5 恋人沢井祐未の怒り
朝はすぐきた。僕はつくづくこう思う。なぜ睡眠というものはあれほど短いのか。眠りについたとたんに朝だ。とても七時間たったとは思えない。睡眠の時間も、目覚めている時と同じ時の流れだったらどんなにいいだろう。ああ、もう寝てから三時間か、オレ、よく眠ってるなあ、などと考えながら寝てみたいものだ。
「サトシさん、サトシさん」
祐未の声がする。
「祐未・・・祐未?」
「いえ、わたしです」
僕は起きた。おなかから雪乃の声がする。
「今、サトシって言った?」
「はい。すみません。ずっと『高野さん』って呼んでたんですが・・・ずっと同じだと言いにくくなって。サトシさんって言ってしまいました。なれなれしいですね。ごめんなさい」
「別に、かまわないけど・・・」
「ほんとですか! それなら、これからはサトシさんで。でも、まだ早いですね。時期尚早ですね」
「きみたち、声が似てるね」
「そうですか」
「優しいときの祐未の声に似てたよ」
「あの、もう七時半です」
時計を見た。正確には七時三十二分だった。
「今日は休まれてはどうですか?」
靴下をはきながら、雪乃の意外な提案を聞いた。
「休めば、沢井さん昨日のこと、信じるんじゃないでしょうか」
「やはり、疑ってるかな?」
「昨日の夜は大丈夫だったと思います。でも、今日になってつくづく考えてみると、おかしな点に沢井さん、気づくかもしれません」
ケータイを取るとメールが入っている。
「『起きた? 具合はどう? 会社でね』か・・・祐未はもう家を出ただろうな」
その時ケータイが鳴った。祐未だった。
「電話がないから、心配になって。大丈夫?」
いつもの明るい祐未の声に安心した。
「それより、昨日は悪かったよ」
「いいのよ。うまくゆく恋なんて恋じゃないって、古い歌にもあるわ」
「誰の歌だい? まだ、体調悪いんだ」
「今日、休む?」
「デザインの打合せがあるから午後からでも行くよ。午前中休めば大丈夫・・・」
「ねえ、医者に行ってみたら?」
「まあ、いつかね」
「いつかなんて。すぐ行ったほうがいいわ。電車が来るから、それじゃ・・・」
午前中休むことを会社に連絡し、僕は再びベッドに潜り込んだ。ずる休みするのは久しぶりのことだ。
「どこも悪くないのに・・・気がとがめるよ」雪乃に声をかけた。
「でも、この事態ですから・・・十分に休養する権利はあるのではないでしょうか。精神を安定させるために」
「一理あるね。でも、医者なんかとんでもない。医者はきみを見てなんていうだろう」
「気絶するでしょうね」
「あのじいさん易者、さすがだったね。気はしっかりしてた。そうだ!」
「なんですか?」
「今日できみは三日休むことになる。きみは昨日会社に電話したの?」
「はい」
「なんていって休んだの?」
「体調不良です」
「今日もその手でいくかい?」
「ほかにいい言い訳がありますか?」
「ないね。二日体調不良と言ったのなら今日もそれがいいだろ。電話、かけるよ」
雪乃は、三日休むことになったことを課長に深く詫びた。
「だいぶ、うまくなったね。具合、悪そうだったよ」
「そうですか。少し演技してみました」
「不審に思ってるところはなかった?」
「大丈夫だと思います。女子の同僚も、わたしの生理が重いことは知ってますし・・・」
「あ、そう・・・」
僕はソファに身を沈めた。リモコンで冷房を弱くした。
「出社までゆっくり休もう。それから、きみの同僚・・・?」
「大平さんですか?」
「そう。彼女にそれとなく聞いて、様子を探ってみよう」
三日ほどなら、病休でも怪しまれない。しかし明日雪乃が消えるという保証はない。明日も雪乃が休むことになれば、同僚や上司は心配し始めるだろう。
昼食はカレーを食べた。一昨日と同じメニューだ。朝食を食べなかったので二人ともおかわりをした。
午後から出社し、『ベビーチョコ』の試作品について担当者と打ち合わせた。祐未とはほとんど話ができなかった。三時の休息時間、パソコンに向かう祐未にコーヒーを持っていった。
「おなかの具合は?」祐未は素っ気なく言った。
「復活したよ。コーヒーが飲めるくらい。言ってなかったと思うけど、僕はよく腹痛を起こす」
「そう・・・」祐未はキーボードを打つ手を休めない。
