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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
2/15

2 なんとかやりすごす奇怪な一日

 駅に向かっている間、もちろんこの状況を怪しむ余地はあった。これは有り得ないことだと。しかし実際、僕は腹に張り付いたモリシタユキノと名乗る女と会話をしていた。そうしなければ、状況は益々悪化するように思われたからだ。

「モリシタってどう書くの?」

「そのままです。森の下」

「ユキノは?」

「雪乃です・・・あの、高野さん。すいません、暑くて・・・」

「ああ、ごめん、ごめん」

僕はシャツのボタンを外し、風を送った。

「顔だけでも、やっぱり暑いだろね」

 石神井公園駅に着いた。いつもなら駅の立ち食いそば屋で朝食をとるところだが、時間的にも気分的にもその余裕はなかった。

「あの、もう一つお願いですが、ケータイ、貸してもらえませんか。会社に電話したいんです」

「きみは一人暮らし? きみの、その、身体の方はどうなってんだろう?」

「ベッドの上だと思います」

僕は想像してみた。身体がベッドに横たわっているのはいいとして、一体顔の部分はどうなっているのだろう。四谷怪談的状態なのだろうか。

僕は人気のないところを探した。通勤する人々の雑踏の中で電話はしづらいだろうし、おなかにケータイを押し付ける姿を善良な市民に見せたくはない。男性用のお手洗いに行き、洋式トイレに入って鍵をかけた。ケータイを取り出すと同時におなかを全開した。雪乃の額は汗びっしょりになり、申し訳なさそうな表情をしている。

「だいじょうぶ?」

 僕はハンカチでおなかを拭いた。いや、雪乃の額の汗を拭いた。

「すみません」

「耳がないようだけど。音は聞こえてるね」

「はい。聞こえてます」

「耳はどこなんだろう・・・」

僕は電話をかけた。呼び出し音が鳴るのを確認するとすぐに電話を腹にくっ付けた。

「もしもし、おはようございます。森下です・・・」

雪乃は話し始めた。病気で休むとするには張りのある声だったので、僕は内心ひやひやしたが、彼女は屈託なく体調不良で休むと言ってのけた。そして僅か二十秒ほどで用件を終えた。

