4 呪文失敗
水曜日の朝だ。目が覚めた。おなかをゆっくりさすってみる。凹凸はない。目で確かめる。彼女、雪乃の顔は消えた。
ベッドから飛び起きるとテレビをつけ、洗面台に向かった。鏡にも雪乃の顔は映っていない。腹を幾度となくさする。少したるんだ肉が、手に吸い付いた。いつもと変わりのない腹だ。僕は頭を横に振った。雪乃のことが夢のように思えた。
キッチンにはカレーのかすかな匂いが漂っている。僕は鍋の蓋を取って、中を覗いてみた。カレーは確かにある。流しには汚れたカレー皿が二つ。空になったワインボトルを指ではじくと、乾いた音が響いた。雪乃はやはりいたのだ。
僕は気を取り直して着替える。朝食をとる気にはなれない。
会社に入る前に僕は躊躇した。雪乃はどんな顔をして自分を見るのだろう。ビル前のベンチに座りしばらく考えた。
「おはようって会釈すればいい。でも、それだけじゃ素っ気ないか。冷たい人間と思うかもしれない・・・少し話した方がいいか。こんなとき、ブルース・ウイルスだったらどうするだろう・・・」
僕は、軽く会釈をすることにした。それが自然のように思えた。機会があったら、二人で話すこともあるだろう。そのときに、この奇妙な出来事を振り返って話し合えばいい。それで気持ちは落ち着くだろう。
会社のエントランスに立つ。普通の人間になった雪乃はどんな女性なのだろう。そんな興味もわいて、少し戸惑った。しかしそもそも雪乃はいるのだろうか。実在する人間なのだろうか。
「高野、何してんの?」同僚の浅野だ。
「いや、なんでも」
彼と会社に入ることにした。彼の影に多少隠れながら一階のフロアーに入る。エレベーター前で僕を待ち伏せていた彼女。しかし、エレベーター周辺に森下雪乃の姿は見えない。
「ハーイ」祐未が僕の肩をたたいた。
「やあ、おはよう」
「気分はどう?」
「悪くないよ」
エレベーターに祐未と乗る。
「二連チャンはきつかったんじゃない?」
「昨日は十一時には帰ったよ。さすがに疲れたから」
「今日、いいの?」
「いいよ」
「明日にしようか?」
「大丈夫だよ」
体調は良好ではなかったが、今夜はだれかに傍にいてほしかった。自分のデスクに着くなり時任が寄ってきた。
「高野、そろそろ行ったほうがいいよ」
「企画会議か・・・」僕はため息をついた。
「なんだ、最近燃えてないな」時任が僕に資料を手渡した。
「あのさ、時任」僕は時任の耳元でささやいた。
「営業リサーチ課の森下って、聞いたことある?」
時任はにやりと笑った。
「社内一の美人社員をモノにしたお前がなんだよ。もう浮気か?」
「違うって」
「まあ、気持ちはわかるよ。男なら気になるよな」
「そんなに評判なのか?」
「お前マジで知らないの? いくら沢井とべったりだからって。男ができた沢井祐未を抜いて今じゃトップだよ」
「そんなに美人なのか・・・」
ドアが開いて祐未が入ってきた。「会議よ―」
「社内二位が寿退職を今か今かと待ってるぜ」
時任が僕に耳打ちして出ていく。
今日は新作スナックについてある程度結論を出す。企画立案者と、課長と部長、そして専務を交えての企画会議だ。僕のスナックはもうどうでもよかった。ボツになってもかまわない。ただ係長のスナックだけは賛成しがたいものがあった。他の者がそれほど反対しないことにも違和感をもった。異常事態は嫌いな方ではないが、うんちの形をしたスナックがこの世の中に出回ってもいいのだろうか。
「ベビーチョコのコンセプト、スタンスはなんだね、高野くん」
米田部長が眼鏡の奥から問う。
「ひとことで言えばライトテイスト、つまり『軽さ』をモチーフとしたスナックということが言えます。この系列のスナックでは麦チョコがその代表格ですが、それに匹敵する、いやそれ以上のライト感覚のあるスナックを目指しました」
