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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
3/15

3 元に戻る呪文をゲット!

 五時になり、僕はすぐに会社を出た。祐未が後をつけて来ることも懸念したがその様子はなかった。あまり飲みすぎないで、と言ったことから、僕の嘘を信じているようだ。

「さてと、まず飯田橋に行ってみよう」

 東京メトロ東西線東陽駅から飯田橋は通過駅だ。

「高野さんが易者さんに会ったところですね」

「そのあと池袋だ」

 易者が営業を始めるのは夕暮れ時。日が落ちるまで時間がある。

「とにかく飯田橋で、あの老婆易者に解決策を聞いてみよう。ほんとは、池袋に直行したほうがよさそうだけど。きみにこうなるアドバイスをしたんだからね。その易者は、きみになんて入知恵したの?」

「好きな人と結ばれるにはどうしたらいいか聞きました」

「その易者、男?、女?」

「おじいさん、です。おじい様っていう感じの、雰囲気のある方でした」

「飯田橋がおばあちゃんで池袋がじい様か。それで?」

 電車に乗る。人気の少ない車両に移動した。

「好きな人の名前を何回か唱えて、呪文を念じたんです」

「どんな呪文?」

「さあ・・・よく、覚えてないんです」

「やっぱり池袋にいったほうがよさそうだ。呪文、じい様易者に聞いてみよう」

「飯田橋の易者さんは・・・」

「気になるけどね、この件には関係ないかも。だってきみが僕のおなかに張り付くなんてお願いしなけりゃ、こんなことにはなってないんだから」

「高野さん、わたし、高野さんのおなかに張り付きたいってお願いしたわけじゃないんです。結ばれますようにって、祈ったんです」

「そりゃそうだ。ごめん、謝るよ」

「きっと、わたしが失敗したんでしょう・・・」

「呪文を言い間違えたとか?」

 電車内はいたって平和だった。電光掲示板に株価が出ている。

「とっても言いにくい呪文でした」

「その呪文、メモとかしなかったの?」

「呪文は覚えなさいって言われました。文字にすると効力がなくなるからと・・・」

「なるほどね」

 大手町で乗客が増えた。しばらく沈黙する。僕はケータイでメールをチェックした。

「高田馬場だ。山手線に乗り換えるよ」


 池袋はほのかに夕暮れ始めていた。森下雪乃が友達と会ったカフェは明治通りにあった。

「いますかね、易者さん・・・」雪乃が不安そうに言う。

「いてもらわなくちゃ困るよ」

 易者らしい姿はまだ見えない。マクドナルド池袋東口店で時間をつぶすことにした。アイスコーヒーとフライドポテトをもって二階に上がる。街路樹が生い茂って通りの視界が悪い。

「どう? 見えるかい?」

 シャツのボタンをはずし、雪乃の顔を出した。窓向いの席に座り人目を避けた。

「涼しい!」雪乃は声を弾ませた。

「ほら、筋向いにきみが行ったカフェが見える。友達と別れて、あの横断歩道を渡って、しばらく歩いて易者に声をかけられたんだから、だいたいあのあたりだ。森下雪乃さん、聞いてるかな、僕の話・・・」

「高野さん、すみません、アイスコーヒーを少しだけ・・・」

「ああ、ごめん、ごめん。自分だけ・・・。二つ買うわけにはいかなくてさ。買ってもよかったんだろうけど」

 僕は人目を盗んでアイスコーヒーをおなかの前に置いた。ストローを雪乃の唇に合わせる。

「ああ、おいしいです」

「どう? よく見て。このへんで間違いないかい?」

「はい、ですね。このあたりです」

「人をよく見てて。それらしい人がいたら、教えて」

「少し暗くなってきましたね」

 ビルの上の入道雲が夕闇に埋没していく。この夏初めて見る入道雲だった。僕と雪乃はしばらく黙っていた。店内にいる客の声がなぜだか録音テープのように聞こえた。

「高野さん・・・」雪乃が話しかけた。

「あ、ごめん、ポテトも僕ひとりで食べてた」

 僕はポテトを雪乃の口にあてがった。雪乃は食べようとしない。

「違うんです。いま、空気が動きました・・・」

「空気が動いた? 冷房、結構強いから」

「だれか、入ってきましたか?」

「そりゃあ、マクドナルドだし、人はひっきりなしに出入りしてる・・・」

 僕は辺りを見回した。ひとりの老人が目に入った。老人はお盆をもってテーブルに着くと、すぐにコーヒーをすすった。異様にぎらつく目。普通の老人でないことは明らかだった。

