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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
6/15

6 媚蓮和尚は頼りになるお坊さん

 僕は浅い眠りの中にあった。不意におなかに異変を感じ、眼を覚ました。腹に触ると異物感がある。シャツをめくって見ると、腹にイボガエルが張り付いてる。

「ゲロゲロ」

「なんだ? おまえは・・・」

「ゲロゲロ」

「ゲロゲロ、じゃないよ。雪乃はどうした、森下、雪乃は」

「ゲロゲロ」

 銀色の眼が僕を見る。雪乃は消えたが、その代わりカエルが張り付いている。

「ゲロゲロ」

「よしてくれ。消えてくれ。雪乃はどこに行ったんだ?」

「ゲロゲロ」

 僕は台所に行き、包丁を取る。刃をカエルに向けて脅すが、カエルは意に介す様子はない。あまりにも気色悪く、吐き気をもよおす。

「ゲロゲロ。」

 そのとき、本当に眼が覚めた。僕は起き上がり、おなかを見た。薄暗がりの中で、おなかは静かに波打っている。シャツを恐る恐るめくると、そこには雪乃の寝顔があった。カエルではない。夢だったのだ。僕は大きくため息をついた。時計を見ると六時。明け方が近づいている。

 思い出した・・・小さいころ、カエルがおなかにはりつくという漫画を読んだことがある。少年がガマガエルを石で殺したところ、翌日眼が覚めるとおなかに張り付いていたというストーリーだ。少年がどうなったかは覚えていないが、ホラー漫画だったからハッピーエンドでなかったことは確かだ。

 僕はカエルなど殺してはいないし、ましてや雪乃を殺したわけではない。にもかかわらず雪乃は僕のおなかに確かにいる。彼女は静かだった。寝息が小さく聞こえる。僕は雪乃が目覚めないようにゆっくりとシャツをもとに戻した。

「カエルではなく雪乃でよかった、と思うべきだろうか。ど根性ガエルのぴょん吉みたいに、せめてシャツに張り付いてくれたら・・・」


「おはよう、ございます」雪乃が沈んだ声で言った。

「おは、よう」

 僕の声も決して明るくはない。朝食を食べる気にはなれなかったので早々に着替えて出かけた。家を出て、駅に向かい、雪乃は駅のトイレで会社に電話をかけた。満員電車の中で雪乃を防御する。


会社に着く。祐未に「おはよう」と声をかけるが、彼女は会釈さえもしない。表情をかたくなにしてデスクに向かっている。

「昨日はほんとにごめん」

 返事をする代わりに、祐未は涼しい表情でメモ用紙に走り書きをすると僕に手渡した。

《今、わたしたち、四ヶ月前》

「午後から病院に行ってくるよ」

 これに返事はない。祐未はメモを僕の手から取ると、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱にポイと捨てた。

「高野くん」兼田係長がコーヒーの匂いをさせて話し掛ける。

「なんでしょうか」

「工場に様子を見に行ってくれないかね」

「僕、一人で?」

「そう」

「午後から、病院に行こうと思っているんですが」

「どこか悪いのかね」

「はあ。少しおなかの調子が、このところ悪くて・・・」

「そうかね。飲みすぎじゃないかね」

「たぶん、そうです」

「少し潰瘍ぎみなんだろう。気をつけなさい」

「はい」

「工場へはわたしが行って来よう」

「よろしいんですか? 時任は?」

「時任くんは別件で出てるよ。いいよ、気にしないで病院に行ってきなさい・・・」

 去っていく係長の背中を見ながら、リストラ候補に自分も名を連ねたかと考えた。

 

 トイレに入って一息つく。雪乃は朝から沈黙したままだ。

「大丈夫だよ。僕たちのせいじゃないさ」僕は雪乃に声をかけた。

「そうだといいんですが・・・」

「僕たちの姿を見せたことが直接の原因じゃないはずだ。そのショックでというのは考えにくい。それに、僕たちだってこんな事態なんだ。ああするより他になかったよ。大体呪文を教えたのはあのじい様だ。責任を感じることはないよ」

「わたしが変なこと聞かなきゃよかったんです。好きな人と結ばれる呪文なんか聞かなければ、こんなことには・・・」

「ねえ、ただの老衰か、病気で亡くなったかもしれないんだ。あのじい様易者のことを調べて、僕たちが原因だったらそのとき責任を取ろうよ。どんなふうに取ればいいかはわからないけど、僕たちがこうなったのは、あのじい様易者にも責任がないとは言えない。人から聞いたような呪文を教えるなんて、とんでもないよ」

 雪乃に話すことで、自分の中でも気持ちの整理がついた。昨日じい様易者が亡くなったと聞いたときは、申し訳ないという気持ちもあったが、今になってだんだん怒りがわいてきた。そもそもいい加減な呪文をあの易者が教えなければ、こんなことにはなっていない。

「あのおじいさんに悪気はなかったと思うんです」雪乃はいつのまにか涙ぐんでいた。

「・・・そうかもしれないね」

 僕の脳裏にマクドナルドでのじい様易者の面影が浮かんだ。今思えば、憎めない顔愉快なじい様だった。

「易者関係なんでもいいから調べてみよう。じい様のことがわかるかもしれない。それから、何が何でも飯田橋の易者を探さなきゃ」


 トイレを出て自分のデスクに戻る。祐未の姿はない。ため息をついてパソコンに向かう。「易者」で検索すると『日本易学協会』の文字が目に飛び込んだ。

「あったよ、さっそく、手がかりが・・・」

「なんですか?」

 僕は周囲に人気が少ないことを確認し、雪乃にコーヒーを飲ませた。少し気分も落ち着いたようだ。

「日本易学協会。社団法人だ。新大久保にある。池袋に近いのはラッキーだった。昼から行ってみよう。じい様易者のことがわかるかもしれない。ひょっとしたら協会の要人で、社葬とか、団体葬とかするかもしれない」