「アピールポイントは?」熊沢専務が無意味に微笑みながら問う。
「通常のベビースターラーメンよりも螺旋を強くしました。スプリング状に近くなります。このねらいは、口の中でスプリングが噛み砕かれる、このとき起こる快い食感を生むことです」
「なるほど」人の良い和田課長がしきりにうなずく。
「すると、ハコになるね。フクロじゃつぶれてしまう」
「螺旋と螺旋が絡まりあって取りづらいってことはないかね」
「それはありうる。そのへんはどうかね、高野くん」
「フクロ系ですと、手でつまんで食べる、手のひらにのせて食べる、袋から直接食べる、この三つが可能です。ハコは手でつまんで食べることしかできません。どちらにするかは、試作品の強度をみて検討すればいいと考えています。絡まって食べづらいという意見がございましたが、数珠つなぎになったものを食べることによって、消費者の遊び心を誘発すると考えています」
「あ、おれの三個つながってた、とかね」時任がベビーチョコをぶら下げる手振りをする。
「それならいっそ『数珠チョコ』なんてどうだろう、ネーミング」
「いや、スプリング状で噛み応えがあるなら『スプリング・ハズ・噛む』春限定!」
みなが笑う。
「悪くないないがね・・・」米田部長が身を乗り出した。「わたしが問うたコンセプトというのは、社会的コンセプト、状況的コンセプト、というものだよ。今なぜこの商品を世に送り出すのか、そういう意味でのきみのビジョンはなにか、ということだ」
「はい、ですから、ライト感覚。しいて言えば、『世の中の軽さ』です」僕は答えた。
「確かに現在は流れやすく、軽い世の中だ。そういう社会に対してきみはライト感覚、軽さで打って出ようというのかね?」
「まずいでしょうか」僕は極力声を荒げないように言った。
「まずいってことは、ないがね。わたしはもう少しインパクトがほしいんだよ。軽い世の中だからこそ、それに反発するハードなものが、新たな何かを生み出す。そこをわたしは言っているんだ。開発部にそんなパワーをもってもらわんことには、わが社の将来は危ない。時代の後を追うような商品ではねえ」
「まあ、米田部長。そのくらいにしなさい」熊沢専務が制した。「時代を先取りする商品も、時代を守る商品も、どちらの開発も大切なのだよ。高野くんはコンセプトよりも、味そのものを追及するタイプだよ。わたしはそうみてる。まあ、米田くんも発破をかけとるのかもしらんがね。いろんな個性があってよいし、役割分担ということもある。兼田係長の提案は変わった商品だと聞いておるから、米田くんの今の意見にマッチするんじゃないかね。とりあえず、高野くんの企画は商品化の方向で進めてくれたまえ。よろしいかな、米田部長」
「仰せのとおりに」米田部長は起立して頭を下げた。
休息中、僕はトイレに行き、大便をした。意味もなくおなかをなで回す。昨日サンドウィッチを食べさせた雪乃のことを考えた。
(彼女は出社しているのだろうか。なんとか確かめよう。もし休んでるとしたら心配だ・・・)
雪乃と話をしたかった。昨日の出来事を確認したいという気持ちがあった。雪乃と話をすることで、あの異常な出来事が事実であることを確認し、自分なりに気持ちを整理したかった。
トイレの鏡におなかを出して映してみた。
「ここに森下雪乃がいたんだもんなあ。社内でも評判の美人が」
そうつぶやいて腹に手を当てる。僕は、少し残念な気もした。社内で評判の美女が腹にとりつく経験なんてそうできるものでもない。
「どうしたの。腹なんか出して」
時任が入ってきた。
「いや、ちょっとね。少し、おなか出てきたかなーって・・・」
「中年みたいなこと言うなよ」
