早く、涼しいところへ連れて行こう」

 僕はゆっくり近づいた。本体が健全かどうか確かめなければならないし、顔の部分も確認しなければならない。

「待ってください」雪乃が引き留めた。

「どうしたの?」

「顔を、見られるの、恥ずかしいんです」

「そんなこと言っても・・・」

「のっぺらぼうです。きっと」

「だろうね。ない方が納得できるよ。もし顔がちゃんとあったら余計厄介なことになる・・・」

「見るのが怖いです」

「そうだね、きみは本人だもんね。僕以上に、見るのはつらいかもしれない。でも、仕方ないじゃないか。確認しなきゃ、何も進まないよ」

 僕はさらに近づいた。本体は横向きに横たわっている。

「見るよ」

 ふたりは息をのんだ。のっぺらぼうとは、こういう状態をいうのだということを理解した。顔の輪郭はあるが、顔は何もない。想像はしていたが、想像を絶する状態だ。僕は思わず叫びそうになった。暑さを忘れ、冷たいものが背筋を流れた。

「わあ!」雪乃は小さく悲鳴を上げ、泣き出した。

 僕は力が抜け、ベッドの側に座り込んだ。勇気を出してもう一度見てみる。のっぺらぼうの雪乃は依然として横たわっている。

「確かめなきゃ。ちゃんと生きているか。脈を、とるよ。いいね」

雪乃の返事はない。

 僕は毛布から本体の腕を出し、脈を取った。腕の温かみから、血が通っていることはすぐわかったので、安心することができた。脈は正常だった。

「よかった。生きてる。きみの本体、生きてるよ」

「はい」雪乃はまだ泣いている。

「泣かないでよ。生きてるんだ。きみの身体。ほんとによかった!」

 窓を開ける。昼食を食べた公園が見えた。空を見ると、入道雲がわいている。一雨きそうだ。自然はいつもと変わりはない。ふたりをとりまく空間だけ、どこか違っている。僕はもう一度のっぺらぼうを見た。妙に心臓が高鳴る。こんなことが現実にあるとは思い難い。

「とにかく―」僕は喉をつまらせた。「一安心だよ・・・」

 ふたりはキッチンで水を飲んだ。しばらく呆然とした。いいようもないストレスが、じわじわとふたりにたまりつつあった。辛うじて、ふたりは平静を保っていた。

「疲れがどっと出たよ。妙にだるい・・・」

「・・・」

「あとは、大平さんに連絡するだけだ。きみのケータイは?」

「あそこに・・・」雪乃は俯いている。

 ラックの上の充電器にケータイがある。

「ケータイ、見ていいかい?」

「どうぞ」

 太平さんからの着信がほとんどだった。田中さんや鈴木さんからのメールもある。驚いたのは母親の着信とメールだ。

「お母さんからもきてる」僕はケータイの画面を雪乃に見せた。

「明日くる?・・・」雪乃が顔を上げた。

「よりによってなんできみのお母さんが、明日来るなんていう流れになるのかな? なんかこう、めぐりが悪いね。やっぱり陰陽学を勉強しようかな? くそっ、とりあえず今は大平さんだ。電話がきっとある。それにきみが出ればいい。わかってるよね」