「体調不良にしちゃあ、少し元気良すぎたよ」

「そうでしたか?」雪乃が微笑む。

身だしなみを整えるとトイレを出た。小便をしていた一人の男が、気味悪そうに僕を見た。

 電車の中では、森下雪乃を窒息死させないように気を遣った。

会社に着くと、その必要もないのにびくびくした。お前、腹に何か隠しているだろう、なんて人に言われやしないかと、妙に臆病になった。

僕はおなかのあたりを再度チェックして会社に入った。

「わたし、エレベーターで高野さんと一緒になることがよくありました」

 囁き声で雪乃が言う。おなかから人の声が立ち上ってくるのはつくづく妙な感じだった。

「そう。知らなかったよ」

「待ってましたから。高野さんが来るのを・・・」

「そうか!」僕は思い出した。「よく一緒になる美人がいたよ。あれが、きみなのか?」

 おなかの雪乃がほほ笑むのがわかった。


 エレベーターに乗り込み四階のボタンを押した。同僚と挨拶を交わす。

「わたしは七階です」雪乃がささやく。

 会社案内の表示板に営業部リサーチ課の文字がある。

「残念だけど、七階のボタンは押してないよ」

 商品開発部の精鋭七名がそれぞれにうごめいている。いつもと変わらない面々。適当に挨拶をしてデスクに座る。四ヶ月前から只ならぬ関係になった沢井祐未と目が合う。

「おはよう。あら、汗びっしょりね・・・」

「当たり前だろ。夏なんだから」

「―にしたって。まだ七月よ。昨日電話したんだけど」

「おいおい、職場でよせよ」

「いいじゃない、真向かいなんだし」

「だからって」

「どこにいたの?」

「昨日は取引先と接待、帰って来たのは二時だったよ」

「そんなの、わたし聞いてない」祐未が少し乱暴にファイルを手渡す。「会議の資料よ―」

「―高野くん、おはよう」

背後から気取った中年の声が聞こえる。振り返るまでもなく兼田係長だとわかる。

「おはようございます」

「昨日はごくろうさん」

「いえ、こちらこそごちそうさまでした」

「どうだったね。あれから」

「はい、先方に最後までお付き合いしました」

「そう。すまんねえ。私はもう限界だった」

「まっすぐお帰りになれましたか」

「ああ、なんとかね。しかしきみは強いね。兼ねてから強いって聞いてたけど、あれだけ飲んでしらっとしてたもんなあ」

「いえ、今も残ってますよ。アルコール」

「突然のことですまないね。また何かあったら頼むよ。きみのあれは大受けだったよ」

 兼田係長がデスクに戻る。

「あれって、何?」祐未が言う。

「今のでわかったろ。昨日退社前に接待に付き合えって言われてさ。きみは外回りに出てたろ。接待に行くって、とりあえずメールには入れといたよ」

「えっ? 見てない」

「ちゃんと送ったよ」

「それより、あれって何?」

「あれって?」

「その、先方に受けたって」

「ああ、裸踊りのこと?」

「裸踊り?」

「きみには見せただろ」

「見たことなーい。裸は見たけど・・・」


 僕は他の同僚と新商品の打合せを始めたが、にわかに腹の具合が悪くなりトイレに駆け込んだ。

「大丈夫ですか?」

 腹からの声に僕はびっくりした。

「やあ。きみ、やっぱりいるね。腹が痛くて・・・思わず思いっきりがんばったけど・・・臭くない?」

「いえ・・・」

「正直に言ってよ。ほんとはくさいでしょ?」

「・・・はい。ふつうに、匂います。でも生理現象ですから」

「うんこがジャスミンの香りだったらよかったのに。下、見えてないよね」

「見ようと思えば見えないこともないです。葛藤中です」

「葛藤中って。きみが良識ある娘であることを願うよ。今までなにを考えていた?」

「私も、まだ夢みたいな感じです。夢うつつという感じ。何も考えられないんです」

「そう。僕もだよ。何とか話はしてるけど、妙な感じがするんだ。ここは昨日と同じ世界、社会なのかなって。さっき会議でさ、係長の顔をさ、昨日と同じかじっと観察しちゃったよ」