「原因はわかってるんだ。親父のせいだよ。『男は早飯、早糞』が口癖でね。小さい頃からほとんど咀嚼せずにご飯を胃にかき込んでたよ。だから胃腸が悪くなった」
「もういいわ。昨日のこと、思い出したくないの」
「悪かったよ」
「今日もゆっくり休んで」
「怒ってるね」
「そう。怒りが六割、心配が四割・・・」祐未はコーヒーを手にとって僕を一瞥した。
「まあいいさ。きみが言ったとおり、うまくいく恋なんて恋じゃない。紆余曲折があって当然だよ」
「お互い、わかり合ってると思ってたわ」祐未は手を休め、僕に白い膝を向けると足を組んだ。
「わかり合ってるさ。その度合いが問題だよ・・・」
「あなたのこと、ほんとは何もわかってないのかもね」
「僕もさ。きみのこと、まだ二十パーセントもわかっていない」
「時間をおく?」
僕は祐未の隣の椅子を借り、座ると腕時計を見た。
「そうだね。僕らの時間を少し止めてみるか・・・。少し、離れてみるのもいいかもしれない。会社も一緒だからべたべたしすぎた」
「理解し合うためには、一緒にいるだけでなく離れることも必要だと思うの・・・」
「きみは賢いよ」
「別れたいといってるわけじゃないのよ」
「当たり前だよ」
「あなたを愛してる・・・」祐未は周りを見廻してから僕の手を握りしめた。
僕も周囲を見廻し、安全を確認すると祐未の手にキスをした。
「同じく・・・」
「映画の真似しないで」祐未は笑った。
僕は仕事に戻った。『うんチョコ』の試作品について兼田係長が難色を示したので、さらに検討することになった。色を茶系にするか黄系にするかでもめたのだ。
「すみません。沢井さんとのこと・・・」
トイレで雪乃が言う。
「謝ることはないよ。祐未との関係がまずくなったわけじゃない。言ってみれば、一つの試練だと思うよ、僕と彼女の愛が試される・・・。ずっと考えてたんだ。きみが、どうしたら僕のおなかから消えるのか・・・」
「・・・」
「きみは言ったよね。その、あきらめがつけば、消えるだろうって」
「・・・はい」
「今まできみも見てきたとおり、僕は祐未を愛してる・・・あきらめつかないかな?」
「あきらめようと努力・・・しています」
「そう」
「でも、高野さんのおなかにいるようになってから、高野さんとお話したり、行動をともにしたりすることで、高野さんの人柄もわかりました」
「僕の人柄?」
「はい」
「どんな人柄なの?」
「うまくは言えませんが、この二日間、楽しかったです。高野さんといると楽しい・・・」
それ以上問うことはやめにした。親切な態度が裏目に出ていることを僕は自覚した。
「僕だってどこまでもお人よしじゃない」
「・・・」
「僕は祐未を愛している。もう一回言うよ。僕は沢井祐未を愛している」
「結婚するんですか?」
「たぶんね」
僕と祐未の会話では、『結婚』という言葉がよく出るが、二人ともジョークで使っている。今のところ深い意味はない。
「わたしの気持ち、うまく説明できません」
「・・・」
「わたしも・・・愛しています」
「・・・」
「どうしようもなく好きなんです」
「その・・・」
「あなたの、おなかに現れるくらい・・・」
「待ってよ。おなかに現れたきみをどう判断したらいいかわからないんだ。とにかく僕たちはこのままであってはいけない。そうだろ? 仕方ない・・・僕の気持ちをはっきりときみにわかってもらうよ」
「どうするんですか?」
「きみには酷かもしれないが・・・これから何が起こっても、静かにしててくれないか?」
トイレを出る。オフィスに戻り、コピーをしている祐未に近づいた。
「ほんとにおなか、痛いのね。トイレがこのところ長いわ、あなた。やっぱりお医者さんに診てもらったら?」
「今日行くよ」
「それがいいわ」
「じゃなくて、きみの家さ・・・」
「調子悪そうじゃない。それに、少し時間をおこうって話し合ったばっかりよ」
「その・・・」僕は極力声をおとして言った。「きみがほしいんだ」
雪乃には聞こえたかもしれない。
「こんなところで、なによ」祐未がやんちゃな僕をたしなめる。
「とにかく、一緒に出よう」
「少しは周りにも気を遣いましょ」
「わかった。会社が終わったら下で待ってるよ」
