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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
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1 こりゃ大変! 腹に女の顔がくっついた!

 二千十五年、七月十日のこと―。

 目を覚ますとおなかに女の顔がはりついていた・・・。


 いつものように目を覚まして、トイレに行き大便をした。下腹をさすりながらトイレを出ると、その上辺りに違和感を覚えた。わずかに凹凸がある。肌着をめくって見てみると、腹の上に顔がある。へそはきれいさっぱりとなくなり、顎らしきものと、白くのっぺりとした頬が浮き出ている。どうやら女の顔らしい。艶のある鼻が突き出て、広い額には鳥が翼を広げたような眉が浮かんでいる。陰毛がずいぶんと増えたなと思ったが、それは女の髪だった。

 僕は洗面台の鏡に腹を映してみた。照度が低いので、ライトをつけた。するとやはり顔があった。瞼を閉じている。褐色の肌に女の白い顔が浮き上がっているのでやはり奇妙だ。顔に見覚えがあるように思った。はっきりとしないが、自分の人生に関係のある女に違いない。そうでなければ、自分の腹なんかに現れっこない、と考えた。

 肌着を脱いで、しばらく部屋を歩き回った。ロールカーテンを上げ、朝日を部屋に入れた。マンションの四階から見えるいつもと変わりのない街並みが見える。僕は念のためもう一度腹を見た。顔は依然としてある。テレビをつけた。天気予報が流れた。日中は二十七度まで上がるらしい。いくつかチャンネルを変えてみる。天変地異が起きた様子はない。世の中はいたって平和のようだ。

 ソファに座り、つくづく腹の顔を見た。まだ顔は目を覚まさない。いったい誰のさしがねかわからないが、腹に女の顔がくっつくなんて。恐らくは人面疽というものだろうが、これは初めての体験だ。


 確かに「高野聖たかのさとし」という名前はいけない。高野山の坊さんを意味する「高野聖こうやひじり」と同じだ。

 「高野聖」はまず中学のとき、おまえと同じ名前の小説があったと、友達のひとりが文庫本を買ってきた。泉鏡花の小説。一読して嫌悪感を抱き、その本は捨ててしまった。高校でも同じ現象が起こり、おかげ様でニックネームが「サシー」から「ヒジリ」になった。大学で初めて小説を読んで、親に軽い憎しみを感じた。せめて「聖一」とか「聖道」とか、「聖」に一字加えてほしかった。

 小説ではなく「高野聖」そのものの意味を調べてみると、もう「自殺的」だ。


高野聖こうやひじりは、日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧。蓮華谷聖、萱堂聖、千住院聖。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を 中心とした独特のものであった。

 同様の遊行者は奈良時代に登場し、高野山では平安時代に発生。開祖として小田原聖教懐、明遍、重源らが知られる。

 高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。学侶方、行人方とともに高 野山の一勢力となる。諸国に高野信仰を広め、連歌を催すなど文芸活動を行い民衆に親しまれたが、一部においては俗悪化し、「夜道怪(宿借)」とも呼ばれた。】


 ウキィペディアからの引用だ。「文芸活動で民衆に親しまれた」はいいとしても、「最下層」「夜道怪」とはなんだ。特に「夜道怪」。


【村の街道などで、「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と呼ばわったためと云われる。 「高野聖に宿貸すな。娘とられて恥かくな」という俗謡もあった。】


 要するに「宿を借りて」「娘を誘惑」していたから「夜道怪」と呼ばれていたということか。突然おなかに女の顔がはりつく事態も、この「夜道怪」となにか関係があるのだろうか。

 

 さらに三日前のこと。飯田橋で易者に呼び止められた。

 易者なんて存在は、正直言って僕にとっては、やくざ、政治家、棋士、力士についで無縁であり無意味だった。

 会社の同僚と飲んで、その後ひとりでバーに寄りバーボンをしたたか飲んで、タクシーを探していると年老いた老婆が僕を呼び止めた。

 易者の方から客を呼び止めるなんてありえない。その老婆によると、呼び止められずにはいられなかったという。名前を訊かれたので答えた。

「名前ですか? タカノサトシです。漢字では『高野聖』・・・確かにコウヤヒジリとも読めますが。いえ、実家はお寺じゃありません。両親が『聖』とつけたのも偶然ですよ」

「そりゃもったいない。お宅様は、類いまれなる神気をもっていなさる」

「神気、ですか」

「法然、親鸞、道元をご存じですか」と易者は僕を上目づかいに見て言った。

 老婆易者はとてつもなく小さかった。顔つきもスターウォーズの『ヨーダ』のようだった。

「知ってますよ。法然ですよね。浄土宗ですよ」

「あなたは、上人方と同レベルの神気をもっていなさる、だからわたしは、呼び止めたんですよ」

「それは喜んでいいことなんですか?」

「まあ、基本的にはね・・・」


 そこから後のことは思い出せない。

 あの易者が言うように、僕に並々ならぬ神気があってこのような事態になったのだろうか。よしんば僕にそんな神力があったとしても、おなかに女の顔を置くなんてことはしないはずだ。