「今日はお通夜ですね。仲間の方とか、お知り合いと会えるといいですね」

「手がかりはこの協会と、池袋周辺の同業者だ。もしこの協会で手がかりがなかったら、飯田橋の易者と池袋の丸メガネの易者を訪ねてみよう・・・」

「まだなにか調べてるんですか?」

「ちょっとね、昼まで時間があるから・・・」

 僕はこのような事例がないか調べてみた。人間のおなかに人間の顔が張り付く事例。まず、『人面疽』を検索する。

「手の甲や、ひざにできる・・・醜い人の顔をした出来物か」

しゃべりもすれば物も食うとある。これは雪乃の場合と同じだ。ただ、彼女は手の甲とかではなくおなかにいる。また、どう見ても雪乃は出来物には見えない。醜いどころか美しい。

「なるほど、おなかにできる場合もあるのか。しかしこれは人が創作した架空の物語だしなあ。それに、どの人面疽も怨念をもっている。もともと怪奇小説やホラーに出てくる妖怪なんだろう・・・」

 雪乃は僕に怨念などない・・・むしろその逆だ。

「なに? 『人面疽の素』? これを肌に塗れば人面疽が現れます? 話し相手にどうぞ、だって? ふざけてんのか、これ」

 人面疽の治療法が書いてある。人面疽は昔から大食漢らしく、人面疽に食い潰されて借金が増えたらしい。その借用書を人面疽に見せて、「ほれ、お前のおかけでこんなに借金してんだぞ」と言えと書いてある。それで人面疽が消えるなら、人面疽は好人物に違いない。谷崎潤一郎の小説にもある。ストーリーはなかなかおもしろそうだが、読む気にはなれなかった。

 人面疽についての真面目な記述はどこにもない。やはり、雪乃は人面疽ではなく別のものだろう。

「キミの同僚、太平さんと話がしたいな」

「その必要性はありますか?」

「なんだか妙な胸騒ぎがしてね。キミは気にならない?」

「心配してるだろうな、と思います。そういえば、会社には連絡してますが、マアちゃんにはしてません。ケータイ、自分の部屋ですから」

「マアちゃん?」

「すみません、大平さん、正子って名前なんです」

「マアちゃん、心配してるだろうね・・・」

 雪乃から反応はない。


 おそらく長期不在になると覚悟した僕は、時任が帰社するのを待って、『ベビーチョコ』発売計画について打ち合わせた。チョコが溶けやすい商品なので、秋から冬の限定販売にすることにした。


 廊下で祐未とすれ違う。表情は依然として変わらない。

「じゃあ、病院に行ってくるよ」

「お疲れ様でした」

 事務的なあいさつが返ってきただけだった。「お大事に」という差障りのないいたわりの言葉をいただく。僕はまるで退社するような気分になった。もう二度とここに戻れないような・・・。