作品の打合せのため、僕は製造会社を時任と訪問した。予想以上に長引き、帰社したときには退社時間を過ぎていた。祐未はいなかった。地下鉄に向かう途中でケータイをかけるが出ない。たぶん祐未はもう電車の中だろう。僕はメールを打った。
『今、きみんちに向かってる』
しばらくして返信が来た。
『帰って』
『なぜ?』
『なぜでも』
『電車に乗った』
これに対して返信はなかった。僕は祐未の態度の変化を考えた。昨日夜中に帰したことをまだ怒っているのだろう。それにしても態度が冷たすぎる。自分をやきもきさせて、愛を確かめようとしているのだろうと考えた。それならそれでかまわない。自分の気持ちが偽りでないことを示してやろう。電車の吊革につかまり、僕は窓ガラスに映る自分にそう言い聞かせた。
鶯谷に着いた。駅からしばらく歩いた。商店街を抜けると小高い丘があり、五階建てのマンションの最上階に彼女は住んでいた。見上げると、彼女の部屋の灯りが見えた。僕は胸を撫で下ろした。玄関を抜け、エレベーターに乗ると、おなかをじっと見た。押し黙ったままの雪乃がいる。多少不気味に感じた。会話があった方がやはり落ち着く。雪乃はいったいなにを考えているのだろう。
扉が開いた。祐未の部屋に向かう。
一呼吸おいてチャイムを押した。
「サトシ?」祐未の声が聞こえた。「待ってて」
メールの言葉とは裏腹に祐未の声は穏やかだった。ドアが開き、Tシャツとジーンズ姿の祐未が現れた。
「入っていいかい?」
「もちろん、いいわよ」
「怒ってるだろ?」
「いいえ。あなたこそ、怒ってない?わたしが待ってなかったから―」
「とんでもない」
部屋に入る。祐未の部屋に入るのは四度目だ。
「メールで帰れっていうからさ。部屋に入れてくれるか不安だったよ」
「ソファに座って。ビール、飲む?」
僕は部屋を見回した。
「少しぐらい怒らないと、あなた調子に乗るから」祐未は缶ビールを開けて手渡した。
「冷たくしないでくれよ・・・」祐未の手をとり抱き寄せる。
「来てくれてうれしい・・・」
祐未は振り返り口を寄せた。キスをしては見つめあい、見つめ合ってはキスをした。チークを踊るように愛撫を繰り返し、僕は彼女を求めようとした。
「ねえ。夕食を先に済ませましょう」祐未の吐息が不規則に聞こえる。
「ほしいんだ。今すぐ」
祐未へ狂おしくキスをしながら、すべてのふくらみを揉みほぐす。祐未のシャツを脱がせようとして、ふと考えた。そう、僕はシャツを脱ぐわけにはいかない。
「ねえ、祐未」僕は言った。「服を着たままでしないか? フランス映画でやってたんだ・・・」
「うそ。どうせアダルトビデオでしょ」
「たぶん、それでも見たことがある・・・」
「わたしたち、倦怠期?」
「そうじゃない」
「結婚もしてないのに」
「倦怠期は恋人たちにもあるさ。ただ、きみといろいろ楽しみたいだけだよ」
「ほんと、あなたって―」祐未は幼い子どもでも見るように僕を眺める。「アブノーマルなんだから」
ふたりは下半身だけ、生まれたまま姿になった。
「どう? 案外、いい感じだろ?」
「ああん。わたしもあなたの病気がうつったみたい・・・」
僕はおなかが祐未に接しないように気を遣う。雪乃の存在を忘れてはいない。
「花子ちゃん、とっても潤ってるよ」
ふたりはおふざけで、互いの性器に名前をつけている。
「太郎くんは元気?」祐未が手を伸ばす。
僕の太郎くんはまだ睡眠中だった。
「まだ寝てるよ。起こしてくれる?」
祐未は起きあがり、太郎くんを撫でた。
「こんにちはー。太郎くん、お久しぶり」
シャツを抑え、おなかのふくらみを隠す。祐未と雪乃が対面しないように。
「ねえ・・・」祐未が動きを止める。「今、変な声が聞こえなかった?」
「変な声?」
「すすり泣くような・・・」
「いや。聞こえないよ・・・」
おなかに冷たいものが落ちる。
「ほら、今・・・鼻をすするような・・・わりと近くよ」祐未は耳をすます。
「それ、僕だよ」僕は鼻をすすってみせた。「ほら」
そう言いながら、僕は、それがなんであるかすぐにわかった。
「痛い!」僕はかがんで叫んだ。「まただ」
「どうしたの? またおなか?」
僕はトイレに駆け込んだ。シャツを上げ、雪乃を見る。彼女は泣きじゃくり、大粒の涙を流していた。
「悪かったよ。泣かないでくれよ。祐未に聞こえてしまう・・・」