「まさか、あの老人?」

「見せてください」

 僕は体を反転させ、体を老人に向けた。雪乃の目のあたりでシャツのボタンを外し、左右に開いた。

「どう?」

「たぶん・・・」

「見えてる?」

「暗かったんで、確かじゃないんですが、雰囲気はまちがいないです」

「一か八かやってみよう」

 僕は動いた。トレイを持って老人の前に立った。

 老人はチキンナゲットをむしゃむしゃと咀嚼しながら僕を見上げた。

「ちょっと、いいですか?」

 僕は笑みを浮かべて同じテーブルについた。

「はい、なんでございますかの?」老人はいささかの警戒も見せずに、チキンナゲットに心を奪われている様子だった。

「まちがいないです」雪乃が明瞭な滑舌でささやいた。

 老人の声を聞いて確信したのだろう。僕は老人の正面に座った。

「失礼ですが、あなたは易者さんでは?」

「さよう・・・」老人はナプキンで手を拭いた。

「よかった。少しお聞きしたいことがありまして」

「わしゃ、弟子はとりません」

「そうですか。それは残念です。立派なポリシーをおもちなんですね」

「わしのポリシーというよりは組合の方針ですがの。そちらは、わしのお客さんかの?」

「はい。いえ、正確には、僕の友達が・・・」

「それで、わしになにか? 言っときますが、弟子はとりませんぞ」

「わかってますよ、組合の方針ですよね」

「組合の方針? 組合じゃなくて協会じゃよ」

「二日前なんですが、ある女性に声をかけませんでしたか?」

「とんでもない、わしゃ、ナンパなんかしとらん」

 老易者は、コーヒーカップをやや乱暴に置いた。

「いえいえ、ナンパじゃなくて、もちろん仕事ですよ」

「いい年こいて、そんなことするわけなかろう」

「わかってます。あなたはいい人だ。僕にはよくわかります。それで、易者さんから、歩いてる人に声をかけるってことってあるんですかね?」

「そりゃ、たまにはあるよ。客がないときは、こっちから声をかけるさね。まあ、小遣い稼ぎだから、商売は」

「易者さんには、その、霊力というか、すごい力があるんですか?」

「そんなもん、あるわけなかろう、わしらはただの易者じゃよ。占いじゃよ」

「僕の友達が、あなたに呼び止められて、不思議な力をもってるって言われたんです」

「わしに?」

「はい・・・」

 老人に悪びれた様子はない。必死に思い出そうとしている。老人が忘れっぽいのは仕方がない。

「三日前の、土曜日。九時過ぎぐらいだったということです」

 雪乃がささやく。

「けっこうな美人なんですが、その友達」

「美人!」老人はうなった。「美人なら覚えてるはずじゃが・・・」

「好きな人と結ばれる方法はないかと聞いたんです」

「そんなことを聞く人はたまにおるよ。美人じゃから、声をかけたんじゃろうね。わし」

「易者さんは、その女性になんて言ったんですか?」

「呪文を教えたよ―」

「それです!それを教えてほしいんですよ。どんな呪文ですか?」

「それは、教えるわけにいかん」

「企業秘密ですね」

「仕入れたばかりの呪文じゃ」

「仕入れたばかり?」

 僕は悪い予感がした。

「易者さん、あなたは、僕に呪文を教える義務があるんですよ」

「なぜじゃ? どうしてじゃ?」

 老易者の目が異様に光る。

「僕の友達、呪文を間違えたんです」

「なんと!」

 そう言いながらも、老易者はタバコを取り出して火をつけた。興奮気味に深呼吸をして煙を吐いた。

「そりゃあ、気の毒じゃった」

 老易者はしきりにうなずいた。

「それで、なにが起こった。ああ、あんたか、その娘が好きだという男は・・・」

 僕は、うなずくかわりに黙って氷のとけたアイスコーヒーを飲んだ。

「見せた方がいいんじゃないかな?」僕は雪乃に相談した。

「大丈夫でしょうか?」

「この事態を見てもらわないと、呪文教えてくれないんじゃないかな?」

「どうしたんじゃ? だれと話しとる?」

「今朝、僕が目を覚ますと、ある女性の顔がおなかに張り付いていたんです」

「ん? なんじゃと?」

 僕は老易者を手招いた。老人はたばこを手に持ったまま顔を近づけた。

「その女性は、僕と同じ会社に勤めてて、僕に好意をもっていたというんです。易者のあなたに声をかけられて、不思議な力をもってると言われた。彼女は、好きな人がいるから、その人と結ばれる方法を教えてください、と言った。あなたは彼女に呪文を教えました。文字にすると呪力が失われるから覚えなさいと言われた」