「トイレなら少しでもお話ができます。変な気分になったらトイレに入ったらどうでしょう。トイレに行く回数が少し多いくらい、誰も怪しまないと思います」

「今日は少なくとも二十回は来そうだよ。ところで僕の態度はどうだったろう。普通だったと思う?」

「わかりません。多分大丈夫だったと思います。わたしもおなかに張り付いている立場ですから、自信はありません・・・」

「やっぱり、これって現実なんだね・・・」

「ドラマか、小説ならありそうな話ですけど・・・」

「子どものころ『ど根性ガエル』が好きだったよ」

「知ってます、『ぴょん吉くん』ですよね」

「モリシタさん、『ぴょん吉』って呼び捨てでいいんだよ。さて、これから新商品の会議なんだ」

「『オランチョ』をヒットさせた高野さんですから、きっと大丈夫です」

「ありがと。まあ、ボツになったのも数知れないんだけどさ」

「『オランチョ』はいまだに売れています。関東ではお菓子部門堂々の第一位」

「さすがリサーチ課。きみも顔は出社してるのに欠勤とは少し残念だね」


 トイレを出て会議室に入る。会議はもう始まっていた。

「ネーミングが安易すぎるな。ベビーチョコなんて」

「大体ベビースターラーメンにチョコを絡めただけだろ」

「味はよさそう。ココアパウダーとカカオをミックスするわけね」

「味じゃなくてコンセプトを問題にしなくちゃ」

「基本として、スナックものにチョコを絡めるのは常套手段だが、新鮮味があるかな?」

「チョコフレークと似たような感じね」

 いろんな意見が出される中、僕が提案したニュースナックは午後に検討されることになった。


「二人で食事しましょ」

 祐未はそう言って社外の喫茶店に連れ出した。スパゲティ専門の店だ。

「カルボナーラでいいでしょ?」祐未は次第に僕から決定権を奪っていく。

「なぜ強制するなるだい? でも、まあ、それでいいよ」

 僕はメニューを手持ち無沙汰に眺めた。僕は一つのことに固執するタイプだ。スパゲティは十種類以上あるが、この店でカルボナーラ以外を注文したことがない。

「今日のあなた、何か変・・・」

「そう?」

「前は、自分の発案した新商品を一生懸命アピールしてたのに」

「何が違うの?」

「意見、ほとんど言わなかったじゃない。まるで人事みたいな感じ」

 僕はおなかの森下雪乃のことを考えた。僕たちの会話をどう聞いているのだろう。

「そうだった?」

「少しちゃんと、こっち見て」

「なんだよ急に・・・」

「わたしに飽きたの?」

「わけのわからないこと言うなよ」

「あなた、とても、変」

「なんども言うなよ、変、変って」

「あなた、今までに見せなかった顔をしてる」

「そんなことはないよ」

「こう見えても、わたし純なのよ」

「わかってるさ」

「付き合った男の人って、少ないの」

「なんでそんなに飛躍するんだよ」

「わたしによくないところがあったら言って」

「そんなことはないよ。きみに不満なんてない。僕にはもったいないくらいだ。社内一の美人だよ。いや、東京都で働くOL一かな?」

「冗談言わないで」

「いや、ほんとだよ」

「都内一はあんまりよ。社内一くらいならいいわ」

 森下雪乃と祐未とどっちが美人なのだろう。

「僕たちはまだ知り合って二年。お互いの恥部を確認し合ったのは四ヶ月前だよ。まだまだ分かり合えていないところはあるさ」

「恥部だなんて」祐未は笑った。

「昨日は接待だったんだよ。疲れてるんだ。今日の僕が変だからっていちいち勘ぐらないでくれ。僕は、その気になれば女優にもなれた女の子に夢中なんだから」

 祐未は満面の笑みを浮かべて僕の手を取った。そして指を弄ぶ。

「あなた、顔はフツーだけど、ジョークがおもしろいから好き・・・」

「僕の顔はモンゴル系でも中国系でもないんだ。自分ではアイヌ系だと思ってる」

「アイヌ系? わけわかんないわ。今日、手料理作ってあげようか? 久しぶりに」

「え? 今日?」

「いいでしょ」

「ごめん、今日は確か・・・」

「なによ」

「そう、友達と飲むことになってるんだ」

「あなた、考えながら言ってるわね。友達って誰なの?」

「きみは知らないと思うけど、大学時代からの友人だよ。ほら、あの北宝映画、あそこでホラー映画を作ってるんだ。有名なのはね、『猫のお化け』知ってる?」

「知らないわ。あなた、うそ言ってるでしょ」

「どうして?」

 スパゲティがきた。僕はタバスコをしこたまかけた。

「最近わかってきたの。あなたのジョークはおもしろいけど、うそばっかり」

「そりゃあ、ジョークは大抵はうそさ。真実をもとに言うジョークなんか、大抵はつまらないものだよ」

「この前、ブルース・ウィルスと飲んだことがあるって、うそついたわ。その、大学の友達っていうのも、想像上の、架空の人物なんでしょ?」

「確かにブルース・ウィルスと飲んだっていうのはうそだったよ。実際に飲んだのは僕の友達の友達の、そのまた友達さ。CMの打合せで。でも、今日の大学の友達っていうのは本当。名前は羽月泰三っていうんだ」