 エレベーターに乗り七階に向かった。営業部リサーチ課に行くことはほとんどない。

「彼女、いますか?」

「いや、いない。というか、考えてみたらマアちゃんのこと僕は知らないし・・・」

「見覚えはあるはずです。見ればわかると思います」

「何人か僕を見てるけど。居心地悪いな」

「思い出しました・・・今日、金曜日は外食です」


会社から二町ほど歩き、原田スカイビルの前に来た。一階に飲食店がひしめいている。

「トンカツ屋さんがあるんです。あの、お店の名前、覚えてませんけど」

「いいよ、僕も店の名前、いちいち覚えないよ。場所さえわかればね。きみたち、金曜日はトンカツを食べてるの?」

「金曜日はサービスでデザートが出るんです。もちろんトンカツ屋さんに来るの、毎週ではないです。うどん屋さんと、洋食屋さんと・・・」

「あらあ!」

 背後から大きな声が聞こえた。振り返ると恰幅のいい女性が立っている。

「あのう、高野さんですよね」

 その女性は首をかしげて愛らしい微笑みを見せた。

「きみは、もしかすると、大平さん?」

 雪乃が言ったように、見たらすぐに分かった。額に『大平正子』と書いてあるような気がするほど、名は体を表していた。

「わたしの名前、知ってらっしゃるんですか?」

「いや、その、同僚から聞いたことがあって」

「同僚? 誰ですか、それ」

「大平さん、食事? 一人?」

「いえ、中で二人待ってます。わたし、銀行に寄って来たので。よかったらご一緒しませんか」

大平さんを発見できたのは幸運だった。何気ない会話の中で、雪乃のことが聞けるかもしれない。

「いいの? 女の子だけなんでしょ?」

「どうぞ。同じ会社なんですから。男の方とお食事することあまりないし。みんな喜びます。どうぞ」

 大平さんと中に入った。店員の活気のある声が響いた。雪乃は黙っている。奥の座席で女の子が手を振る。

「遅かったわね」右側の女の子が大平さんに言った。

「いつもより多くて。金曜日だもん」大平さんが答える。

「この方は?」左側の女の子が僕を見て訊ねる。

「商品開発部のエース、高野さんよ。入り口にいらっしゃったから、ご一緒しませんかってお誘いしたの」

「どうぞ。どうぞ」左右の女の子とも声をそろえて言った。

 僕は大平さんの隣に座る。

「高野さんも、よくここにいらっしゃるんですか?」

「昔はよく来てたけどね。最近来ないね」

「今日はお一人なんですか?」

 沢井祐未とのことは承知しているのだろう。意味ありげな言い方をする。質問攻めにあう前に、こちらから仕掛けようと考えた。

「きみたちは、よくここに来るの?」

「そうですねえ、金曜日はよく来ます」と左。

「あんみつが出るんです。デザートで」と右。

 ここまでは、雪乃が言ったことの復習だった。

「ところで、きみたちの名前を教えてくれないかな? 落ち着いて話ができないから」

「わたし、田中と申します。『オランチョ』の大ファンですう」と左。

「わたくし、鈴木と申します。高野さんとご一緒できて光栄です。どうぞよろしくお願いいたします。」と右。

「高野さんの分を注文してないわ。」大平さんはメニューを手に取った。

「みなさんと一緒でいいです。僕がおごりますから」

「わあ。ラッキー」三人は小さく拍手をする。

「ところで、リサーチ課に女の子って何人くらいいるの?」

「六人です」大平さんが即答する。

 まるで僕の質問を予想していたかのようだった。

「そうなんだ。いいね、みんな仲良しで」

 三人ともふいに静かになる。湯のみを置く音が大きく聞こえた。

「どうかしたの?」僕は誰ともなしに訊ねた。

「いえ、あの」大平さんが口ごもる。

三人は顔を寄せた。

「聞いてみようよ。ひょっとしたら高野さん、何かご存知かもしれないし・・・」

「知るわけないじゃない。高野さんが雪乃のことなんか・・・」

「だって、雪乃は高野さんのこと・・・」

「雪乃はそうでも高野さんが―」

 さっそく雪乃の名前が出た。

「あの、当人の前でひそひそ話しないでくれないかな。何かあったんだね。誰なのかな。雪乃というのは。あ・・・聞こえたもんだから」

「実は・・・」大平さんが僕に向き直る。

「森下雪乃っていいます。高野さん、雪乃のこと、わかります?」

「いや、あまりきみたちのこと、知らないからね」

「あの子、社内でも評判の子なんですけど。聞いたことないですか?」

「きみたちと同じリサーチ課なんだね、森下さん。どうかしたの?」

「火曜日から四日、欠勤してるんです」大平さんがうつむく。

「四日・・・欠勤」

 僕は四日という言葉を聞いて、妙な気分になった。この状況は、そう、四日前の火曜日から始まったのだ。五日前は、平凡な日常があった。

「その、連絡も、ないのかな?」

「ありました。調子が悪いって」

「だったら、心配することは・・・」

「会社の方にです。わたしには、全然連絡ないもんですから。わたし、よく雪乃とはケータイでやりとりしてたんです」大平さんが僕に訴える・・・これはどういうことでしょうか、と・・・。

「メール・・・」僕はつぶやいた。

「はい。休んだ日の夜からずうっと打ってるんですけど、返事がないんです」

「でも、朝は連絡があるんだよね」

「だから、会社にだけなんです」

「おかしいんですよね。二人とも、別に喧嘩したわけでもないし」田中さんが言う。

「わたしたちもメールするけど、まったく返事ないもんね」鈴木さんが言う。

「実は、昨日行ってみたんです。雪乃のマンションに」

 大平さんの意外な言葉に僕は息をのんだ。おそらく雪乃も・・・。

「どう、だった?」

「部屋は真っ暗で。外に出てるのかなって、一時間待ったんですが、帰ってこないし。たぶん部屋の中にいるはずなのに、ドアホンを押しても返事がないんです」

「それは、変だね。でも、今朝は会社に連絡あったんだよね」

「はい」

「だったら心配することないんじゃないかな?」

「でも、やっぱり心配で。高野さん、何か知りませんか?」

「なぜ・・・僕が?」僕は悟られぬように生唾を飲み込んだ。

「正子、高野さんが知るわけないじゃない」鈴木さんがおばさんみたいに空中を払う。

「そうよ」田中さんも鈴木さんと同じように空中を手で払う。

 心強い味方をふたり得て、僕は落ち着きを取り戻した。

「残念ながら、森下さんを僕は知りません。どんな人なのか、ちゃんとした状態で見たことないんですよ。ところで大平さん、さっききみは、部屋にいるはずなのにって言ったけど、どうして部屋にいるってわかったの?」

「勘ですよ、もちろん。なんだか、気配を感じるんです」

「こわーい、正子様」鈴木さんが口を右手でふさぐ。

「大平さんに居留守をつかうことはないと思うけど・・・大平さんは今日も行くの? 森下さんのマンション・・・」

「いえ、今日は。なんだか気疲れして・・・明日、休みだから、明日行ってみようと思うんです」

「それがいいかもね」僕は相槌を打った。

「わたしたちも行きまーす」田中さんと鈴木さんが口をそろえる。

「もし、返事がなかったら、管理人さんに言って、開けてもらいます。なにか、事件に巻き込まれているかもしれません」大平さんが思いつめた表情で言う。

「まさか・・・」

「わたし、霊感が強い方なんです。特に、悪い予感はよく当たる・・・」大平さんは語尾のトーンを低くした。

「やだあ、怖いこと言わないでよ」田中さんが口をとがらす。

「行くの、怖くなっちゃった」鈴木さんは頬を両手で覆った。

「高野さん、一緒に行ってもらえませんか?」

 思いがけないことを大平さんは言い出した。

「なぜ、僕が?」

「男の方にいてもらった方が安心です」

「そうよ。高野さんがいたら心強いわ」鈴木さんが言う。

「だけど・・・」

 僕は思案した。行ったほうがいいのか、断るべきなのか。どちらが吉と出るか。

「すまないけど、明日、用があるんだ。きみたちとも、今日お近づきになったばかりだしね。でも、もし、その用を後回しにして、行けるようになったら連絡するよ。ケータイの番号、教えてもらっていいかな?」

「はい、では、わたしのを」大平さんは名刺を取り出すとケータイ番号を書き足した。

「ずるい、正子。高野さん、これ、わたしのです」と鈴木さん。

 こうなると田中さんも黙ってはいない。

「はい、高野さん・・・」ハートマークがついている。

 三枚の名刺を仕舞うとお膳が来た。四人はトンカツを食べ始めた。食べながら、僕はこれからの自分の行動を考えた。突然降りかかったこの危機を、なんとしても回避しなければならない。

「高野さん、これも何かの縁ですから、明日ぜひよろしくお願いしますね」

 大平さんの真剣な眼差しに心が揺れ動いた。

「確かに、同じ会社なんだしね。事件に巻き込まれていたとしたら大変だ。その、森下雪乃さんだったかな? きっと大丈夫だよ。元気にしてるよ。大平さんも悪いほうに考えすぎじゃないかな。事件なんて、そう簡単に起こるもんでもないしね」