「はい・・・」弱弱しい雪乃の声だ・・・。

「明日彼女たちがくるのを防ぎゃなきゃ。頼むよ」僕は発破をかける。

 そのときドアフォンが鳴った。まちがいなくこの部屋だ。息を殺す。

「誰だろう・・・新聞の集金とか」

「引き落としにしてます」

「雪乃!、雪乃!」

 玄関で声がした。どこかで聞いた声だ。

「雪乃、いるのね。あたしよ」

「あの声は・・・」そう言いながら、僕はそのクイズの答えをすぐに思い浮かべた。

「マアちゃん、ですね」

「いるんでしょ、開けてよ。わたしよ」大平さんの太い声が聞こえた。灯がついていては、もうごまかしようがない。

「どうしましょう」雪乃が涙声になる。

「明日来るっていってたのに―」

 僕はキッチンとリビングをペンギンのように行ったり来たりした。大平さんに説教をしたくなった。約束は守ってほしいものだ。

「雪乃! 雪乃!」大平さんの声は大きくなる。

「出るしかないよ。といっても声だけだよ。ドアは絶対開けちゃいけない」

「やってみます」

 僕は玄関にゆっくり向った。

「マアちゃんね」雪乃は答えた。

「よかったー。やっぱりいるのね。無事なのね」

「ごめん、心配かけて」

「開けて、お願い」

「ごめん、今日は帰ってくれない?」

「病気なの?」

「ううん。調子悪いだけ。風邪が長引いているの」

「昨日も来たのよ。どうしてたの?」

「寝てたの。ぐっすり。ごめんなさい」

「メールも来ないしさ」

「充電器に置いたまま。見てなかったの。ボーとしてて」

「心配させないでよ。ほんとに大丈夫なの? ねえ、開けてよ」

「他のみんなは元気?」

「うん。でも心配してる。田中と鈴木」

「あとでメールしとく」

「ねえ、開けてよ、雪乃」

「眠くって」

「わかったわ。明日また来るから。いいでしょ」

「うん、明日なら元気になってる、たぶん・・・」

「あなたに必要なのはね、わたしたち友だちなの。あの二人も来るから。クッキー、焼いてくるって」

「休みだから、みんなゆっくりして。わたし、大丈夫だから」

「明日、高野さんも来るかも」

「高野さん?」

「今日ね、高野さんとお昼食べたの。おごってくれたのよ、トンカツ」

「ほんと?」

 雪乃が苦しい演技をしているのがわかった。時々不安そうに僕を見上げる。

「あなたが四日休んだって教えたの。で、とんでもない事件に巻き込まれてるかもしれないって言ったら、びっくりしてたわ。明日、あなたのマンションに一緒に行ってくださいって頼んだの」

「どうしてそんなことを・・・」

「感謝しなさい。頭のいいこの親友に。これで高野さんとのつながりができるのよ。我ながら名案だったわ。高野さんを見てひらめいたの」

「なにを?」

「事件に巻き込まれかもって言ったら、高野さんが来てくれるんじゃないかって。ケータイの電話番号、教えたの」

「だからって」

「どうしたの? もっと喜びなさいよ」

「来るとはかぎらないわ」

「そりゃそうだけど。可能性はあるの。とにかく、十時くらいに行くわ」

「いやよ」

「どうして?」

「恥ずかしいもの」

「そんなこと言ってたら何も変わらないわよ。せっかくのチャンスじゃない。たぶん、高野さんから電話がくると思うの。なんとしてでも明日引っ張ってくるわ」

「部屋、汚れているし」

「掃除しときなさいよ。掃除もできないほどじゃないでしょ」

「実家からお母さんも来るの」

「あ、そう。でも、いいじゃない。構わないわよ。それに、高野さんを親に紹介する絶好のチャンスじゃない」

「親に紹介なんて、そんな急に」

「ねえ、そんなにわたしたちに来てほしくないわけ?」

「そうじゃないわ。」

「さっきから聞いてるとさ、そんなふうに聞こえるの。せっかくわたし、高野さんとコンタクトとって、あなたが喜ぶと思ったのよ。それなのに・・・」

「うれしいわよ。ただ、急だから・・・」

「あなたは、ただ寝てればいいの。あとはわたしたちが雰囲気よくするから」

「少し考えさせて」

「遊びに行くくらい、いいじゃない。あなた、四日休んだから、ほんとに心配してるのよ」

「だから、それは、ありがとうって」

「会いたいのよ。あなたに。わたしたち、親友じゃない? 違う?」

「それは・・・そうよ」

「十時よ、わかった。それなりに準備しといてね。高野さんが来るかもしれないんだから」

「来なかったら?」

「そのときはそのときよ。女だけでおしゃべりすれば。お母さんはいつ来るの?」

「午後だったと思うけど」

「午後? わかったわ。この先はメールでね。高野さんから連絡あるかもしれないからケータイチェックしてね。それじゃ、ね」

 大平さんが帰る足音に聞き耳を立てた。本当に帰ったか、しばらくしてからドアを開いて確認した。マンションの下を歩く大平さんの大きな背中が見えた。玄関のドアを閉め、僕たちは同時にため息をついた。居間に戻るとソファに深く腰掛け、僕はまた目をつむった。疲れることばかりだ。