 どういう事情なのか、当の女が早く目を覚まして説明してくれたらいい。そもそもこの女は生きているのか。死んだ顔がはりつくなんてごめんだ。

 僕は頬をつまんだり顎を撫でたり、鼻をとんとん叩いたりしてみた。感覚が伝わってこない。他人の皮膚のようだ。ほのかに熱があるから、死んでいるわけではなさそうだ。

 思い切って女の頬を強く叩いた。反応があった。目蓋がぴくりと動き、口も左右にわずかに震えた。

「おい」

僕はもう一度頬を叩いた。女の顔は窮屈そうに顔を左右に動かした。もう一度叩く。

「ねえ、きみ」

何回か頬をつっつくと、漸く女は目を覚ました。

「あ、あの」女が声を出す。「おはよう、ございます」

上目遣いに僕を見上げ、女は軽く会釈をした。声は幾分羞恥を帯びている。

「お、おはよう。って、きみは誰だい?」

顔は恥ずかしそうに俯く。僕はお互いに話しづらいことに気づき、再び洗面台に行くと鏡に顔を映した。鏡に映った女は、ちらりと僕を見て顔を赤らめた。

「すいません、突然・・・」

「きみは誰だ?」僕は同じ質問を繰り返した。

「わたし、森下雪乃と申します」

「モリシタ、ユキノ・・・わからないな。悪いけど、知らないよ」

「会社が同じなんです」

「あ、そう・・・『株式会社大正乳業』なわけだ・・・」

そうは言ったものの、同僚にモリシタユキノという女の子がいたかどうか思い出せない。六百人ほどの社員が本社にはいた。そのうち女子社員は何人いるだろう。

「わたし、営業部リサーチ課なんです。わたしのこと、わかりませんか?」

「リサーチ課?」

「時々、エレベーターで一緒になることもありました。それから食堂でも」女が伏し目がちになる。

 鏡に映っている女と会話するのも奇妙に感じたが、僕は話すより他になかった。この非常事態で救いなのは、女が普通に会話できることだった。もし顔が押し黙ったままで、始終睨んでばかりいたら、僕はいたたまれなくなって自殺しただろう。

「もう少しちゃんときみの顔を見せてくれよ。目をしっかり開いて、僕の方を向いてくれないか」

「恥ずかしいです。御化粧してないし・・・」

僕はじっくりと顔を見た。美人ではあるようだ。

「その、顔が逆に見えるしね、鏡に映ったきみを見てもわからない・・・。でも、どうして僕のおなかなんかに・・・」

女は再び伏し目がちになり、少し狼狽の色を見せた。何か思い当たる節があるようだ。

「もし、僕たちが恋人同士だったら、こんなふうに考えられる。僕が他に女を作って、ショックを受けたきみは自殺して、僕を怨んで腹にとりついたと・・・。つまり人面疽というやつだ。でも僕たちは会社の同僚と言っても殆ど知らない者同士だ。それなのに、どうしてきみが僕の腹にくっつくことになったのだろう・・・」

僕はなるべく優しい態度をとろうと心がけた。女が心を開いて何もかも明らかにしてくれることを願った。

「わたしにも、よくわからないんです」女はゆっくり口を開いた。「ただ・・・」

「ただ、どうしたの?」

「何日か前、易者さんに会ったんです。会社から帰る途中でした。呼び止められて」

「易者・・・呼び止められた」

 僕は背中に悪寒を感じた。そう、誰かさんと一緒だった。

「まさか、その易者、飯田橋の?」

「いえ、池袋です。会社からの帰り、ちょっと寄ったんです。友達と会う約束があって。その帰りに呼び止められました」

「なんで呼び止められたの?」

「あなたには、普通と違う力があるって」 

 それも誰かさんと同じだ。

 リビングに戻りテレビを見た。みのもんたが大口を開けて笑っている。いつもの朝は、テレビを見ながら歯を磨き、髪を整え、着替えた。その日常が、みのもんたの口の中に消え去っていくような気持ちになった。

 僕とモリシタユキノは、数日前易者に呼び止められ、双方とも神力があると告げられた。これ自体は確かに驚くべきことだ。神力があるふたりなら、このような事態になっても、それほど不思議ではないのかもしれない。