「そうですね。会社には、連絡あるんですもんね」

 大平さんが少し涙ぐんだ。

「わたし、クッキーを焼いてくるわ」と田中さん。

「わたし、サンドイッチ」と鈴木さん。

「あなたたち、ピクニックに行くんじゃないんだから」

 大平さんが泣きながら二人をたしなめる。

「高野さん、ひとつ言っていいですか?」田中さんが真顔になる。

「なに?」

「最近猫背になってますよ。かっこ悪いですよ」

 僕は、おなかが目立たないように、背筋を伸ばしてトンカツを食べた。


 店の外に出ると、立ちくらみに見舞われ、目じりを抑えた。デザートのあんみつは三人の美女に譲り、僕はトンカツを食べ終えるとすぐ外に出た。

「みんな、心配してるね」僕は雪乃に声をかけた。

「はい」涙声で雪乃は答える。

 トンカツを食べ始めたあたりから、雪乃の涙が下腹部に流れた。

「マアちゃんはひとつ上で、お姉さんみたいにしてくれたから、声を聞くと涙が止まらなくなりました」

「わかるよ。僕のパンツ、かなり湿ってきた」

「ごめんなさい・・・」

「いや、いいんだ。イヤミで言ったんじゃない。大平さんたちの声を聞くのはかえってつらかったね。でもまさかきみがぼくのおなかで話を聞いているなんて、彼女たち想像できないだろうな」

 腹の虫が鳴る。トンカツを食べて満腹のはずだが、それでも腹がなる。

「これ、きみの腹の虫かな?」

「そうかも、しれません」

「朝飯も食べてないから、おなかすいてるよね。ごめん。うっかりしてた。僕ばかり食べて。きみに食べさせなきゃ。何が食べたい?」

「なんでもいいです。軽いもので」

 東陽駅前のモスバーガーに入った。照り焼きバーガーを分解して雪乃に食べさせた。雪乃は食欲旺盛で、チキンナゲットとポテトのMサイズを平らげた。

 雪乃の口から入ったものが、どこへ行くのかまったくわからない。空間移動で雪乃のマンションの本体まで運ばれるとは考えにくいし、僕の胃袋で消化されるというのも納得がいかない。そもそも雪乃の顔がおなかにくっつく事態からすると、こんなことは些事に違いない。気にしないことにした。

 僕は会社でチェックした『日本易学協会』に電話してアポをとった。男性が出て、「お待ちしております」と言った。

 雪乃は夢中でアイスコーヒーを飲んだ。その様子が赤ちゃんのようでかわいらしかった。


 空が曇ってきた。

 東京メトロ東西線で高田馬場まで行き、山手線に乗り換えて一駅で新大久保に着いた。新大久保は昔からダークな空気が流れていることで知られている。

「新大久保にぴったりだね。『日本易学協会』っていうのがあるのは似つかわしい」

「そんなこと言ったら、新大久保にお住まいの方に失礼ですよ」

「こりゃ失敬。初めてきみに怒られた」

 駅を出ると、鉄橋をくぐり、線路沿いの道を新宿方面に向かった。スマートフォンでマップを見ながら歩く。

「新宿整体専門学校、全国整体学協会か。だんだん近くなったって感じがするね」

「だいぶ歩きそうですか」

「あと二町くらい。この道沿いだからすぐわかるはずだよ。新大久保は二年ぶりぐらいだけど、けっこう変わってきてるなあ」

 会社のパソコンで『日本易学協会』を調べたとき、住所をスマートフォンのマップ検索に入力しておいた。スマートフォンのマップにはその場所に青いピンが立っている。

「近づいてきたよ」

 マップの青いピンの辺りと目されるところを見ると、二階建ての古いアパートが見える。多少の不安に駆られて急ぎ足になる。東京で生活するとおのずと早歩きになるものだが、スピードをマックスまであげた感じだ。

 スマートフォンのマップでは自分の現在地が青い点で表示される。『日本易学協会』を示す青いピンと現在地の青い点が完全に一致したその場所は、やはり二階建ての古びたアパートだった。念のため周囲の建物を見た。マンションが並んでいるだけだ。

「おかしいよ。それらしいのがないよ」

 雪乃から返事がない。

「えっ、なんですか? すみません、寝てました」

「『日本易学協会』っぽいのがないんだ・・・」

 僕は国会議事堂の縮小版のような建物、そうでなくてもそれなりのビルを想像していた。昭和の匂いの残る古びたアパートなんて想定外だ。アパートの前は駐車スペースが四台分あり、車が二台ある。アパートの二階を見上げると茶色い玄関扉が四つ見える。刷毛仕上げになったモルタルの南側の壁には『ほうれん荘』と書いてある。それを見て、僕はここかもしれないと感じた。一階は玄関前に植わっている生垣の影を受けて薄暗い。アパートの郵便受けに、とうとう『日本易学協会』の文字を発見してしまった。

「やっぱり、ここだよ。森下さん、起きてる?」

「え、ええ。起きてますよ・・・」

「寝てたね、きみ。まあいいよ、そうしているのもきついからね。いよいよ協会に入るけど」

「大丈夫です。お目目ぱっちりに起きました。わたし、自分の鼻で高野さんのシャツを目が見えるように調整する技を覚えました」

「さすがだね、さすがに只者じゃないよ。しかしこの協会の会長も、この建物からするとやっぱり只モンじゃないだろうな」 

 僕は薄暗い一階の奥に向かった。ほどなく『日本易学協会』の看板を発見した。看板だけは立派だった。

「ふつうのアパートの一室が協会本部なんて、涙が出てくるよ。もっと易学も発展してほしいね。入るよ」

 ノックをすると即座に返事があった。いや、ほとんど同時だったかもしれない。アポをとったから僕が来るのはわかっているにしても、早すぎる返事だった。

「開いてますよ。どうぞ」

 こもった声だが、アポをとるとき電話に出た男だとわかった。扉を開くと、奥に人影が見えた。窓を背負ってデスクに座っているので、後光が差しているようだった。

「電話した、高野です」と僕は人物に向かって言った。

 男は立ち上がり、手招きをしながら歩み寄った。

「どうぞ、こちらに」

 デスクの前には応接セットがあり、二人がけのソファを男は指差した。

「わたくし、こういう者です」

 どういう者か明白だが、男は名刺を差し出した。

 『日本易学協会 会長 丸田政宏』

 そのとき男の顔を確認した。正しくサザエさんのマスオさん顔だった。肌の艶は五十代といった感じだ。僕は相手の名刺を名刺入れにしまったが、自分の名刺は渡さなかった。

「どうぞ、おかけください」会長は笑みを見せて僕を誘った。

 ソファに座るとほこりが舞い、窓から差し込む日差しのなかを泳いでいる。見ると窓にカーテンはなく、新聞紙が二枚貼り付けてある。六畳一間の和室、二畳のほどのキッチン。和室とキッチンの間に襖などのしきりはない。壁には穴が開き、「築三十年は軽く越えています」と言っているようだった。スチール本棚が壁に寄りかかっている。長方形の形を完全に崩し、ひし形になっている本棚もある。すぐに話を切り出すべきだが、思わず見入ってしまう空間だった。丸田会長は何も言わず、そんな僕をなぜか満面の笑みを浮かべて見ている。