「三十過ぎれば立派な中年だろ」
「そうそう、森下雪乃は昨日から休んでるって」そう言って時任は大きなあくびをした。
「どうしてそれを?」
「社でも有名な娘だから、こういった情報は早いぜ」
「そうか、今日も休みか・・・」
「おいおい高野、やけに森下のこと気にしてるじゃない。社内二位とそろそろ結婚ってときに、まずいんじゃない?」
「そんなんじゃないさ。ちょっとな。あのさ、社内二位はもうやめろよ」
「もうおれたち中年だぞ。分別ある大人の行動しなきゃ」
時任は妊婦のようなおなかをなでた。もし森下雪乃が時任のおなかに張り付いたとしたら、さぞ窮屈な思いをしたことだろう。
兼田係長が新商品について説明した。当然ボツになるだろうという僕の予想に反して、『うんチョコ』はとりあえず商品化することになった。米田部長が後押ししたことは言うまでもない。熊沢専務は難色を示したが、時代を先取りする商品も必要だと述べた手前、試作品の段階で結論を出すことで同意した。どのような商品になるのか、一同の異様な興味をひいたことも確かだ。
祐未と退社した。風はあるが涼しくはなかった。ビルに反射して踊っている太陽光線が眩しい。地下鉄の階段を下ると、生温かい人いきれが立ち上ってくる。
「外食しないか」
駅に向かう道すがら祐未に提案した。
「二日も外だったから、家でゆっくりしたいでしょ。それに、ほら」
祐未はアイフォンの画面を僕に見せる。電車に乗るとすぐドアは閉じた。
「フェットチーネ、サンドライトトマト、オイルサーディン。なにこれ?」
「『サンドライトトマトとオイルサーディンのパスタ』のレシピ。作ってみようと思って」
「また人体実験か・・・」
「失敗したときの強い味方、宅配ピザがあるわ」
「そっちの方がいいかもしれない」
祐未が笑いながらどつく。
近所のスーパーに入る。カートを押しながら雪乃を思い出した。彼女は僕にジャワカレーという未知の世界を教えたくれた・・・お菓子コーナーで自分が生み出した『オランチョ』の売れ行き具合をチェックする。大人の目線よりも低く、子どもの目線からわずかに上の高さの棚に置いてある。僕は、まずまずだなとつぶやいて、『オランチョ』を数箱きちんと整えた。
「これ、持って」祐未がカゴを渡す。「重くなってきちゃった」
「ずいぶん買い込んだね。払うのはやっぱり僕だろ?」
「だってあなたのために作るんだもの。男はけちけちしないの」
「それ、男女差別だよ。女もけちけちしちゃいけない」
祐未はお菓子も買い込んだ。
「それも僕が食うのかい?」
「研究のためよ」
「そんなもの、会社で研究してるだろ? わざわざ自腹を切らなくても・・・」
「あなた、自分で買って研究したりしないの?」
「しないよ」
「だからよ」
「なにが?」
「いまいち、あなたお菓子に愛情がないわね」
「どういうこと?」
「会社で研究のためにお菓子を食べるのと、自分の家で食べるのとは違うわ」
「わかったよ。もういいよ。君の『未来のお菓子に関する論文』はこの前読ませてもらったし。レジ、行こう」
レジは、サザエさんに出てくる波平さんを女にしたような人だった。
「でも、ひとつだけ反論するよ。お菓子の開発で大事なのは客観的な目を持つことだよ。お菓子だけの世界に埋没してしまうとよくない。ヒントは意外なところにあるからさ。お菓子への愛情が返って仇になることがある」
「『オランチョ』の生みの親、高野教授のレクチャーはぜひ拝聴したいところだけど、ワイン、まだあったわよね」
「ワイン? 確か、飲んだと思う」
「ひどい。あれ、高かったのに。一人で?」
「当たり前だろ? 僕が愛人を作ってるとでも?」
「愛人だなんて、私たち、まだ夫婦じゃないわ。友達、家まで来たの?」