「かまいません!」
「やけにならないで・・・」
「なります! あんまりです・・・」雪乃の嗚咽が激しくなる。
「やばいよ。祐未が来る―」
「サトシ、どう?」
「うっ! ううう!」僕は大袈裟に唸った。「とりあえず、出すものを出してる」
雪乃も声を下げた。静かにすすり泣く。
「パンツとズボン、ここに置いとくわよ」
「ありが、とー、うー」
「その様子じゃ、今日もだめでしょ―」
祐未の足音が遠のく。雪乃は鼻をすすりだした。
「もう少し静かに、ねえ。頼むよ」
僕はトイレットペーパーを取り、雪乃に鼻をかませた。
「そんなこと、言われても・・・涙が止まらないんです」
「とにかく、きみ、静かにしててくれよ」
依然、すすり泣く雪乃に向かって念をおす。ドアを開き、パンツをはいた。リビングに戻ると祐未は台所で鍋をかき回している。
「あっちもダメで、これもダメね」
祐未の作った料理の香りが漂ってくる。
「ごめんよ」
僕は傍に寄り、祐未の頬にキスしようとしたが彼女は避けた。
「せっかく早く帰って、作ったのに・・・」
「病院に行ってみるよ」
「それがいいわ」
「しっかり治して。しっかりきみを愛するから・・・」
「あてにしないで待ってる」
「怒るなよ」
「そうね。二度、こんなことになったからって怒るようじゃ、愛してるとはいえないわね。どうぞ。帰るんでしょ・・・」
祐未は眉一つ動かさず、僕を玄関にいざなう。僕は、祐未が真剣に怒り始めていることを予感した。
「はやく帰ってゆっくり休めば」祐未は僕に靴を片方だけ渡す。
「いずれ、きみに説明するよ」
「いったいなにを?」
「僕を信じてくれよ。僕は今苦境にあるんだ―」
「おなか、痛いんでしょ。芝居がかった痛みのある」
「苦難のときこそ、愛は試される。僕たちの愛はこんなにも脆いものだったのか?」
「恋人と別れる方法は五十もあるのよ。ポール・サイモンの歌によるとね。とにかく、今はもう話したくないわ。少しわたしも考えたい・・・出てって。さよなら」
僕は押し出され、ドアが閉じられた。
「祐未、祐未!」ドアを叩いたが、返事は返ってこない。
暮れた街の中を足早に歩いた。雪乃はもう泣き止んでいる様子だった。
「すみ、ません・・・」くぐもった声がおなかから響いた。
「少し、黙っててくれないか」
「はい。でも・・・」
「ああ、ごめん。今、ちょっと、気が立ってる」
「いえ、ほんとにすみません。こんなことになってしまって・・・」
「なに、だいじょうぶさ。祐未はきっとわかってくれる」
「あの、一か八か、わたしのこと言ってみたらどうでしょうか」
「一瞬、僕もそう考えた」
「祐未さん、わかってくれそうな気がします」
「たぶんね。でも、結局彼女をとんでもないことに巻き込んでしまいそうな気がする・・・」
「さっきの態度、ごめんなさい・・・」
「いいさ。ひどい仕打ちを、きみにしてしまった。後悔してるよ。僕の方こそ謝らなきゃ。ごめん」
「高野さんが意図されてること、わかっています。だから、耐えようとしたんですが、やっぱりダメでした。苦しくて・・・」
「わかるよ。僕だって、経験ある。好きな女の子が他のやつとセックスしていることを考えると、死ぬほど苦しかった・・・。それをわかっていながら、きみに、あんなことを・・・」
「わたしを諦めさせようとなさっていますね。そうすればわたしが消えると」
「方法をまちがったよ―」
「高野さんを諦めきれなかったから、わたしはここにいるんです・・・」
「易者が店を出すまでにはまだ時間があったからね・・・もしかしたらと思ってさ・・・。やっぱり,じい様易者に訊いてみるしかないね」
「・・・池袋ですね」
「そう、池袋」
池袋に着いたのは九時前。明治通りに易者の姿はなかった。じい様易者の定位置には、違う易者が陣取っている。じいさんよりは若い、丸メガネをかけた男の易者だった。
「いらっしゃい。占いましょう」丸メガネの易者は作り笑いを見せた。
「いえ、ちょっと聞きたいことがあって」
「なんでございましょう?」
「ここには、昨日までじいさんがいたんですけど。こう、顔が細くって眼光のするどい・・・」
「ああ、はいはい・・・」
「じい様易者は今日はお休みでしょうか?」
「あのじいさんなら、亡くなりました」