「びっくりしたよ。明日行くって言ってたのに。それだけ心配なんだね、きみのこと」

「マアちゃんは博多の人で、おまけにO型だから情が厚い人なんです」

「さて、やはりきみの本体を移動させなきゃ」

「疲れてますね」

「きついよ。祈祷もあったからね。でも、そうも言ってられない。媚蓮和尚やみんなが応援してくれてるからね」

僕はもう立ち上がっていた。無意味に雪乃の部屋を見回し、本体が眠っている部屋を再び覗いた。微動だにしない本体を見て、少し寒気がした。

「部屋の鍵はどこ?」

「リビングのテーブルにないですか?」

「ないんだ。目のつくところにないよ」

「バッグの中は?」

 ラックの上のバッグを取り、中を見る。

「あったよ」

「そのバッグも持っていきましょう」

「どうして」

「キャッシュカード、それに通帳と印鑑が入ってます。いざという時に・・・」

「あまり気が進まないなあ。ますます窮地に追い込まれそうな気がする」

「高野さんにお金を使わせるわけにはいけません。これはみんなわたしのせいですから。お願いです。使ってください」

 僕は自分の財布の中身を検めた。『諭吉』がひとりもいない。

「わかったよ。使わせてもらうよ。僕も多少はあるけど、このさき何があるかわからないからね。バッグは置いていくよ」

 コンビニに置いていた車をマンション近くに停める。もう九時を過ぎていた。

「さて、腹ごしらえでもしよう」僕は明るい声で雪乃に言う。

「この時間なら、まだ『ほかほか弁当』が開いてます」

 弁当屋でコロッケ弁当とから揚げ弁当を買う。マンションに戻り、リビングの小さなテーブルに弁当を広げた。

「いいねえ。コロッケとから揚げか。名前がすごくいい。名は体を表すっていうけど、食べ物も名前がおいしさを物語る。うんチョコなんてもってのほかだよ」

 会社のことを思い出した。そして、祐未・・・。彼女はどうしているだろう。

 コロッケにウスターソースをかける。その味に、僕はほっとする。

「おいしいよ。コロッケ。なんだかこう、この非常事態を忘れさせてくれそうな、そんな不思議な力がある。コロッケには」

「わかります。平穏な夫婦生活って感じがします。から揚げもおいしい」

「うん、確かに。今度、コロッケとから揚げをテーマにお菓子を作ってみるよ」

「高野さん、ほんとに食べさせるの、上手です。わたしが食べたいと思うものをちゃんと口に運んでくれますから」

「適当にやってるんだけど。自分が食べる感覚で。テレビでも見よう」

 バラエティ番組を見た。ふたりはよく笑った。時々上下で目を合わせた。

 お茶を飲み、寝転がった。テレビの音を子守唄にして、またしばらく仮眠をとった。雪乃も目を閉じた。これから始まる大仕事に、力を蓄えておく必要がある。


 テレビの音で目が覚め、時計を見ると午前零時前。寝たり起きたりしているので気分がすぐれない。冷めたお茶を飲む。テレビを消すと雪乃が言った。

「そろそろですか・・・」

「あんまり真夜中もまずいような気がする。動かない本体を運ぶんだからね、見た人が僕を殺人犯と勘違いするかもしれない・・・」

 僕は立ち上がって背伸びをした。弁当を片付け、テーブルを拭いた。その他、他人が入った形跡が残らないように指紋もふき取った。

「きみのほうは、なにか、持っていくものはない?」

「いえ、特に」

テレビを消した。ガスの元栓をもう一度確認した。あとは本体を運び出すだけだ。