「名前なんか言ったって。それに嘘っぽい名前。泰三だなんて。いいわ。好きにして」

「おいおい、友達の名前を悪く言わないでくれよ。実名なんだから」

 それから黙々と食事をした。もともと、僕は静かに食べる方だ。

「機嫌なおしてよ。お昼、おごるから」

「いつもいつもありがとう」皮肉っぽく祐未が答える。

店から出ると太陽は真上にあった。影もほとんどない。

「たぶん、明後日は大丈夫だと思うけど」

「明後日はわたしが都合悪いの」

「何があるの?」

「何がって・・・」

「きみも今考えてる・・・」

「考えてないわ」

「いいや、復讐してやろうと思っている。まあいいさ。一週間会えないからって、だめになる仲じゃないだろ―」

「十二時には帰ってるでしょ?」

「たぶんね」

「ねえ。猫背になってるわ・・・いつから?」

「たぶん・・・今日から・・・」


 会社に着いた。僕はおなかの森下雪乃を思い出した。彼女は昼食をとっていない。

「先に行ってて」と祐未をエレベーターに送り出す。

「どこ行くの?」

「売店に行って来るよ」

「何を買うの?」

「サンドウイッチ」

「まだ食べる気?」

「朝、食べてないからかな。まだちょっと空腹感が・・・」

「腹八分がいいのよ。コーヒー淹れててあげる」

 祐未はエレベーターの中に消えた。僕は売店に入る。

「卵とトマトのサンドでいいかい?」小声でおなかの彼女、雪乃に聞いた。返事がない。

「どうかしたの?」

「いえ、別に・・・」

「寝てた?」

「いえ」

「おなかすいたでしょ。お茶とコーヒーとどっちがいい?」

「どっちでも」

 どこで食べさせたらよいか思案したが、やはりあそこしかなかった。

「仕方ないよね」

「食欲ありません」

 おなかを出して雪乃の表情を見ると暗い。トイレで食事なんて、確かに最悪だ。

「トイレじゃいや? 屋上はさ、人がけっこういるんだよ」

「わかってます。わたしもよく食事が終わったあと、屋上に行ったりしましたから」

「機嫌が悪いね」

「いえ、すみません。ごめんなさい。せっかく親切にしていただいているのに。普通の人だったら、気が変になってますよね。わたしもこうしていられないはずです。高野さんがいい人でよかった・・・」

「きっと、僕が普通じゃないんだよ。そうそう、神気が備わってるからね。親鸞さんに負けないくらいの」

「わたしも、普通と違う女ですもんね。サンドウィッチ、いただきます」

 おなかに食べ物を押し付ける感覚というのは変な気分だった。咀嚼の様子を窺いながら、雪乃の口に食べものを近づけるタイミングを図るのが難しい。

「高野さん、すみません、お茶を」

「よく冷えてるよ」

 五分ほどで、雪乃はサンドウィッチをたいらげた。

「ごちそうさま。すみません。お手数おかけします」

「仕方ないよ」

「せめて手でもあったら・・・」

 僕は腹から彼女の手が生えているところを想像してみた。

「いや、いいよ。顔だけで。手があると、それこそ僕たちは外に出かけることもできない」

「そうですね―」

「僕が食べさせてあげるから。気にしないで。さて、午後の会議がある。そろそろいくよ」

「高野さん、わたしのこと、モリシタじゃなくて、ユキノって呼んでもらえませんか?」

「わかったよ、ユキノさん」

 扉を開くと警備員の鰻さんが立っていた。鰻さんは僕が出た後のトイレを覗いた。

「高野さん・・・今、女の人の、声みたいな・・・」

「えっ、まさかあ」僕はごまかし笑いをした。

「でも、確かに、艶のある、女の人の声がしたような・・・」

「それで、鰻さん、わざわざ駆けつけたの?」

 警備員の鰻さんとは、会社で徹夜をしたとき、何回か一緒にカップ麺を食べたことがある。試作品のお菓子を試食してもらったこともあった。初老の紳士で、格闘技と囲碁が趣味。警備会社に勤める前は、中学の体育教師をしていたという。鰻さんは真顔になって説明をした。

