7 豪徳寺のもののけたちとご祈祷
世田谷の住宅街を抜け、小高い丘を登りきったところに豪徳寺はあった。裏門をくぐった霊柩車は砂利音を立て、木々の合間を縫って進んだ。本殿の真横で車は止まった。
「わたくしのお守りするお寺でございます。造りは立派ではございません。権勢の御加護も、民からの御布施も僅かばかりですので。ただ、聖霊の依拠する数少ない寺院でございます」
媚蓮和尚に続いて僕も降りた。お寺からは小坊主が数人飛び出て、「和尚様」と元気よく走り回る。
「これこれ、坊主らしくしなされ」和尚がたしなめる。
なるほど立派とはいいがたいが、木々に守られて風情のある寺院だった。木漏れ日が僕の体に模様を描いている。
「こいつはどなたですか?」
『一休さん』のようにかわいい小坊主が言った。
「高野聖さんですよ。神気の高い方ですから、お前たち失礼のないように。それより一休、天明を呼んできなさい」
一休さんに似た小坊主は、本当に一休だった。
「おじさん、ほんとにすごい人なの?」小坊主が聞いた。
「たぶんね」
「ほら、ハリーだって最初はいじめられててさ、自分が魔法使いだって知らなかったじゃないか」もうひとりの小坊主が言う。
おそらく『ハリー・ポッター』のことだろう。
「高野聖さん、こちらへどうぞ」和尚は本殿の正面へ歩いた。
本殿は木造の広い階段が十数段、本殿のあごひげのように伸びており、やはり木漏れ日を受けて模様を作っていた。
「和尚様お帰りなさい。おや、お客様ですか?」
一休さんが呼びに行った天明さんだろう。本殿の袂から不意に現れ、僕に気づくと一礼した。「天明、こちらは高野聖さんです。これから御祈祷をしますので、その準備をお願いしますね。それから、車からご遺体を降ろして、安置しておいてください。明日御葬儀ですよ」
「はい和尚様。高野様、こんにちは!」
天明さんは引き込まれるような笑顔を見せた。たいへん整った顔立ちだった。
「こんにちは、天明さん。よろしくお願いします。お寺に来ると、なんだか気持ちが洗われるような気持ちになりますね」
天明さんはまた笑顔を見せた。
「高野さん、シャツ、もう少し開いてもらっていいですか?」雪乃が息を荒くする。
「いいよ。僕が大分だらしなく見えるけど・・・」
「こちらへどうぞ」和尚は本堂の中に僕らをいざなう。
「そういえば媚蓮和尚、今、『車からご遺体を』とおっしゃいましたね?」
「あなた様方が気味悪がってはいけないと思いましてね、あえて言いませんでした・・・」
僕はその言葉で理解した。
「古井さんですか? あの霊柩車には古井さんの遺体が・・・ご遺体が乗っていたんですね―」
和尚はさらに廊下を奥へと案内し、広々とした和室に着座した。
「水曜の明け方、古井から連絡ありましてね。行ってみるともう病院に連れていっても、見込みのない容態でした」
小坊主がお茶を出した。僕は和尚に対座した。和尚は赤ちゃん椅子に座る。たいへん立派な籐作りの赤ちゃん椅子だ。
「驚いたな、まさかあの車に古井さんのご遺体も一緒だったなんて」
「昼前に息を引き取り、仮通夜をしましたが、昨日知り合いの病院にいちおう検死をしてもらってたんです。今日、霊柩車を葬儀社に借りましてね、引き取りに行った次第なんです」
「和尚さんひとりで、ですか?」
「あんな古井にも、お仲間がおりましてね。有り難いことですよ。亡くなるときも四、五人はいましたよ。そのうちのお一人は、わたくしも知っている易者さんでした。他の方はご近所さんと、ギャンブル仲間ですね。みなさんが、お手伝いしてくださいました」
「寺には、天明さんのほかには、小坊主さんが三名ほどですか?」
「寺にはわたくしひとりですよ」
媚蓮和尚の言うことがわからなかった。おそらく、天明さんたちは寺には住まってないのだろう。
「みなさん、ご近所にお住まいなんですね」
「何度も驚かすようで申し訳ないんですけれどね、高野聖さんですから、ご理解していただけると思います。人間はわたくしひとりです―」
「人間は和尚さんひとり・・・」
お寺の外で小坊主たちの声が聞こえる。まちがいなく子どもの声だ。一休ふざけるのはよしなさいと、小坊主をたしなめる天明さんの声も聞こえる。媚蓮和尚の言い方は、彼らの存在は人間ではないという言い方だ。
「天明も、小坊主らもここに住んでますが、人という存在ではありません。ここも歴史あるお寺ですからね・・・」
「『もののけ』ですね」僕はゆっくりつぶやいた。
媚蓮和尚はお茶を飲み干した。
「高野聖さん。あの者たちの姿が見え声が聞こえるということは、あなたが並大抵でないということです」