「思い出した! えらい別嬪さんじゃった!」

 老易者が大声で言ったものだから、周囲の客が驚いて僕たちを見た。

「じいさん、静かに・・・」

「おー、すまん、つい」

「彼女は、呪文を間違えて言ってしまったんです。それで、僕のおなかに張り付いてしまった」

「まさか・・・」老易者はにわかには信じがたいという顔をした。

「呪文をまちがえたからいうて、そんな奇怪なことが起ころうとは信じられん」

「そうですか?」

「だってそうだろうよ、お若いの。おなかに顔が張り付くなんて、そんな恐ろしいことがあるわけなかろうて・・・」

「そうですよね・・・」僕もうなずいた。

「そりゃあ、ばけもんだよ―」

 じじいの言葉は僕たちの胸を刺した。

「それは、ちょっと言いすぎですよ」

「ああ、こりゃすまん。あんたのことだったの、その話・・・もし本当なら、見せてみれ、あんたのおなか」

 老易者はたばこの火を消した。

「見せたら教えてくれますね、呪文」

「ああ、約束しよう。もしそれが本当ならわしの責任じゃからの」

「驚かないでくださいよ」

 僕はゆっくりとシャツを開いた。老人の視線を腹に感じる。老易者はなお顔を近づけた。雪乃を老易者が見たとき、老人はヒッと小さな悲鳴を上げた。見開いた老人の目は、にわかに充血してきた。雪乃はかろうじて「こんにちは」とくずれた笑みを見せた。

「呪文を、おしえてください」シャツを元に戻す。

 老易者は大きくうなずいた。僕を見る目は、明らかに恐ろしいものを見る目だった。

 老易者は呪文を僕にささやいた。

「もう一回・・・」僕は人差し指を突き立てた。

「もう二度と間違えてはいかん、驚いた、これは本物の呪文じゃった・・・。すまんがもう一回見せてくれ」

 僕はシャツを開いた。雪乃は決まり悪そうにほほ笑んだ。

「成功を祈るよ」

 老易者はそう言ってすばやく立ち上がった。そして老人とは思えない速さで立ち去った。

 僕はしばらく頭を抱えていた。呪文を声にならないように繰り返し唱えた。

 雪乃にも聞こえたようだ。

「なんとか、なりますね」雪乃が言った。

「呪文がわかった。きみにも聞こえたね?」

「四つの耳で聞いたんですから、もう間違うことはないですね」

「二つの脳で覚えたからね。もとに戻れる。まちがいないよ」

 僕たちはマクドナルドを出て駅に向かった。

「うん、もとに戻れる」僕はもう一度つぶやいた。


 西武池袋線に乗る。石神井公園駅に着くまで、僕はぐっすり寝込んだ。腕組みができないので、両手を両膝の上に載せた。まるでリングで灰になった明日のジョーみたいだと自分で思った。

 駅に着くと家路を急いだ。夜の八時を過ぎていたが、夕飯は家で作るしかなかった。

「今日は最後の晩餐としよう。外で食べるわけにはいかないからね。コンビニでお惣菜を買ってもいいけど、せっかくの晩餐だから。うちでなにか作るよ。何か食べたいものある?」