「いや、わたしはただ、小をしてまして、女の声がするもんで、不思議に思って・・・」

「女の声に聞こえましたか?」

「ええ、あれは、女の声ですよね。でも、ほんと、誰もいない―」

 鰻さんはもう一度トイレを覗き込み、便器の裏まで調べている。

「いや、実はですねえ」僕は鰻さんの肩をポンポンと軽快に叩いた。「ちょっと、アレなんですが・・・」

「なんですかあ?」鰻さんは口をぽかんと開けた。

「鰻さん、腹話術って、わかります?」

「腹話術・・・そりゃあ、わかります。腹話術ですよね。人形を、こう持って、口をぱくぱくと・・・」

「その、腹話術、なんですよ。練習して、たんすよ」僕は咳払いした。

「ああ、ああ」鰻さんは納得したように、漸くいつもの人懐こい笑みを浮かべ、うなずいた。

「つまり、高野さんこの中で、腹話術の練習をしていたと。それでわたしが、勘違いしたわけだ。しかし、まあ、うまいもんですな。高野さんは芸達者って噂だから」

「今年の忘年会のかくし芸にって、思いましてね」

 僕は鰻さんと揃って手を洗った。

「高野さん、もう一回、やってみせてくださいよ」鰻さんが催促する。

「いや、それは、その。さっきのは練習でしてえ。人前でするのは、ちょっとねえ。それにほら、人形もないし」

「ああ、人形ねえ。高野さん、人形はもう、持ってるんですか?」

「いえ、まだ、始めたばっかりで・・・」

「よかったら、わたしの知合いに人形職人がいるんですよ。作ってもらいましょうか?」

「ほんとに? そりゃあ、うれしいなあ。人形どうしようって思ってたんですよ。渡りに船だ。ぜひお願いしますよ」右の頬が一回痙攣するのが自分でもわかった。トイレを出ると鰻さんはケータイを取り出した。

「わたしの番号、高野さんに教えてますよね」

「もちろん、入れてありますよ」スマートフォンを意味もなく取り出した。

「今度連絡しますから、どんな人形がいいか、考えといてくだされば」

「わかりました。いろいろ、お世話になります」

「こちらこそ。また、夜中にカップ麺食べましょう」

 鰻さんは、ラーメンを食べる仕草をわざわざして、笑った。

 僕は会議室へ向かった。

「腹話術なんて、高野さん、機転がききますね。さすが、です」

「その機転のおかげで、僕は新しい芸を身につけなきゃいけない」

 雪乃がプッと吹き出す。

「でもあれだね、声をもっと落とさないといけないね。注意しなきゃ」

「名前が、鰻って・・・」雪乃は僕のアドバイスを聞いていない。


会議室では再び新作スナックについての会議が始まった。ただ、やはり集中できない。

「ベビーチョコっていうネーミング、案外いいかも」

「このDNAみたいな螺旋も、見方によっては斬新かな?」

「じゃあさ、DNAチョコなんてどう?」

「遺伝子組替え小麦粉を使ってると思われるよ」

「企画会議で結論を出すということでどうかね? 次、わたしの企画に入ろう」兼田係長の促しで浅野が企画書を配る。

「なんですかこの形は?」企画書のイメージイラストを見て僕はつぶやいた。「まるで・・・」

「まるで何だね?」係長が妙に笑みを浮かべる。

「気のせいか、うんちのようですけど・・・」

「コーンスナックをチョコでソフトにコーティングしてる。確かにうんちの形だが、これにはねらいがある」

「どんなねらいですか?」

「うんちはおしりから出すものだ。決して口に入れるものではない。しかしそれは本物のうんちに限ってだ。お菓子のうんちであればそのタブーは払拭される。つまり、スナック菓子界に一石を投じる革命的なお菓子なわけだ」