「おなかには雪乃さんがいますしね。僕が只者でないことはわかってきましたよ。ただ実感はわきません。媚蓮和尚、フルネームで呼んでいただかなくてもいいのですが。『高野』で・・・」
「理由があるのですよ。『高野聖』と呼ぶのは聖霊をこちらに引き寄せるためです。いくら聖霊が立ち寄るお寺といっても、常日頃から聖霊が落ち着いているわけではありませんからね。そうそう、雪乃さんの顔を出してくださいませ。隠す理由はありませんしね。ただでさえ窮屈なんですからね」
「大丈夫ですよ、和尚様。わたくしは・・・」
僕はシャツのボタンを全部外した。雪乃まで「わたくし」と言った。
「ああ、きれいですねえ雪乃さん」和尚は雪乃を見る。「こうして見るとお似合いですよ、高野聖さん」
「和尚様、ご冗談を。このままでは僕たち『阿修羅男爵』ですよ」
奥座敷が騒々しくなった。やがて天明さんが和尚を呼びに来た。
「古井にあなた方もお会いしたほうがようございましょうかね」和尚は立った。
僕たちも後に続き、廊下を歩いた。
仏は布団に寝かされていた。その顔を見て、すぐにはあのじい様易者とはわからなかった。もしかすると別人なのかもしれないと思った。亡くなって三日たっていた。病院の霊安室に二日安置されていたからその影響かもしれない。当然のことながらおなかに熱いものが流れた。媚蓮和尚は読経を始めた。天明さんと三人の小坊主も手を合わせている。もののけには見えない。ただ、ごくたまに彼らの存在感が薄れるときがあった。
読経の間、このじい様易者、古井さんはなぜ雪乃に呪文など教えたのだろうと考えた。うらむ気持ちはない。媚蓮和尚の見解では、その呪文だけでこのような事態を招いたのではなく、それを受け取る側に只ならぬ神気があったからという。『高野聖』という名をもった僕にも原因があると。そうだとすると僕の親が悪いということになる。
読経はそう長くなかった。親をうらむなんてできることじゃない。古井さんをうらむ気にもなれない。うらむとすれば自分自身の存在だろう。媚蓮和尚が「お似合いだ」なんて言っていたが、こうなる運命なのかもしれない。
「高野聖さんはもうご理解なさっておいでだと思いますが、古井はもう仏となりました。どうぞご容赦くださいますよう」振り返って和尚が頭を下げる。
「それはもう・・・」
不意にマクドナルドでの老人の顔が思い出された。チキンをぱくついていた、じい様易者。僕たちを見せたことが、じい様の死を早めたかもしれない。それは否定できない。僕は手を合わせ念仏を唱えた。
そのときだった。風がたち木々を揺らした。天明さんと小坊主は驚いた表情で僕を見た。風は強まり木々のざわめきは増したが、媚蓮和尚がなにごとかつぶやくと静寂が戻った。
「それでは、御祈祷をいたしましょう」和尚は立ち上がった。
三人の小坊主が僕を別室に案内した。
「こっちだよ」一休さんが僕の手を引く。
「一休、ちゃんと敬語をつかいなさいよ、『こちらでございます』って。このかたは『ヒジリ』だよ」
「ごめんなさい」一休がぺこりと頭を下げる。その仕草がかわいい。
「いいんだよ、敬語なんか」と思わずそのつるつるの頭を撫でる。
「『ヒジリ』がそんなこといったらいけないんだぞ。言葉には魂があるから、大事につかわないといけないんだぞ」
「そうだね、いいことを言う。きみの名前は?」
「道元」
「道元? きいた名前だね」
「道元、きみだって敬語つかってないじゃないか。『道元と申します』って言わなきゃ」一休さんが反論する。
「ふたりとも、ケンカしないで!」
先に部屋に行き、待ち構えていたもうひとりの小坊主が叫ぶ。声からすると、どうやら女の子らしい。
「ヒジリ様。この装束に着替えていただきますね」
「その『ヒジリ』はやめてほしいな。中学のときのあだ名だからさ。きみは女の子かい?」僕は尋ねた。
「女の子って?」もののけには性別がないのかもしれない・・・。
「ごめん、名前は?」
僕はすでに一休さんと道元さんに脱がされていた。雪乃がその様子を見て笑っている。
「わあー、きれいなひとがいるー」一休さんが叫ぶ。
三人の小坊主はおなかの雪乃に気づき、あいさつをする。「こんにちはー」
「こんにちは。かわいい小坊主さんたち」雪乃は保育士さんみたいな声を出した。
「ぼく一休」
「ぼく道元」
「わたし、珠姫ちゃん」
雪乃には自己紹介して、僕に自己紹介がなかったことに多少いじけたが、おなかにいる雪乃を見ても驚かないのはやはりもののけであるが故だろう。
装束は竜の刺繍を施した袈裟だった。上着は左右から重ねるが、雪乃の顔が見えるように重なりをうすくした。
本殿に戻ると中央ではすでに薪が焚かれ、炎が上がっていた。夏の日は高い。時刻は五時だが本堂は薄暗く、炎の形がはっきり見える。