「いや。いつだったか忘れたけど、とにかく、飲んでしまったよ。たぶん、もう小便に変わって排出してしまったと思う。今ごろはもう東京湾かもしれない」
「私が排出する分を買って。あれ、高かったのよ」
「高いって何度もいうなよ。いくらしたの?」
「二万円」
僕は大袈裟にずっこけてみせた。
「きみを花嫁候補から削除するよ」
「どうして?」
「そんな浪費をする女性は困る。二万もするワインなんて」
「単純ね、あなたも。奥さんになったらなったでそれなりに考えるわよ。記念日だったから奮発したんじゃない」
「何の記念日だったっけ?」
「『初めての夜』記念日よ。酔っぱらうとダメになるからって結局飲まなかったの」
「わかった。酒屋寄ろう」
「花嫁候補にしてくれる?」
「きみさえよければ」
「あなたさえよければね」
祐未は僕の腕を取った。そして鼻歌を口ずさむ。幸せそうな彼女を見て、結婚を考えた。祐未と結婚してもいい。彼女は綺麗だし、性格もかわいい。僕にはもったいない女性だろう。そう思いはしたものの、一方で雪乃のことが思い出された。彼女も社内で評判の女の子だ。その子がおなかに現れるくらい最近僕はもてている。
「部屋、きれいにしてる?」
「いや、きみのために汚くしてあるよ」
「わたしは掃除屋じゃないのよ」
「きみのダイエットのためさ。最近、つまみがいがあるよ、きみのおなか」
「あなただって」
祐未が僕のおなかをつまむ。雪乃がいなくてよかった。
家に着き、ドアを開けたとたん僕は冷汗が流れるのを感じた。
「いい匂いがするわ」
靴を脱ぐなり祐未は鼻を利かせる。キッチンに行き、祐未は鍋の蓋を取った。
「カレーじゃない。どうしたの、これ」
「それ? もちろん、僕が作ったよ」
「いつ?」
「三日前」
「これ、三日前のカレーなの?」
「冷蔵庫に入れてたから大丈夫だよ」
「昨日食べたわけ」
「酔っぱらって帰ってきて、おなかがすいたんで食べたんだ」
祐未はひしゃくでカレーをかき回す。
「信じられない・・・」
「なにが?」
「具がまだ新しいわ。昨日作ったでしょ。今日が食べごろって感じ・・・」
僕は窓を開け、クーラーを入れた。
「だから、冷蔵庫に入れてたんだって。具が新しい? よくそんなことわかるね」
「おいしそう・・・。ねえ、今日はこれ食べようか」
「僕は昨日食べたんだ。きみの料理を食べさせてよ。なんだったっけ。『サンドバッグトマトとオイルアラジンのパスタ』?」
「サラダもあるわ」
「どんなの?」
「焼きカマンベールとキャラメルソースのごちそうサラダ」
「よくわからん。どんな料理が想像つかないよ」
「掃除するわ。あなた、シャワーでも浴びたら」
「ぬるま湯につかっとくよ。のんびり。料理の手伝いをさせられそうだから」
僕はテレビ番組表の雑誌と缶ビールをバスに持ちこみ、湯船に入った。シャワーを浴びながらお湯を溜める。おなかまで水位がきたとき、雪乃がおなかにいたら風呂には入れないところだったと考えた。
「彼女、どうしてるだろう・・・」
小さな声でつぶやいた。明日、雪乃が出社しなかったら・・・と不安になった。まさか死んでいたとしたら。腹にとりつくという異常現象からしてみると、あり得ないことではない。僕は身震いをしてぬるま湯を頭にかけた。
「いや、だいじょうぶ。彼女のあの様子。会社で会おうって言ったんだ」
僕は半分残っていた缶ビールを一気飲みし、空き缶を湯船に浮かべて一人戯れた。
「まだ、そこにいるつもり?」
バスの扉を開けて祐未が声をかける。
「いい気分だよ」僕は空になった缶ビールを渡す。「料理はどうだい?」
「中学の時の調理実習を思い出すわ。それよりあなた、長くない? もう五十分も入ってるわ」
「そんなに?」
「いつもは、烏の行水なのに。どうしたの?」