「何でもいいです。簡単なもので。あの、考えたんですけど、ストローで食べられるものだったら、高野さんを煩わすこともないと思うんです。シチューとか」

「ストローでシチュー? 熱でストローがふにゃふにゃになるよ。いいよ。食べさせてあげるから。おなかにご飯を食べさせるなんてそう経験できるもんじゃないよ」

「高野さんて、やっぱり、いい人ですね・・・。」雪乃が涙ぐむ。

「変わってるだけさ。こんな理不尽なこと、嫌いじゃないんだ。僕の弱点だよ」

 商店街でスーパーに寄る。

「カレーでいいかい?」

「得意なんですか?」

「いや。失敗する可能性が少ないからね。自炊するときはたいていカレーを作るよ」

 スーパーに入り買い物カゴを手に取る。

「肉は牛がいい? 豚がいい?」雪乃に訊く。

「カレーはバーモントですか、それともジャワ?」

「どうして?」

「わたし、牛肉だとジャワ、豚肉だとバーモントを使います」

「使い分けてるの?」

「はい」

「それ、いいね。僕も真似させてもらうよ」

「どうぞ」

「僕は生まれてこのかたバーモントしか食べたことない。たまには牛肉でジャワにするか・・・」

 じゃがいも、ニンジン、たまねぎ、サラダの食材を買い込んだ。レジは、ドラえもんに出てくるのび太がそのまま大人になったような男の人だった。合計千五百三十二円。

 スーパーを出る。僕は数週間前祐未とこのスーパーに買い物に来たことを思い出した。彼女は奇妙な味のするビーフシチューを作ってくれた。

「彼女、沢井さんのこと、大丈夫でしょうか?」

「ああ。大丈夫だと思うよ。信じきってたし。彼女けっこう単純なところがあるんだ」

「あの友達のことは嘘なんですか?」

「あれは本当だよ」

 駅から徒歩十三分の我が家に着いた。

「あっ、そういえば・・・」

「どうかしましたか?」

「もう一つ嘘をついてた。映画を作ってる友達・・・彼の代表作は『猫のお化け』じゃなくて『犬のお化け』だった。彼の、最後の作品だったよ・・・」


 まだ七月初旬だというのに、部屋はサウナのごとき暑さだった。窓を開けてクーラーを入れる。

「脱ぐよ」

「どうぞ。わたしのこと気になさらず、高野さんの好きなようになさってください。普段どおりに」

「シャワーを浴びたいんだ」

「わたしも」

「そう?」

「とても暑かったので、すっきりしたいです」

 バスルームに入るとシャワーを調整した。

「目をつぶっててくれる?」

「わかってます―」

 洗いタオルでゴシゴシ洗いたいところだが、やはり妙に落ち着かず、軽く汗を流す程度にした。

「もっと、かけてもらっていいですか」雪乃が目をつむる。

「大丈夫?」

「水の感触が、とても気持ちいいんです」

「おぼれないでくれよ」

 体を拭くときには注意を要した。なるべくかがまないようにした。かがむと、雪乃と例のものが衝突する。

「目をしっかりつむってますから、普通にやってください」

「そうは言ってもさ。きみに当たっちゃいそうだよ」

「それは・・・困ります」

「だろ?」

「高野さん、覚えてますか、呪文」

 雪乃が突然聞いた。

「忘れるはずないだろ。きみと話しながらも、頭のなかではお経みたいにながれてるよ」


 普段ならパンツとTシャツという格好だが、ジャージをはいた。

「さて、カレーを作るとしよう」

「何かお手伝いしましょうか・・・」

「手伝いといってもねえ。それじゃあ、きみ流のカレーの作り方を教えてもらおうか。僕流で作れないことないけどさ」

「わかりました」

「きみも、見えたほうがいいね」

 雪乃の顔は僕のTシャツに隠れていた。彼女には僕のシャツの内側しか見えない。僕はクローゼットからTシャツを一枚取り出し、ハサミをもってソファに腰掛けた。

「どうするんですか?」

「暑いだろ。涼しくしてあげるよ」

 僕は雪乃の顔の位置にあたる部分を目算して、ハサミでTシャツの腹あたりを切り抜いた。

「Tシャツ、切ってるんですか?」

「いいんだ。これはもう古いし。あまり気に入ってなかったんだ」

 僕は穴あきTシャツに着替えた。位置はぴったりだった。雪乃の顔がTシャツの穴から顔を出した。

「涼しい!」雪乃は声を弾ませた。

「名案だろ?」

「やっぱり、いろいろ見えた方が落ち着きますね」

「部屋、あまりじろじろ見ないでくれよ。掃除してないからさ」

 カレー作りを再開した。雪乃の指示で、隠し味にインスタントコーヒーを少々加えた。火を小さくしてしばらく煮込むことにした。ベランダに出て夕陽を眺める。

雪乃の身の上について質問した。ある程度彼女のことを知っておかなければ、落ち着いておなかに置けるものでもない。

「秋田美人か・・・」

「はい。いえ、美人では・・・」

「僕は長崎なんだ」

「知ってます・・・」

「そう。ひょっとして、僕のストーカーとかしてたんじゃないよね?」

「近いですね」

「ほんとに?」

「うそ。お名前、出身地、性別、血液型、特技、それくらいです」

「どうやって調べたの?」

「すみません。会社のパソコンで。わたし、リサーチ課ですし」

「これは失敬」

「恋は盲目・・・」

「恋は盲目か・・・ほとんど死後になりつつある言葉だね。今は、恋はゲーム、もしくはファッションって感じじゃないかな。簡単にくっついて簡単に別れる。困難があった方が恋愛は味わい深くなるのにね。でも、どうして僕なんか好きになったの?」