「きみは、体重は?」窓の外を見る。十分に深夜の景色だ。

「四十三キロくらい、です」

「よかった。きみが肥満じゃなくて。不幸中の幸いとはこのことだよ」

 ベッドルームに入る。ライトを付けると同時にのっぺらぼうの本体が浮き上がる。僕は一瞬本体が動き出したのかと思ったが、もちろんそうではなかった。顔以外は、どこからどうみても若い女の子がベッドに寝ている姿に違いなかった。僕は毛布を取る。パジャマ姿の本体。パンダの図柄だ。

「そのままで、かまいません」と雪乃は言う。

「怪しまれるよ」

「着替えさせてもらっても、いいんですけど、けっこう大変だと思います」

「いや、いいんだ。着替えさせるのは。ただ、その、脱がせなきゃいけないから・・・」

「もちろん、かまいません。恥ずかしいけど・・・。決して、いやじゃありません」

「僕も、その、いやじゃない。というか、着替えさせなきゃいけないんだよ。この場合」

「そうですね」

「妙なこと言ってる場合じゃない。クローゼット、開けるよ」

「ジーンズがいいですね」

「わかった。でも、はかせるのに苦労しそうだ。Tシャツはなにかお気に入りがある?」

「ネコちゃんのを・・・わかります?」

「これか。靴下もいるね。ワオー、君の下着がいっぱいだ」

 雪乃の本体の横に座る。鼓動が激しくなる。のっぺらぼうの顔は極力見ないようにして、体の方に目を向ける。パジャマのボタンを外し、抱き起こしながら上着を脱がせた。

「ごめん」と僕は言った。

「どうかしました?」

「つい、きみの胸にさわってしまったよ」

「何も感じません」

「今度はあごが胸に当たった」

「高野さん、いちいち言わなくてもいいですから・・・」

 下の方を脱がせにかかる。生唾を飲み込む。この状況にありながら、男としての生理現象が沸き起こってきた。例の、太郎くんだ。それまでその存在すら感じなかったが、ここへきて忽然と成長しはじめた。無理もない。祐未の花子ちゃんとデートしそこなったのだから。僕は太郎をたしなめながら雪乃を脱がせた。パンティが見えてくる。続いて白い脚。僕は目をつむった。太郎と衝動を抑え、一気に脱がせた。

「臭いませんか?」雪乃が訊く。

「い、いや」と僕は声を震わせた。喉の下に痒みを覚え、背中が熱くなった。

「下着、換えたほうがいいですか?」

「下着? めっそうもないよ。そんなこと、できないよ」

「わたし、かまいません。高野さんだから・・・」

「臭わないよ。本当だよ。それどころか、いい匂いがする」

「本当ですか?」

「きみにもわかるだろ。よく嗅いでごらんよ」

「わたしの匂いですから、わたしには・・・でも、それならいいんです」

 ジーンズをはかせる。僕は感情を殺し、作業に専念した。すっかり着せ替えが終わったころには汗だくになり、サウナにでも入っているような気分になった。おでこから湯気が立っていることが自分でもわかった。

「お疲れ様。ありがとうございます」雪乃が礼を述べる。

「見るかい?」

「はい」

 僕はシャツを上げ、着替えを終えた本体を見せた。

「どうだい?」

「なかなかのもんですね。かわいい」

「のっぺらぼうが?」

「はい」

「きみも、とうとうきたね。さっきは泣いたのに」

 忘れ物がないか確認し、ライトを消す。本体の前にひざまずく。首と脚に両手を差し込み、抱きかかえる。死体は思った以上に重く感じるというが、実際重いうえに、動かない人間の体を持ち上げるほど気味の悪いものはない。