「革命的・・・ねえ」

「係長、うんこの形をしたお菓子が売れるわけないじゃないですか」僕は呆れた。

「そこがねらいなんだ」

「世の中何が当たるかわからないものよ。ネーミングと宣伝次第ではヒットするかもしれないわ。係長、ネーミングは考えていらっしゃるんですか?」祐未は企画書をめくる。

「そこに書いてあるだろ。『うんチョコ』って・・・」

「ネーミング以前に、これを本当に商品化するおつもりですか。気は確かですか?」

「何をいうんだね、高野くん。わたしは至って正気だよ」

「チョコとクッキーで外は滑らか中はサクッと、か・・・。大きさからすると食べ応え充分ね。ガーナミルクの風味が合いそう・・・」祐未が兼田課長の肩を持つことに多少いらつく。

「味の問題じゃないよ、この形だよ。これで売れるはずがない」僕は反論した。

「高野くんは形にこだわってるようだが、かりんとうはどう説明するね」

「かりんとう?」

「かりんとうのあの形、想像してみたまえ。あれだって棒状のうんこにそっくりだ。そもそも渦巻き型のうんこなんてそうお目にかかれるものじゃない。人間が出すうんこの形は、ええっと、国立衛生保安事務局委員会の調査によれば、九十パーセント以上が棒状なんだよ。高野くん、きみはかりんとうを食べながら、うんこを食べているような気持ちになったことがあるかね?」

「それは、ないですが・・・しかし巷ではこの形がうんこの形として定着していることは確かです」

「人間のイメージというものはおかしなものなんだよ、高野くん。カレーライスを食べているとき下痢状のうんちを想像する人がいるかね。よく観察すると、両者はよく似てるんだよ。食べたカレーがそのまま出てきたのではないかと錯覚するほどね。しかし人は両者を同じとは考えない。人間の感覚はおかしなものだが、混乱を避けるために、うまくできているもんなんだよ」

「それは、そうですが・・・」

「そういった人間のおもしろい感覚を利用したんだよ。それにもうひとつ、この『うんチョコ』には教育的な意義がある」

 それまで半分居眠りをしていた時任が尋ねる。

「なんですか? 教育的意義というのは?」

「幼児教育では、うんちの指導が重要視されている。正しいうんちの仕方を教えるのはもちろんだが、うんちへの嫌悪感をなくし、うんちをすることで健康が保たれるという認識をもたせることが必要だ。できれば、うんちへ愛着を感じるような・・・。アメリカでは、うんちの絵本が大ブームになっているらしい」

「あっ、知ってます。アニメになってますよね」

「うんちはそもそも口から食べた物の残り物、決して汚いものではない。そんな新しいうんち観を、わたしは世間の人々にもってもらいたいと思っている」

「うんち観・・・ですか」入社して三年目になる上原が深刻な顔になる。「小学校や中学校時代、学校でうんちをするのは恥だという気持ちが僕もありました。だからずっと我慢してたんですよ」「俺も。一度だけしたことがあるけど、ものすごい罪悪感があったなあ」

「学校でうんこをしたことが原因でいじめられる、というのはよく聞く話だよ。実は、私にも暗い思い出がある・・・恥ずかしながら、『うんチョコ』の発案はそこにある。日本人はうんちに対して偏見を持っている。わたしは、その偏見をなくしたい。欧米人のように、堂々とうんちができる日本人の育成が大切なんだ」

「それで『うんチョコ』ですか・・・」時任が腕組みをしてうなずく。

「係長、お菓子に教育的うんぬんなんてもの、必要なんですか?」

「反対は高野くんだけかな?」係長の言葉に一同は黙る。

「あの、係長の新製品についても、高野さんの案と一緒で、企画会議でってことでどうでしょう?」

「よろしい」兼田係長は席を立った。


 他の者は各自のデスクに戻る。僕はため息をついた。

「コーヒーでも飲む?」祐未が言う。

「あっ、はい!」

 と答えたのは森下雪乃だった。


 裕未は顔をしかめた。

「今のだれ?」

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