「びっくりなさったでしょう。まさか、協会と名の付くものがこんなふうだなんて」

「はい・・・」僕は正直な男だ。

「もうひとつ、『日本易学連合』というのがあります。そっちは立派ですよ。野球にたとえますと、あちらさんが『巨人』で、わたくしどもが『阪神』です。こう言ったら阪神の選手とファンが怒るかもしれませんが・・・」

「いえ、ここも風情があっていいですよ。あのスチール棚の傾き具合なんて、いいなあ。僕はここが気に入りました」

「大リーグで言うと、あちらが『ヤンキース』で、わたくしどもが『マリナーズ』です」

「会長はおもしろい方ですね。それは間違いなくイチロー選手が怒ると思いますよ」

 丸田会長が愉快そうに笑う。

 インターネットで『日本易学連合』は目に留まらなかった。見落としたのだろうか。またそちらも探せばいい。

「ちなみにですが」会長は腰を浮かしてまた座り直した。「このアパートは全室協会なんです。もちろん、生活もしてますが」

「そうですか。会長だけではないということですね」

「隣には理事がふたりいます、ひとりは外出中です。そのとなりが事務局で、事務員が三名います」

「安心しました・・・」

「で? 易学に興味をお持ちなんでしょうか。もちろん、生徒募集もしております。二階が教室になっていましてね。現在、六名の生徒さんが易者を目指して勉強なさってますよ」

「いえ、残念ながら生徒募集ではなくて、おたずねしたいことがあって参りました」

「ほう、なんでしょうか? ちょっと失礼―」会長はそう言って立ち上がると受話器を取った。「わたしだがね、お客様がお見えだ。そう、ひとり―ごめんなさい、どうぞ」

「実はですね、池袋の易者さんについてなんですが・・・」

「池袋?」会長は僕の対面の椅子に再び座ると鼻を膨らませた。

「池袋の東口で易者さんに見てもらったんですが、その方にもう一度見てもらおうと思って昨日行きましたら亡くなってまして」

「ほう。そうですか。年配の方ですか?」

「そうです。男性で、六十は越えていたと思います。どうしても聞きたいことがありまして。住所とか、連絡先でもわかればと、思いまして」

「それはそれは、ご苦労様でした」

 ドアをノックする音がした。「失礼します」と女性の声がする。ドアが開き、スーツに身を包んだ若い女が入ってきた。女は慇懃にお辞儀をし、テーブルに湯茶を置いた。

「どうぞ。私どものお茶は、おいしいですよ」

「いただきます・・・」

 女は退室したが、彼女の運んだ香水の香がかすかに残った。

「今のは事務員です。さて、その方のお名前はわかりますか? 協会に登録してればわかります。『日本易学連合』に登録していても、わたくしども調べることができます」

「それが、わかりません」

「もちろん、プライバシーの問題もありますから、あなたのことや、もう少し詳しい事情を教えてくださらないと・・・そうですか、わかりませんか・・・」

「だめもとできましたから」

「手相を見てもらって、易者に名前を聞く人なんていませんしね。易者も名前など名乗りません。協会や連合に登録してる人は易者を生業としている人の約五割です。あとの半分は、いわば一匹狼といいますか、その他大勢といいますか,実態を把握しきれないところがありますね。僧侶で易者をなさっている方もあります。そういった方は大体が陰陽師でもあります」

「陰陽師?」

「はい、陰陽師です。こちらでも陰陽道は開講しておりますよ。よろしければぜひ」

「そうですね、少し興味がわいてきました」

「・・・先ほどあなたは、その易者の方にどうしても聞きたいことがあるとおっしゃいましたが、その易者は亡くなったわけですよね。どういうことでしょうか?」

「その、聞きたいことというのは、どのようにして亡くなったとか、本人というよりは家族の方にですね、最期の様子だとか、ですね」

「だいぶ、お得意様だったんですね」

「ええ、占いが結構当たりましたので・・・お世話になりましたね」

「そうですか。易学が世間の皆さんに役立っていることを聞くと、うれしいですねえ。そうだ、ちょっとお待ちください」

 会長は再び電話の受話器を取った。家庭用エアコンが静かに動いているが、もう少し温度設定を下げてもらいたかった。団扇がテーブルの下にあったので拝借し、雪乃に風を送った。

「わたしだけども、斉藤くんはいますかな?」

 このアパートの何号室にかけたのだろうか。つくづく変わった協会だ。

「ああ、斉藤くんか。ひとつ聞きたいんだが、きみは池袋エリアの易者がわかるかね?」

 僕は聞き耳を立てた。かすかに斉藤さんという人の声が聞こえる。

「えーとね、六十代のじいさん易者だそうだよ。東口・・・」

 会長が僕を見る。僕は、じい様易者の特徴がわかるようにジェスチャーをした。まず自分の目を指差し、両手を目の左右において『握って開いて』を繰り返した。

「その易者はね、目が光ってて、えっ? 違う? ああ、眼光が鋭い? だそうだ。鼻毛が出てて、えっ? 違う? ああ、鼻がすうっと通ってる・・・」

「思い出しました。協会の方針で弟子はとらないって言ってました」僕は小声で言った。

「協会って口にしたそうだよ、弟子はとらないって。そう、昨日亡くなったらしいよ。なんだ・・・きみ知ってたのか・・・」

 僕は思わず立ち上がった。会長は笑みを浮かべている。

「あったよ、手がかり」僕は雪乃に話しかけた。

「よかったあ!」雪乃は声高だったが会長には聞こえなかったようだ。

 会長は相槌を打ちながらメモを取ろうとしている。その斉藤さんという人にじかに会って話を聞きたい気もした。このアパートのどこかにいるのだから。

「なんで?」会長の声の調子が急変した。「なぜ住所がわからないの? 協会の会員なんでしょ? 違うの? うん、うん。そう・・・」

 僕はソファに下ろした。会長の声はさらにトーンダウンする。

「協会の会員じゃないんだね。きみが営業で声をかけただけで、名前、住所までは知らない・・・昨日はたまたま池袋に行き、別の易者がいたんでその易者から聞いた・・・亡くなったことを・・・」