 雪乃のうめき声が聞こえた。どうしても本体が雪乃の顔を圧迫してしまう。部屋の外に出る。人気はない。一気に階段を下る。二階でよかったと思うべきだろう。マンションの玄関を抜けた。車まであと少しというところで通行人に会う。

「だいじょうぶかい、今病院に連れていくから」

「すみません、あなた・・・」雪乃がうめく。

 通行人は少し振り向いたが暗闇に消えた。ボンネットに本体を置き、車のドアにキィを差し込む。助手席に本体を寝かせた。頭を打たないように、慎重に。

 再び部屋に戻ると鍵をかけた。ドアノブを回して確かめた。運転席に座るとすぐに発進した。クーラーの冷たい風を顔と腹に向ける。大通りに出ると少し落ち着いてきた。

「大成功だよ!」僕は運転席のシートに全体重をあずけた。

「よかった!」

「でも、名演技だったね」

「打合せなしで、よくできましたね」

「きみの声がいかにも苦しそうだった」

「ほんとに苦しかったんです」

 二人の笑い声が狭い車内に響いた。

「なんだか、腹話術みたいですね」雪乃が言う。

「きみの本体が人形かい? 本物の腹話術とちがうのは、まず、人形が生身の人間、そして声を出しているのは、その本体の正真正銘の持ち主ってことだね。ああ、わけがわからなくなるよ」

「あの、いつかトイレで会った、鰻さん」

「鰻さん? ああ、あのときは危機一髪だったっけ」

「腹話術の人形を作ってくれるって、言ってましたね」

「そんなこともあったなあ。遠い過去みたいだ」

「でも、鰻さんって、ニックネーム? 変わった名前ですね。鰻が好きな方なんですか?」

「何言ってんの。れっきとした名前だよ」

「まさか・・・」

「先は長いから説明してあげるよ。彼の出身は鹿児島なんだけど、池田湖って知ってる? イッシーで有名な。その近くなんだって。それで池田湖には鰻がいっぱいいるんだけど、あっ、思い出した。一メートルもある鰻がいるんだって。でも、たぶん嘘だよ。そんな鰻、もしいたら気持ち悪いと思わない?」

「あと、どのくらいかかりますか?」

「二時間、下手すると三時間だよ。それまで寝てていいよ」

「わたしも起きてます。高野さんが居眠りしないように」

「ラジオでも聞こう」

 AMの深夜放送に合わせる。

「そんな大きな鰻、おいしんでしょうか?」雪乃が聞く。

「さあ。そこのところは、聞いてないなあ。それでえ、時代は明治にさかのぼって、庶民も姓を名乗ることが許されて、どんな姓にするかみんな考えたわけだけど、ちょうどそのころ西郷さんが池田湖にやってきたんだって。それで村人たちは、西郷さんに自分たちに姓をつけてくれって頼んだら、『うん、そんなら鰻がよかでごわす』って。西郷さん、鰻が大好物だったらしいよ。」

雪乃は笑った。高速の標識が見えた。ウインカーを付けて左折する。法定速度を守り、信号もきちっと守った。ここでパトカーに捕まるわけにはいけない。バックミラーには雪乃の本体が見える。

「村人たちは西郷さんの仰せのとおり『鰻』って名乗ったわけだけど、やっぱり変だろうってことになって、村人の大半はやめたらしい。でも鰻さんの先祖は変えなかったんだね」

「どうしてでしょう」

「さあ。詳しいことは聞いてない。鰻さん、けっこうこの苗字を気に入ってるって言ってたよ。でもさあ、西郷さんのことって、西南戦争とか、上野の銅像とかでしか知らないけど、鰻って苗字をつけるって、どういう神経の人なんだろうね。自分の大好物って理由でさ」