「僕はけっこう長く風呂に入るほうだよ。きみがいるときはそうじゃないかもしれないけど」
「そうだったの。つまり、わたしがいてもいつもの長風呂ができるくらい、わたしになれっこになったってわけね」
「不愉快かい?」
「うれしくもあり、悲しくもあるわ。でも、自然の摂理ね」
「これからいっぱい、僕たちは自然の摂理を経験するだろうな」
「パンツ、持ってきてほしい?」
「それは、結婚してからにしてもらおうかな。いいよ、自分でするから。きみは料理に集中してくれよ。ピザを頼まなくても済むように」
「おいしくなくても、なんとか食べられるわ。贅沢言わないで。飽食の時代なんだから、少しは謙虚になりましょ」
「わかったよ。たとえ豚のえさでも、きみが作ったものなら僕は食べる」
「いい心がけね。それより早く上がって。聞きたいことがあるの」
「なに?」
祐未は一旦消えてから、右手にシャツをもって戻ってきた。
「これ、なに?」
僕にはそれがどんなTシャツかもうわかっていた。二度目の失敗だ。
「Tシャツだろ」
「そう。でも、この穴はなんなの?」
祐未は穴を広げて見せ、穴から手を出しては、その奇妙さを確かめていた。
「おなかのあたりに穴なんか開けて。ハサミで?」
「たぶんね」
「何のために?」
「わからないよ、酔っ払ってたからね。涼しくしようとしたのかも」
「あなた、大丈夫? 少し変じゃない?」
「多かれ少なかれ、人間には変なところがあるさ」
「そうだけど、変なところが多すぎるわ。予想はしてたけど。あなたが変わり者ってことは」
「よかった。理解してくれてるね。そのシャツは、僕なりのファッションだよ。もう上がるよ」
「わかったから、これ着てみせてね」
僕は穴あきTシャツを着ることになった。
居間に行くと丸テーブルの上に祐未の力作が並んでいる。
「見た目はいいね。これはなに?」
「『ごぼう・レンコン・セロリのスープ』。ワイン、抜いて」
「見たいテレビがあるんだけど」
「録画でもすれば? 食事のときはテレビは消して」
「この前は映画を見たけど・・・」
「音楽・・・クラシックかジャズがいいわ。それ、ほんとに着たの?」
祐未は呆れ顔で僕のおなかを見た。穴あきシャツからおへそが覗いている。
「きみが着ろって言ったんだろ?」
「冗談に決まってるじゃない」
ふたりは食事を始めた。祐未の料理はまあまあだった。
「この、なんだっけ、名前。おいしいよ」
「『サンドライトトマトとオイルサーディンのパスタ』よ」
「ワインに合うよ」
「わたしが買った、二万円のワイン、おいしかった?」
「イヤミ言うなよ。金持ちになったらいくらでも買ってあげるから」
「一人で飲むなんて、信じられない」
「いいかげんに忘れたら? 食事がまずくなる・・・」
祐未のグラスにワインを注ぐ。
「二千円のワインで我慢してよ。大体、高いからおいしいとは限らない」
「サラダ、全部食べて」
「このサラダ、僕を嫌ってるような気がするんだ」
「レタスとツナのサラダがいいわけ? 持ってこようか。冷蔵庫にあったわ。あれはいつ作ったの? まさか三日前じゃないわよね」
サラダのことはすっかり忘れていた。昨日雪乃と一緒に全部食べておくべきだった。
「あれ? あれは今朝だよ」
「朝ご飯、自分で作ってるの? いつから?」
「今日から」
「どういう心境の変化?」
「駅前の立ち食いそばに飽きたのさ。ふと思ったんだ。僕の朝飯はこれでいいのかと」
「ふざけないで」
「いや、ほんとだよ。いいかい? きみは知らないと思うけど、僕はこの三年間、駅前のあの天麩羅うどんを食べ続けてきたんだ。これは異常だと思わないか。あの、汁の濃いうどんをさ」
「あなた、異常なんでしょ。だから、あなたにとってはそれほど異常なことじゃないのかも」