媚蓮和尚はすでに読経を始めていた。それが聖霊を呼び戻すためのものと察する。天明さんは後ろに控え、僕に気づくと祭壇に案内して座らせた。時折薪の火の粉が落ちてきたが、不思議とそれを熱く感じなかった。三人の小坊主は奥へと消えたのか姿が見えない。薪の燃え盛る音と媚蓮和尚の読経が交錯して聞こえた。
僕は言われるまでもなく正座し、手を合わせていた。どれだけの時間がたったかわからない。天明さんがふたつのわら人形を和尚に手渡すのが見えた。『日本易学協会』で丸田会長が言ったことを思い出した。二つのわら人形を重ねて呪詛を唱える。
天明さんは僕に数珠を手渡した。そして横たわるように促す。僕は生贄になったような気分だった。生贄にされるのはわら人形なのだが。
和尚の声が力を増した。御祈祷のクライマックスが近づいているようだ。雪乃は目をつぶり、能面のように見える。僕も目を閉じた。すると和尚の読経も、炎が燃え盛る音も遠ざかり、僕は眠るように意識を失った。
天明さんに抱き起こされたとき、僕は目覚めた。雪乃はまだ目を閉じたままだった。
「終わりましたよ」天明さんは僕の肩を揉んでくれた。
薪の炎はまだ燃え盛っている。
「和尚は?」
「休んでおいでです。高野様がおたちになるときに、もうひとつ御祈祷がございます。それまでお部屋にてお休みください。おい、小坊主たち」
「キーン」と声がする。『ドクタースランプあられちゃん』となった三人の小坊主がやってきた。先頭は玉姫だ。
三人は僕をいとも簡単に担ぎ上げ、再びキーンと声を上げて部屋に運んだ。目にもとまらぬ速さで僕の衣装を着替えさせた。雪乃は目覚め、うれしそうに見ている。
「お布団はおひとつでいいですね」そう珠姫が言うと他のふたりがニヤリとした。
三人の小坊主は鼻歌を歌いながら布団を敷くと、壁を突き抜けてどこかへ消えた。笑い声が天井から響いてくる。
「ごゆっくりー」一休の声が聞こえた。
壁に掛かっている古時計は四時を指している。およそ一時間の祈祷だった。なぜだか寒気を感じ、布団に入る。横向きになると、雪乃を圧迫せず布団をかぶることができた。気づかれのためか雪乃と話をする気になれない。横になっていただけの僕たちがこの状態だから、媚連和尚の疲労は相当なものだろう。
雪乃の寝息が聞こえた。それを子守唄に僕も寝入った。
「高野様、そろそろ」
天明さんに起こされて時計を見ると五時過ぎだ。
媚蓮和尚は外にいた。白砂利に波模様をつけた庭で読経をしている。二回目の御祈祷だろう。
「服はこのままで?」天明さんに尋ねた。
「よろしゅうございます」
波模様の白砂利に立たされた。
「高野様、この庭を、あの木のあたりまで千鳥足でお歩きください」
「千鳥足?」
「こんなふうに」天明さんは酔ったように歩き出した。「脚を左右に交差させて歩いてください。後足が前足を越す事が無いように、摺り足でお歩きください」
「いつまで?」
「和尚様の読経が終わるまでです。折り返して、往復してください」
「ちなみに、これはなんのために?」
「『禹歩』といいます。御祈祷が成功するように祈願するためです。相撲の四股やすり足、神道の所作のルーツとされております」
僕はうなずいた。棒立ちで読経する媚蓮和尚の読経に合わせ、千鳥足で庭を歩く。砂利の音がざくざくと音をたてた。数回往復すると歩幅がわかり、眼を瞑って歩くことができた。正確にはわからないが、十数回往復しただろう。和尚の読経が終わり、お経ではない言葉を木々に響かせた。おそらく呪詛だろう。右手に呪符を握り締めている。
突然媚蓮和尚が倒れた。小坊主たちが軒下から現れ、和尚を担ぎ上げた。
「大丈夫ですよ。ありがとう小坊主たち・・・」
「媚蓮和尚・・・」僕はお礼を言うつもりが、すぐには声が出なかった。
「高野聖さん、あなたもお疲れでしょう。御祈祷はこれで終わりました。あとは待つばかりです」
「武蔵野に行ってきます」と僕は言った。
「わたくしの車をお使いください」
「霊柩車?」
「いえいえ。天明・・・」
「高野様、お待ちくださいませ」
天明さんは本堂の裏手へ走っていく。
「媚蓮和尚、ありがとうございました」雪乃と声をそろえる。
「できるだけのことはいたしました。高野聖さんももうひとがんばりですよ」
天明さんが車を出してきた。トヨタ2000GT、幻の名車だ。天明さんと入れ代わって運転席に入る。和尚、天明さんに頭を下げて発進。三人の小坊主が手を振る。
天明さんやあの子たちが人間であろうがもののけであろうが、どうでもいいことだった。優しい心遣いが身にしみてうれしかった。たとえ人間に戻ったとしても、僕には彼らが見えるような気がした。もちろん雪乃にも・・・。