「やっぱり、大人物だから?」雪乃が語尾を上げる。

「そうか、大人物だからか・・・」僕は語尾を下げた。

ラジオではタレントがおもしろい話をしていたが、まったく笑えなかった。高速に入るとスピードを上げた。早く家にたどり着きたかった。

「高野さん、眠くないですか?」

「きみが話しかけているうちはね」

「お寺ではどうしてるでしょうか?」

「媚蓮和尚、今日は徹夜で読経するって言ってたね。じい様の通夜も兼ねてるから、根詰めてお経を読んでいるだろうね」

「私たちもがんばらないといけませんね」

「そういうことさ。こんな事態だけど、かけがえのない仲間ができた」

 そう言って祐未や会社の同僚のことを考えた。彼らだって仲間だった。ただ、お菓子を作るためだけの仲間であり、人生の仲間ではない。祐未は伴侶にしたいと思ったが。大事なところで見放された。

「祐未さんはどうしてるでしょうね」

「きっと、飯田橋あたりで飲んでるよ」

「高野さんのこと、まだ思っていると思います。同じ女だから、わかります」

「―かもしれないけど・・・」

 ラジオから音楽が流れた。ビートルズの『レット・イット・ビー』。僕の気持ちはまさしくそれだった。なすがままに・・・。


 見覚えのある街並みが見えたとき、地球に着陸するスペースシャトルの宇宙飛行士の気持ちがわかるような気がした。

「我が家だ!」僕は叫んだ。

「無事到着ですね」雪乃の声が弾む。

 入居者のいない部屋の駐車場が空いていた。後部座席から本体を抱き上げる。腰が痛くてたまらない。背後で声がする。振り返ると男女のカップルがこちらに向かってくる。僕は本体を抱きかかえ、立たせるとのっぺらぼうにキスをした。二人の視線を感じる。そして足音が遠ざかる。

「のっぺらぼうにキスをした」雪乃に状況を報告した。

「もちろんわたしはかまいません」

「変な感じだったよ。生卵みたいにつるつるだった」

「感想は、言わなくていいです」

 僕は苦笑いして本体を抱きかかた。エレベーターの前にたどり着いたとき、四五人の若者が玄関の向こうに見えた。エレベーターのボタンを押すが、降りてこない。

「早くしろ!」エレベーターのボタンを何度も押しながら怒鳴った。

 背後の声は大きくなる。覚悟を決めた。一団は背後に来ると、話声をやめる。僕は不安になった。いまいましいエレベーターがようやく到着し、扉が開いた。僕は彼らに背を向け、本体の顔が見えないように胸で隠した。

「ここ、どこ?」雪乃が苦しそうにうめく。

「俺んちだよ」ぶっきらぼうに僕は答える。

「気持ち悪いの・・・」

「我慢しろ、まだ吐くなよ」

 一団が好奇の目で見ていることは明らかだった。四階で降りる。扉が閉まってから、彼らの話し声が背後からかすかに聞こえた。

「連れ込みだよ。いいなあ」

「なかなか良さそうな女だったぜ」

「顔、見たかったなあ」

「でもさあ、女の方・・・靴、どうしたんだろ・・・」

 遠ざかる一団の声に促されて、僕は本体の脚を見た。靴下が少しずれている。

 我が家に入ると、その空気を思い切り吸い込んだ。いい匂いではないが、間違いなく我が家だ。

「靴を忘れたよ」と僕は本体の素足を見た。

「かまいません」


 本体をベッドに横たえる。腰に手を置いて伸ばした。

「お疲れ様でした」雪乃が気遣う。「ご苦労様・・・」

「くたくただよ・・・」

「明日のことはどうしましょうか」

「大平さんたちのことか・・・」

 僕は例によってバーボンをラッパ飲みした。

「今、考える余裕ないよ。なるようにしかならないよ」

「ケータイにメールが入ってるかもしれません」

 鞄から雪乃のケータイを取り出した

「《十時に行きまーす》だって」僕はソファに倒れた。

「高野さん・・・」

「おやすみ。シャワー浴びたいけど体がもう動かない。ライトも消したいけど・・・リモコン付にしときゃよかった・・・」

 部屋のライトが少しずつ消えていく。

「おやすみなさい、サトシさん。今日はお疲れ様」雪乃の優しい声が心地よかった。

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