「いや、正直に言って、気づいてしまったというべきだろうな。三年間同じ朝食を食べ続けたこの驚異に。もちろん、天麩羅うどんだけでなく、きつねうどんも食べたけど」
「食パンがないようだけど・・・サラダの他になにを食べたの?」
「ご飯を炊いたよ」
「そうだ! カレー、食べていい? ご飯、余ってたわね」
「まだ食べる気?」
「あなただって昨日、お昼食べてからサンドウィッチ食べてたじゃない」
「別に張り合うことないだろうに。僕たち、肥満カップルをめざしてるのかい?」
「そう。太ってから体を鍛えてマッチョになるのよ。おいしそうだったから少し食べてみるだけよ」
確かに、カレーは一日おいたほうがおいしくなる。
「僕にもくれよ。マッチョカップル計画に賛成するからさ」
祐未は小皿にミニカレーを盛ってきた。
「あら。おいしい」
「だろ?」
「あなたが前作ったのと味が違うわね」
「前はポークカレーだったろ? これビーフカレー」
「なんだかおかしいわ・・・」
「なにが?」
祐未は皿を置いて部屋を見回す。
「どうしたの?」僕は祐未の目線を追った。
「考えてるの・・・」
「なにを」
「あなた、昨日から様子が少しおかしかったわ」
「そうだね。二日連チャンで飲んでさ。くたくただったよ」
「そうじゃなくて、なにか隠してる」
「隠してないよ」
「このカレーの味。あなたが作ったんじゃないわ」
「僕が作ったよ。それは事実さ」
「女の感よ。あなた、他に女の人、いるの?」
「いないよ、そんなの」
「別にいてもいいのよ。ただ、隠し事してほしくないの」
「僕はきみだけだよ。カレーの味が前と違うだけできみは僕を疑うのか?」
「カレーだけじゃないわ。昨日の飲んだのも女じゃないの?わかった。あなた、この部屋でその女と飲んだのね。わたしのワインを。サラダだって今朝じゃなくて昨日作ったんでしょ。これで辻褄が合う」
「いいかげんにしろよ!」
僕は怒鳴った。祐未の顔がこわばる。互いの瞳がこれまでと違う温度で見詰め合った。僕は視線を外し、ワインを飲みほした。そしてCDを変え、アメリカン・ポップスベスト曲集をかけた。『スタンド・バイ・ミー』が流れる。少しボリュームを上げた。
祐未はカーテンをつまみ外を見ている。
「僕は時代おくれの男なんだ。一人の女を一途に思う、今時では珍しい男なんだよ」
「わかってるわ」振り返った祐未は瞳を潤ませている。
「きみと付き合ってるのに他の女を部屋に呼ぶようなことはしない」
「マジに怒らないでよ」
「風俗に行くことはあるかもしれないけど」
「それはダメ」
「とにかく、不誠実なことはしてないつもりだよ」
「あなたはちょっと変わってる人。どこか違ってる。わたし、そこが好きなの」
「きみが嫌いになったらはっきり言う。その後で好きになった人と付き合う。二股かけるようなことはしないよ」
祐未が笑みを浮かべる。彼女の好きな『スタンド・バイ・ミー』を流したことが功を奏した。僕は祐未に近寄り、カーテンをつまんでいる手を握る。そして唇を指で撫でた。
「きみは、僕にはもったいないと思ってる。きみは綺麗だし、かわいい」
「もっと言って。うれしいから」
「肌はきれいだし、胸は大きいし、髪もしなやか。スタイル抜群・・・」
すばやく短いキスをする。僕は乳房をもみほぐした。祐未は少女のような吐息をもらす。
「ねえ。お風呂、入ってくる。昨日、シャワー浴びただけなの」
「いいよ。そのままで」
「お風呂上りの方がね、お肌もきれいよ」
「わかったよ。早くしてくれよ。あんまり遅いと寝ちゃうよ」