 僕たちと同じだった。会長は電話を置き、申し訳なさそうにソファに戻った。腰を下ろすとほこりが舞った。

「・・・というわけです。研究員の話では、協会に入りませんかって声をかけたそうですよ。評判の悪い易者らしくて、占いはまったくのインチキだそうです。協会では、易学の資質向上を目標としていますから。『連合』はしていませんがね。協会で教育をしなおして、ちゃんとした占いを世間の皆様にご提供する、これもわたくしどもの大切な仕事なんです。しかし、いやはやなんとも、申し訳ありません。お役に立てなかったのは残念です・・・」

「いえ、そんなことはありません。名前のわからない易者を探すなんて、土台無理な話です。それは百も承知で来ましたから。でも、易学の世界を垣間見ることができて、有意義でした」

 僕は立ち上がった。腹の中では次の段取りを組み立てた。『協会』がだめなら『連合』に足を運ぶまでだ。そのあと、飯田橋の易者を探す。

「それはよかった」会長は立ち上がった。

 出口に向かう僕に、会長が声をかけた。

「もし、ほんとによろしかったら、易学の勉強してみませんか。お待ちしていますよ」

 僕は振り返った。丸田会長は後光の手を借りて神々しく見えた。窓にカーテンをつけないのは、この効果をねらってのことと理解した。

「ええ、その気になりましたら・・・また、こちらからいろいろとお願いすることもあるかもしれません。そのときは、よろしくお願いします」

 僕は慇懃にお辞儀をした。きびすを返したとき、ドアをノックする音がした。

「はいどうぞ」丸田会長は今度も即座に返事をした。

 ドアが開いたが誰もいなかった。ではなく、視線を落とすと人影が確認できた。子どもが入ってきたようだ。

「これで、失礼します」と僕は出口に向かった。

 僕は出る前に、入ってくる人を優先し、キッチンの流しの前で待機した。子どもはゆっくり動き、足音一つさせず入ってきた。キッチンが暗かったために勘違いしたが、その人物は子どもではなかった。老婆だった。

 老婆は僕を一瞥し、少し間をおいてから思いなおしたように深くお辞儀をした。「理事長、お久しぶりでした」丸田会長が出迎える。

 僕は玄関で靴を履き、一礼してドアを閉めた。植木の陰が涼気を作り、僕の背筋に流れ込んだ。

「高野さん、どうかしましたか?」雪乃が声をかけた。

「いや、なんでも、ないよ」

 僕は漸く歩き出した。アパートから駅へ向かう途中、僕は考えていた。いや、感覚を呼び戻そうとしていた。

「今の老婆・・・」思わずつぶやく。

「あのう、すみません―」

 雪乃の声かと思ったそうではなかった。振り返ると『協会』でお茶を出してくれた女の子が立っている。

「きみは、協会の・・・」

「会長がお客様を呼び戻しておいでと・・・」

「わかった、ありがとう」

 僕は小走りで協会へ戻った。アパートに着いてから歩き、呼吸を整えた。会長室のドアをノックしようとすると、「どうぞ」と丸田会長の声が聞こえた。

 ドアを開くと、会長と老婆がソファで待ち構えていた。窓から差し込む日光と作り出される陰が、より一層その境界を際立たせ、凛とした小宇宙を形成している。埃っぽかったこの部屋だが、塵芥が部屋の隅々に退散したように、澄み切った空気に包まれている。この変化に、僕はまず戸惑った。

「ごめんなさい、お帰りのところ、呼び戻したりしまして・・・」

 会長はそう言いながら立ち上がり、窓側のデスクに戻ると僕を手招いた。

「どうぞどうぞ。こちらにいらっしゃる方は、理事長の吉田媚蓮さんです。あなたがお尋ねの池袋の易者さんをご存知でした」

 吉田媚蓮と紹介された人物は、わざわざ立ち上がってお辞儀をした。僕は対面に立ち、お辞儀を返した。

「高野聖です。失礼ですが、あなたは飯田橋で易者をなさっている・・・」

「ええ」吉田媚蓮は腰を下ろした。「お会いしましたね」

 僕はふたたび二人がけのソファに腰を下ろした。

「僕のことを覚えておいでですか?」

「覚えてますよ。いいお名前ですから・・・わたくしは酔ってませんでしたしね。あなたはだいぶ飲んでましたね・・・」

「あの晩、あなたの占いで酔いが醒めました」

「媚蓮和尚と呼んでください。そうでしたか、わたしが言ったこと、覚えていましたか・・・。それはようござんした。わたしも、酔っ払いに言っても、と思いましたけどもね。並々ならぬ神気を感じたものですから。声をかけてお名前をお聞きして、やはりと得心しましたよ」

 色は地味だが、質感のよい袈裟に身とまとった媚蓮和尚は、なるほど確かに和尚様だった。真珠の数珠を右手に巻いている。

「媚蓮和尚、あなたにお会いしたいと思っていたんです」

「池袋の易者は、理事長の遠い親戚にあたる方だそうです」会長が説明した。

 媚蓮和尚は湯茶を静かに飲んだ。茶碗を置く音さえしない。

「左様です。名前は古井といいます。遠い遠い親戚です。懲役に入ったこともある、人間としてはよくない部類ですね。正しい人道を全うするよう、わたくしが易者を勧めました。あの場所も以前わたくしが使っておりましたが譲りました。少しでも益がよいように」