「わたし本当は商品開発部希望だったんです。中学のころから『オランチョ』が大好きで、高校の工場見学で『大正乳業』のお菓子作りを見ました。こんな仕事もいいなって思って『大正乳業』に就職したんです」

「入社して何年目?」

「二年目です」

「二十四歳か。六歳違いだね」

「はい。リサーチ課では消費者の意識調査や、商品の販売状況から市場傾向を割り出すんですが、『オランチョ』は根強い人気で、いつの世代にも好まれる人気商品なんです。しかも市場傾向を見るとき、『オランチョ』の売れ行きがひとつの指標になっていることがわかったんです」

「急にレクチャーが始まったみたいだけど、要するに『オランチョ』の開発者である僕に興味がわいたってことだね?」

「高野さんのリサーチをしているうちに、憧れを抱いてしまいました・・・」

「僕はきみのような美女が憧れるような人間じゃないよ。僕のおなかにくっついたのも、キミのリサーチ方法のひとつなのかもね。さて、ディナーにしよう。最後の晩餐だ」

 電話が鳴る。僕は躊躇した。

「祐未かもしれない・・・」

「でしょうか?」

「僕がほんとに飲みにいってるかチェックを入れてるのかもしれない」

「ナンバーディスプレイは・・・」

「彼女の自宅でもケータイでもないよ」

「沢井さんではないようですね」

「わからないよ。用心して公衆電話からかけているかもしれない」

「沢井さん、高野さんを信じていると思います」

「確かに祐未は、疑い深いほうじゃない。でも人間わからないものさ。とにかく出ないでおこう」

 電話が鳴り終わる。

僕は、祐未がいつか持ってきたワインのコルクを抜いた。

「きみはお酒はいける方かい?」

「少しは」

「祐未はね、けっこういけるんだ」

「そうですか・・・」

「僕より強いな。この前飲みにいったときなんかね、彼女に介抱されちゃったよ」

 二人分のカレーをテーブルに置いた。レタスとキュウリとシーチキンのサラダは一皿。

「一応乾杯しよう。奇妙な巡り合わせを祝って」

 僕は二つのワイングラスを合わせ、左手で自分に、右手で雪乃の口に運んだ。

「本当にすみません、今日は。突然こんなことになってしまって・・・」

「いいさ。奇妙なことなんて、長い人生の中では二三回はあるよ。さあ、食べよう」

 ふたりは食事をした。僕は、自分の食事と兼ね合わせて雪乃の口に食べ物を運んだ。サラダには苦労した。フォークで彼女の唇を刺しそうになった。

「おいしいですね」

「うん」

「それに、高野さん食べさせるのが上手」

「もう慣れたよ。わりと器用なんだ。おなかだしね。もし張り付いたのが背中だったら大変だった」

雪乃が笑う。僕は、彼女が笑うのを初めて見たような気がした。

「きみも落ち着いてきたね」

「高野さんでよかった、とつくづく思います。これが他の人だったら、気が狂って、自殺しているでしょう。そうなったら、わたしも死んでしまいます」

「僕だって、この状況は異常だと思うし、気が狂いそうだよ。もしきみがこんなふうでなかったら・・・たとえば、いつも睨んで、命令ばかりする女の子だったらさ、きっと気が狂ったと思うよ。きみが美人で、いい子で、謙虚な態度をとっているから普通の精神状態でいられるんじゃないかな」

「ごちそうさまでした。手を合わせることができません」

「それ、きみ流のジョークかい?」

「ワインで、少し酔いました」

「最後の晩餐、終わり。片付けるよ」

 残ったサラダはラップをして冷蔵庫に入れた。明日の朝、一人で食べるとしよう。

ソファに座ってアメリカアニメの『シンプソンズ』を見た。雪乃も大好きだということらしい。僕は『ホーマー』の物真似をしてみせた。そして、バーボンをしこたま飲んだ。

「飲みすぎじゃないですか?」雪乃が言う。

「僕は今友達と飲みに行ってるんだ。銀座にさ。多分十一時まで飲んでる。そして十一時四十分に帰ってきて、歯磨きをしているところへ祐未から電話がくる段取りなんだよ」

「では、ここは銀座なんですね」

「そう。銀座の高級クラブさ。テレビのある」

「次は何を見ましょうか」

「きみももっと飲んでよ。こんな異常なことってそうはないからさ。明日、会社できみと会ったらなんて言おうか」

「お世話になりました。わたしは、そう言います」

「あは、みてよ。あれ」

 ふたりはテレビを見て笑った。変な話だが、おなかに張り付いた女の子と一緒に笑うのは快いものだった。『腹を抱えて笑う』というけれど、腹そのものが笑うのだから。腹から笑い声が聞こえるのはすがすがしいものがあった。また、雪乃もいい笑い声をしていた。彼女がおばさんになったら、お笑い番組のさくらになれるかもしれない。