祐未はバスに入った。シャワーの音が響く。僕は、ベッドで目を閉じて大の字になる。クーラーがききすぎているが、止める気にならない。便意を感じ、トイレに行く。兼田係長の『うんチョコ』を思い出しながら、お菓子を便器に落とす。そのとき腹痛を感じた。僕は腹を抑えてこらえる。その痛みは耐え難いものだった。爆竹が一束おなかで弾けたような感覚がある。思わず声を出してうめいた。痛みが治まり、ゆっくりおなかを撫でていると、俄かになにかが隆起してくる。僕は手を離し、おなかの変容を見つめる。まさか・・・不安が胸をよぎる。目の前が一瞬かすんだかと思うと、あの顔が再び現れた。
「こんばんは・・・」
「こんばんは、って、き、きみは、森下・・・さん!」
「すみません、また突然」
「どうしたの?」
「わかりません。気がついたら、ここに・・・」
「今までどうしてたの?」
「寝てました。あれから、目が覚めて、元に戻ったのはよかったのですが、気分が悪くて、会社休んだんです」
「気になってたんだ」
「とてもだるくて、眠たくて・・・一日中寝ていました。そして眼を覚ますと・・・」
「ここにいるわけ?」
「はい・・・すみません。わたしも、今朝はよかったと思ったのですが。元に戻って」
祐未が風呂から出る。
「祐未が来てるんだ」
「沢井さんが? そうですか・・・」
「まずいなあ」
「ごめんなさい、すぐ消えたいんですが」
「呪文が効かなかったか・・・」
「サトシ、サトシ?」祐未の声がする。
「トイレ! きみが作ったごちそう、消化がいいよ」
「早くきてー」
「どうしましょう・・・」雪乃がつぶやく。
「頭が変になりそうだ。少し考えさせて・・・」
考えてみたところで、良い方法など永久に見つからないだろうことは僕にもわかっていた。とにかくこの場をどうにかしなくてはならない。雪乃がおなかにいることを祐未に知られてはまずい。彼女はこの理不尽を受け入れなれないだろう。もし祐未が発狂でもしたら・・・。
「長いのね、大丈夫?」
祐未がトイレのドアをノックする。
「出るよ。もうすぐ」
祐未の足音が遠ざかってから雪乃に声をかける。
「とりあえず、きみは静かにしててよ」
「わかってます」
「絶対に声を出してはいけないよ」
「はい」
僕は穴あきTシャツを反転させ、雪乃を隠した。祐未はバスタオルを巻いてソファに座っている。脚を組み、乾ききっていない長い髪をかき上げた。
「ねえ、ベッドまで抱いてって。どうしたの? 変な顔して」
「きみに見とれてるのさ」
「なんだかんだいって、久しぶりよね。わたしも興奮してきちゃった。ねえ、早く」
「アイタタ・・・」僕は腹を軽く抑えてうずくまった。
「どうしたの?」
「腹が・・・痛い」
「大丈夫?」祐未が歩み寄る。バスタオルが半ば落ちて、祐未の胸があらわになった。「見せて・・・」
「いいよ。おなかを見たってよくなるもんでもない。アイタタタ・・・」
「とにかく寝て。便はどうだったの?」
祐未に抱きかかえられ、僕はベッドに横になった。
「洪水だったよ。腸まで流れたかと思ったよ」
「冗談言えるから大したことないわね」
「イタタタ」僕は大袈裟に転げ回った。
「ねえ、どこが痛いの?」
「どこって、おなかだよ」
「そこ、おなかなの?」
「えっ?」
僕は股間に手を当てていた。祐未の久しぶりの半裸がその犯人だった。
僕は祐未が持ってきてくれた顆粒状の胃薬を飲んだ。本当に腹痛が起こりそうだった。いや、この状況ではそうなった方がいいかもしれない。いくら鈍い祐未でも、僕の下手な芝居を見破るのは時間の問題だ。
「今夜は無理みたいね・・・」
「ごめん、久しぶりだったのに」
「介抱してあげるわ。一晩中」
「一晩中?」
「そのうち治るかもしれないし」
「たぶん、治らないよ」
「そう?」
「前にもこんなことがあった。痛くて眠れなかったよ」
「いつ? 一度診てもらったほうがいいわ。悪い病気かも」