「亡くなった、原因はなんですか?」僕は尋ねた。

 これこそ僕と雪乃が最も知りたかったことだった。自分たちの姿を見せたことが原因なら、それ相応の罪ほろぼしをしないといけない。

「安心なさってください。あなた方が原因ではありませんよ」

 媚蓮和尚ははっきり言った。『あなた方』と。

 媚蓮和尚はスターウォーズの『ヨーダ』のまさしく女性版だった。本物ほど皺はなく、女性だけあって艶がある。媚蓮和尚の目は、そのほとんどを瞳が占めている。その目を見ると、まるで暗黒の世界から見られているような怖さを感じる。多くの様々な苦行に耐えてきたその強さが、世の中の裏の裏まで見通す能力を授けたのだろう。

「わたしの目をまっすぐにご御覧ください。あなたには、なんてことはないはずですよ、高野聖さん」

 僕は和尚に言われるままに見返した。心を見透かすような怖い目と、眠くなるように心地よい声とのアンバランスが、媚蓮和尚の底知れぬ力を暗示しているように思えた。

「古井は脳梗塞でした。病んだ生活をしていましたからね。決して、あなた方のせいではないし、むしろ当然の報いといっていいでしょう」

「当然の報い・・・」僕は鸚鵡返しに言った。

「あなた方に古井が教えた呪文は合っています。ただ方法が間違っておりました。古井は呪詛を言葉にしてはいけない、覚えなさいと言ったということですが、陰陽道では、『呪符』というものを用います。符は種々の紋様、呪文、記号、神秘図形などの組み合わせで構成されておりますから、陰陽師のなかでも熟練した者でなければ書けない代物です」

「文字にすると効力がなくなると言われました・・・まちがっていたんですね・・・」

「陰陽道は、見えざる聖霊に善悪両面の祈願をすることができるんですよ」会長の解説が始まった。「わら人形に釘を打つなんて、ご存知なんでは。怨みのある相手に悪意を送る、いわば西洋でいうところの『ブラックマジック』ですね。陰陽道は護身や恋愛成就の『ホワイトマジック』も可能なんです。いずれにしても、人間の様々な善悪の祈願を聖霊に伝えなくては、聖霊は何もしてくれません」

「聖霊へのコンタクトを可能にするのが『呪符』なんですね」僕は言った。

「恋愛成就には、わら人形が必要だったんです。呪詛は唱えただけでは駄目で、呪詛をかける対象が必要です。それがわら人形。恋愛成就では、二つのわら人形を重ね、呪詛を唱えます。別にわらでなくてもいいんです。紙でも、木でも」

「古井は・・・」媚蓮和尚が多少肩を落とした。「陰陽道の『陰』の字も知らないであなた方に呪詛を教えました。これは許しがたいことです。陰陽道に熟練した者でなければ、安易に呪詛など使ってはなりませんのに・・・」

「理事長、古井さんは、どこで呪詛を聞いたんですかね」丸田会長は腕を組む。

「亡くなる前、少し話はできましたが、それを聞き出す前に息を引き取りましてね。大方、陰陽師くずれにたまたま聞いたか、どこかの寺院で盗み出された『偽呪符』が闇で出回ってるか、そんなところでしょうが、気にはなるところです。・・・それよりも、不思議なのは、呪符もなく人形もなく呪詛を唱え、あなた方に起こった出来事・・・わたくしもどう解釈したものか、悩みました」

「古井さんは亡くなる前、僕たちのことを話したんですね」

 媚蓮和尚は肯いた。

「さっきから聞いてますとね」会長は和尚と僕を交互に見比べた。「理事長は『あなた方』とおっしゃるし、高野さん、でしたね? そちらは『わたしたち』とおっしゃる。わたしは少し違和感を感じながら聞いていたんですが・・・」

 そのわけを今教えますよといわんばかりに和尚はこう言った。

「もしご迷惑でないなら、高野聖さん、あなたのおなかの女の方を、ご紹介していただけませんかね?」

「理事長、今なんと・・・」丸田会長は、和尚を初対面の人を見るような目で見つめている。

 

 僕はこれまでの経緯を話した。火曜日から始まった、おそらく『ゲゲゲの鬼太郎』でも出てこない妖怪の出現について。僕もかなり自虐的になってきた。

「媚蓮和尚。わたしたちはこんな事態になって、持ち前の性格も手伝ってか、おかしくならずにこうしています。原因が池袋の易者、つまり古井さんから彼女が教わった呪文だとわかり、火曜日でしたか、正確な呪文を聞きに行きました。しかし翌日、水曜日の朝、いったん彼女は消えたんですが、夜になってまた現れました。昨日木曜日、古井さんを訪ねてみると亡くなっていたんです。この事態を解決する手がかりが消えてしまったと、がっかりしました。そして易者が亡くなったのは自分たちのせいではないかと、気持ちが沈んでいたんです。この協会に来て、偶然あなたに会えた。そして何もかもよくわかってらっしゃる。わたしたちが抱いていた疑問にも答えていただきました。わたしたちは、媚蓮和尚、会長さんにも、会えて、うれしいんですよ。心強い味方を得たような気持ちです」

 雪乃が泣いているのがわかった。彼女も同じ気持ちだろう。

「高野さん、一つ間違っていますよ」媚蓮和尚は念仏でも唱えるように抑揚をつけて言った。「あなたがここに来たのは偶然ではありません。わたしくしがここに来たのも偶然ではありません。わたしくしたちはどうあっても出会う定めとなっていたのです。あなた方がそうなった原因を作った古井は、わたしの親戚なわけですからね。幸い、古井の最期をわたしが看取り、古井の口からあなた方のことを知りました。わたくしも、実はあなた方を探していたのですよ。わたしくしにも責任の一端はありますからね。それに、呪符も人形もなしに呪詛だけでそうなった原因も興味をひきました。あなた、高野聖の神気があったからこそと、わたくしは考えています」