「それにしてもふざけてるよ」

「なんですか?」

「今日の会議さ。『うんチョコ』なんて・・・きみがおなかにいるのも忘れて反論しちゃったけどね」

「楽しいですね」

「なにが?」

「新しいお菓子を考えるって」

「時々ばからしくなるよ」

「どうしてですか?」

「たかがお菓子だよ」

「でも・・・」

「なんていうんだろう・・・『オランチョ』がヒットして、今でもまあまあ売れてるから、燃え尽き症候群みたいになったのかな・・・」

「『オランチョ』はまちがいなく『大正乳業』を支えてるヒット商品です。その開発者の高野さんがまだ平社員なんて信じられません!」

「森下くん、日本は学歴社会なんだよ」

 ケータイが鳴る。

「今度はまちがいなく祐未だ」

 ケータイの受信ボタンを押す。

「もしもし、サトシ?」

「いかにも」

「酔ってるわね。どうだった?」

「どうだったって」

「変なとこ行ってないでしょうね」

「行ってないよ」

「男同士だと、変なとこ行くから」

「変なとこ? 祐未、ああいうところは決して変なところじゃないよ。きみも行ってみればわかる」

「興味ないわ。それより、明日、いいでしょ。そっち行くわ」

「明日?」

「また誰かと飲む約束でもするつもり?」

「・・・もちろん大丈夫だよ。三日連続はきつい。きみと飲むのもきついけど」

「えっ?」

「いや、なんでもない」

「疲れてる?」

「まあね。もう寝るよ」

「うん。また明日」

「今日はすまなかったよ」

「いいわ。明日の晩、一緒にいられるし」

「また、きみのまずい料理を食わせてくれよ」

「ええ。覚悟しといて」

「はは。じゃあ、切るよ」

「ゆっくり休んで。明日の夜のために・・・あっはん、じゃあね」

 ケータイを切るとテーブルに置いた。

「あっはん、か・・・峰不二子じゃあるまいし」

 洗面台で歯を磨く。雪乃の歯を磨くのには苦労した。

「いたい」「ごめん」「いたい」「すまん」

 この繰り返しだった。雪乃の歯茎はきっと腫れてしまったに違いない。口をすすぐと血が出ていた。

 

 寝室に入りベッドに腰掛ける。呪文の時間だ。部屋の灯りを消す。しばらく沈黙。特に意味はないがエアコンを消した。

 雪乃は呪文を唱えた。老易者が言った呪文と違うところはなかった。僕と雪乃は、おそらく以心伝心でその呪文を確認しあった。雪乃の呪文は、自分と結ばれるようにという願いだが、ここは目をつむるしかない。とにかくこの異常事態を抜け出すことが先決だ。

「合ってましたか? 呪文・・・」雪乃が上目遣いで訊く。

「大丈夫だよ」雪野の顔をのぞき込んで僕はうなずいた。

 これだけの呪文で、こんな事態になったのが信じられなかった。

 ベッドに入る。僕は毛布をかけず、ただ横になっていた。毛布に穴を開けるわけにはいかない。

「大丈夫だよ。僕は寝冷えに強い性格なんだ・・・」

「性格? 体質の方が適切だと思いますが・・・冗句ですね。でも、いろいろありがとうございました」

「いいよ。おもしろかったよ」

「わたしも・・・いい思い出ができました。憧れの人と一緒に、たった一日でも生活できて」

「夢のような一日だった?」

「はい。こんなことって、有り得ませんね」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

「そして、さようなら。会社で会おう。たまには飲みにも行こうか」

「そうですね・・・。こうして高野さんと知り合えてラッキーでした。ひとまず、さようなら」

 灯りを消した。僕は大きく息を吸い、眠る体勢に入った。雪乃の存在が気になりすぐには寝付けなかったが、雪乃の寝息が聞こえると安心して眠る気になった。

 夜中の一時過ぎに雪乃のいびきで目を覚ました。「まだいるのか」と思いながらも、眠らなければ雪乃は消えないと考え必死に眠った。

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