「脅かすなよ」
「心配してるのよ」
「とにかく、一晩寝れば大丈夫だよ。一人にしてほしいんだ」
「帰ったほうがいい?」
「すまない・・・。こういうときは一人のほうがいいんだ。わかるだろ?」
「傍にいたいのよ」
「ありがとう。気持ちはうれしいけど・・・」
「わかったわ!」語気を強め、祐未は無表情になった。リビングに行き服を着始める。「あなたって、まだわたしに気を許してないのね」
「そうじゃない!」
「わかったのよ―」
「なにが?」
「あなたの本当の気持ちが・・・」
帰り支度をする祐未に、僕はベッドルームから呼びかけた。
「僕はきみを愛してるよ」
「口ではなんとでもいえるのよ」
「ちょっとこっちに来てくれないか」
「なによ」柱に手をおいて、祐未は眉間を寄せる。
「きみを愛してる。それだけは信じてくれよ」
「まさかのときに、人間って本当の姿を現すものよ。あなたが病気なのに、わたしはほっとけないの。そのわたしをあなたは邪険にしてる」
「そんなことはない」
「わかるのよ。どうもあなたの行動、おかしいわ」
「またふりだしか?」
「もういいわ。とにかく帰る。あなたが帰ってほしいなら―」
僕には、雪乃のことを隠しとおす自信はなかった。いかなるハプニングで祐未と雪乃がご対面するかわからない。ドアの閉まる音が重く聞こえた。僕は暗闇の中で深いため息をついた。
「すみません、こんなことになって」
「悪いけど、黙っててくれる?」
「怒って・・・ますね」
「少なくとも、笑えやしないよ」
「わたしの罪は、きっといつか償います。許してください」
僕はバーボンのボトルを取って、ラッパ飲みした。続けざまに飲むと、喉の奥に走る痛みをこらえた。
「正直言って、きみがおなかに現れた昨日は、おもしろいと思った。この異常事態をね。今朝は、きみが消えたことにホッとする反面、心のどこかで、またきみが現れやしないか、期待しているところもあったよ」
「本当ですか?」
「ああ。人間て、おかしなものだね。いや、僕がやはり変わってるんだろう」
バーボンのボトルを抱いて夜更けの窓に立つ。
「きみが再び現れて、少しうれしかったのも事実だよ。でも、僕は悪い予感がしてきたよ」
「わたしも、どうしたらいいか、わからないんです」
「祐未を―傷つけてしまった・・・」
「いつかきっと、沢井さんに、わたしから説明します。そして、謝ります」
「そうしてくれると助かるよ。祐未が信じるかどうかわからないけどね。しかしどうしてよりによって腹が痛いなんて言ったんだろ。確かにキミが現れるときおなかに激痛がしたけどさ、祐未の視線をおなかに感じて気が気じゃなかったよ」
「あの、飲みすぎでは・・・」
僕は続けざまにバーボンを飲んだ。
「頭痛にするとかさ、もう少し機転がきかないかな・・・酔っ払わないと眠れそうにない・・・」
「高野さんは、わたしに消えてほしいですか?」
僕は返事に窮した。
「消えてほしいですよね。当たり前ですよね」
「きみも言ったろ? こうしていることは、きみにも僕にもよくないって。いつか元に戻るって」
「はい。いつか・・・」
「この理不尽な出来事がなぜ起こったのか、その原因をつきとめて、元に戻る方法を見つけなきゃ」
「わたしも、もちろん協力します」
「よかった。反対されたらどうしようかと思った。まずはあの呪文だ」
「やり方、間違ってたんでしょうか?」
「僕は悪い予感がしてきたよ」
「どういう意味ですか?」
「あの易者、じい様が間違ってたんじゃないかって」
「まさか・・・」
「じい様、誰かから呪文を聞いたような言い方をしてた。『仕入れたばかり』・・・とか言ってたよ」
「だとしたら・・・」
「あした池袋に行って、じい様にもう一度会うしかない―」