「僕も、同じことがあったよ。易者に呼び止められて、神気があると言われた。法然さんや、親鸞さんと同じくらいの・・・」

「わたしは、そんなにすごいことは言われてません。普通とは違うと、ただそれだけです・・・」

「僕たちは同じ会社―これは安心できる材料なんだけど・・・易者に神気があるとか、普通とは違うとか、偶然にしては奇妙なことに同じ体験をしている。でも、それだけで、きみの顔がぼくのおなかに現れるなんて、これはどういうことだろうか? わからないな・・・」

「きっと、わたしが悪いんです」

「どういうこと?」

「昨日、寝る前に、その・・・高野さんのことを、考えたんです」

「僕のことを考えた?」

彼女は目をつむった。

「こんな状況ですから、もう言ってしまうしかないですね。わたし、入社したときから、高野さんのことが・・・好きだったんです」

「ちょっと待って。そんなこと言われても・・・」

「知ってます。彼女がいらっしゃるのは・・・だから、ずっと言えないでいたんです。いつも、遠くから見ることしかできなくて・・・」

僕に対する恋心が天に通じ、こういう事態になったというのだろうか?

「易者さんに普通と違う力があると言われて、少しうれしくなりました」

「なんで?」僕は尋ねた。

「もしそんな力があるなら、高野さんのこと、なんとかできないかなって・・・」

「それだ! なにをしたの?」

「呪文を唱えたんです」

 僕は顔を覆った。この事態の原因が判明したのだ。ただ、呪文なんて疑わしいものがこの非現実を引き起こしたとは思えない。

「呪文? 呪文で、僕たちこうなったわけ?」

「わたし自身、こんなことが現実にあるなんて思えません」

「でも、感覚がリアルだよ。きみはどうだい?」

「はい、確かに。身体の感覚が全くなくて、顔の感覚だけ感じるんです。変な感じです」

「僕の腹に現われる前は、君はちゃんと家で寝てたのかい?」

「はい・・・」

「腹にはいつくっついたか、そんなことわかった?」

「いえ・・・ただ、目が覚める前、高野さんのおなかにいるんだという感覚はありました」

「さて、これからどうしたらいいだろう。名前、モリシタさん、だよね?」

「モリシタです。モリシタ、ユキノ」

「モリシタさん、きみはどうしたらいいと思う?」

「いつもどおりに行動したらどうでしょう。明日になれば元にもどっているような気がします」

「そうだろうか・・・」

「呪文でこうなったとしたら、いずれは元に戻ると思うんです。だってこうしていることは高野さんにとってもわたしにとってもよくないことですから。きっと、やはりわたしのせいです。でも、まさか呪文が効くなんて思わなかったし、ちょっとしたおまじないのつもりでしただけなんです。呪文をもう一回唱えるか、わたしが高野さんのことを忘れたら、たぶん元に戻るでしょう。それまで、高野さん、どうかお願いです。わたしをこのままここに置いてください!」

置く置かないは、僕の意思ではいかんともしがたいことだったが、こんなふうに頼まれると、なんだか彼女が憐れに思えてきた。僕なんかのおなかでよかったらどうぞ、と言いたくなった。

時計を見ると七時半。僕はスーツに着替えた。当たり前だが、外見上は不自然には見えなかった。まさかおなかに女の顔を隠し持っているなどと、誰も思いはしないだろう。考えてみれば、身体に顔が張り付くとなると、おなかほど打ってつけの場所はないようだ。服で隠れる場所でないといけない。背中だと顔の凹凸が目立つし、話もできない。おしりだときまりが悪いし、座ることもできない。まさか下半身というわけにもいかない。それはもってほかだ。道徳的によろしくない。「苦しくないかな?」シャツのおなかのあたりのボタンを外し、ベルトを緩める。

「平気です」

「時計、忘れてます」ユキノが言う。

「何だか落ち着かないよ。仕事なんかできるかな・・・」

「大丈夫です。今日一日やり過ごせば、何とかなると思います」

僕は靴を履き、マンションのドアを開いた。いつもと変わりない朝のはずが、ムーミン谷に投げ出されたような、ひどく心細い気持ちになった。

「一つ聞いていい?」階段を降りながら僕は言った。「時計を忘れたこと、なぜきみはわかったの?」

「雰囲気で・・・」

「もう一つ聞いていい? 僕の考えてること、きみはわかるの?」

「いえ、わかりません。わたし、あくまで高野さんのおなかに張り付いているだけですから―」

 僕は幾分安心した。





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