「和尚、僕は至ってふつうの人間です」

「あなたが目覚めていないだけです。いいや、その事態を見れば、ふつうの人間でないことは明白ですね」

 媚蓮和尚の言うとおりだった。僕たちはふつうではない。

「高野さん、いいですよ。わたしを見せてください、和尚様に・・・」雪乃がはっきりした声で言った。

「今の、女性の声は?」丸田会長は椅子から立ち上がり、突然部屋に響いた女性の声に目を丸くした。

「お聞きのとおり、彼女はいいそうです」そう言ってから雪乃に声をかけた。

「お化粧はしたかい?」

 僕はシャツのボタンをはずした。全開になったシャツから、雪乃は涙と汗だらけの顔を出した。僕はそれを拭き、髪を左右に整え、母親が子にするように、見栄えをよくした。

「はじめまして。森下雪乃と申します」

 雪乃は顔を下げる代わりに眉を下げた。そして和尚と会長の顔を確認するように見ている。会長が感嘆の声を上げる。

「こんにちは。はあっ。こういうことですか、今わかりましたよ」

「失礼しますよ」媚蓮和尚は雪乃に顔を近づけ、陶器でも鑑定するかのように雪乃の頬を撫でた。「あなたもきついでしょうね。顔だけここにいらっしゃるのもね。あなたの愛の深さと、高野さんの神気があってこのようなことになったのでしょう。でももう大丈夫。わたくしどもがお助けいたしますね」

 媚蓮和尚の優しい言葉は雪乃の感涙をもたらした。よく泣く雪乃だから水分補給が必要だとどうでもいいことを思いながらも、どうやら僕自身にも水分補給が必要だった。和尚の言葉に安心してか、胸が熱くなる。僕たちはもう孤独じゃない。

「媚蓮和尚は、世田谷豪徳寺の住職で、陰陽道も熟知されており、わたくしどもの協会の理事長をお願いしている方なんです。今になってご紹介するのも変ですね。申し訳ございません。この方ならきっとお二人を救ってくださいますよ。今までもいろんな不思議な出来事を解決してこられましたから」

 丸田会長の言葉でさらに勇気が出る。

「では高野聖さん、森下雪乃さん、参りましょう」和尚が腰を上げる。

「どこへでしょうか?」

 雪乃と僕は声をそろえた。昔アニメのマジンガーゼットに体が男女半分ずつになった悪役がいたが、それになったような気がした。あれは『阿修羅男爵』だっただろうか。『阿修羅』―今の僕たちに似つかわしい。

「わたくしのお寺ですよ。御祈祷をしてみましょう。それでは会長、ごきげんよう」

 媚蓮和尚はすでに玄関にいた。歩くというよりは、床を滑るように移動する。さすがに陰陽師と感心せずにはいられない。

「それでは丸田会長」雪乃をシャツに仕舞いながら立ち上がった。「お世話になりました」

「幸運を祈ってますよ。なにかあったらまたわたくしどもにも何なりとおっしゃってください。お手伝い、させていただきます」

「会長、妙に敬語をお使いですね」

「あなたが『高野聖』というお名前だとお聞きしましたしね。あの理事長もたいへんあなたを敬っておいででした」

「たぶん、なにかの勘違いだと思うんですが・・・それに会長、僕の名前なんですが、『ひじり』じゃなくて『さとし』です」

「これは失礼」

 丸田会長は玄関まで見送った。アパート前の駐車場には霊柩車がある。その運転席のウインドウが下り、媚蓮和尚が顔を出した。

「高野聖さん、あなたは後部座席に乗ってくださいますか?」

 僕の両親はおかげさまでまだ健在だから霊柩車に乗ったことはない。葬儀屋ではない媚蓮和尚が霊柩車を所有しているのが不思議だったが、和尚様だからこういうこともあるだろうと納得した。

「高野聖さん、お寺までそう時間はかかりませんが、眠るなりしてゆるりとしてください。雪乃さんも休ませてあげてくださいね・・・」

「お心遣い、ありがとうございます」雪乃が言う。

「わたくしは運転をしながら、読経いたしますので。気になさらずにね」

「どうぞ、僕たちは、平気です」

 媚蓮和尚の読経が始まった。話すときのバイオリンのような声ではなく、少しトーンの低いビオラのような声色だった。媚蓮和尚が小さい身体でどうやって車を操るのか、そんな些事が気になったが、僕たちにはもうひとつ気がかりがあった。

 媚蓮和尚の祈祷が成功すれば、明日の朝には僕たちは元通りになっているかもしれない。しかし和尚の力が及ばなかった場合、明日雪乃のアパートに来ると言った大平さんたちは、とんでもない姿の雪乃を発見することになる。祈祷が成功すると楽観すべきか、万が一の対処もしておくべきか、そこが悩みだった。

 ただ、本体の状態も気になった。本体は大丈夫なのか・・・。雪乃の本体を確認せずにはいられない。雪乃が生身の人間であることを、妙な話だが、彼女の本体を見ることで、なにかしら納得がいくような気がした。それに雪乃の顔が戻る本体自体に異変があったら、祈祷が成功しないことも考えられる。

「やっぱり行くしかないね」と雪乃に言った。「本体を移動させたほうが、無難じゃないかな?」

「和尚様に御祈祷していただくんですから、大丈夫ではないでしょうか?」

「そうだとしても、その効果がすぐに出るかどうか。明日元通りになっているという保証はないよ」

「媚蓮和尚に聞いてみては」

「今、読経中だからね。あとで聞いてみるよ」

 車は五日市街道を下っていた。霊柩車は気分的には乗心地は悪いが、座り心地はリムジンのようで快適だった。気のせいか周りの車が避けているようで、すいすいと進む。

 媚蓮和尚が突然読経をやめて言った。

「祈祷はしてみますが、わたくしもこの事態は初めてなものですから、自信がないわけではないですけれどもね」。

「祈祷は、雪乃さんの本体がなくても大丈夫でしょうか」僕は聞いた。

「それは影響ないとは、思いますけどもね」

「雪乃さんの本体が心配なんです」

「本体は、雪乃さんの自宅に?」

「はい。明日彼女の同僚が心配して訪ねて来るんです。大丈夫でしょうか?」

「ごめんなさい。わたくしも確信はできませんね。このあとお寺で一回御祈祷します。そのあと、わたくしは一晩読経をいたします。祈祷のあと、できれば本体を高野聖さんのご自宅にでも移されたほうが無難でございますね」

 夕方のスケジュールが決まった。

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