第16話(結花のゆらぎ)
和尚と電車で出会ってからも、結花は一見なんの変わりも見せなかった。
相変わらず、翔ちゃん、翔ちゃんと言って、ぼくについて来た。
でもぼくは、なんとなくそのはしゃぎぶりに、違和感みたいなものを覚えていた。
彼女は、まだ迷っているんじゃないだろうか?和尚のことを忘れて、ぼくを選んだことを。
そんなとき、ぼくは結花の部屋で、旅行のパンフレットを書棚のなかに見つけてしまった。
巧妙に隠してあったが、ぼくには、これは最近引き抜かれたものだということが、すぐにわかった。
《アメリカ・ボストンへの旅》――
ぼくは、しばらく呆然と、その明るい表紙を眺めていた。
結花は…、こんなものを見て、いったいどうする気なんだろう。
ぼくは、ときどき、胸が張り裂けそうな気持ちで彼女で見ることがあった。
結花はまるで、トライアングルの一角をさまよう子羊だった。
ぼくは、きみを幸せにしてあげたい。
でも、きみは、ぼくじゃ駄目なの?
ぼくは、ベッドで寝ているふりをして、彼女の幸せそうな寝顔を見ていた。そして、少しだけ泣いた。
ぼくだって、エゴの塊だよ、和尚…。
自分の欲求のためなら、大好きな彼女がおまえを想っていても、力づくで奪い取る。
いずれ、おまえはいなくなるんだ。
いまは、ぼくに彼女を引き止めさせてくれ。
◇◇◇
でも、ぼくには結花について、どうしても気がかりなことがあった。それは、進路のことだった。
街のあちこちで受験生があふれ出し、本屋が参考書でいっぱいになる時期が来ても、彼女はそれを決めようとしなかった。
「もう間に合わないよ?」
ぼくは、あのパンフレットを見てから、何度も結花に忠告した。
「いいの。お父さんもお母さんも、自分のやりたいことが決まってから、決めればいいって言ってくれてるから」
「少し、呑気すぎやしないか?」
「翔ちゃん。お願いだからもう、そのことは口に出さないで」
結花はその日珍しく、強い口調でぴしゃりと言った。
ぼくは、自分を拒否されたようで、なんだか癪にさわった。
「なんだかへんだな。結花って」
「へんってなによ?」
「…ほんとは、白馬の王子さまが迎えに来るのを待ってるんじゃないの?」
「…翔ちゃん?!なに言ってるの?」
「ぼくよりも、誰かのことを考えてることがある」
「なんで?!そんなこと言うの?」
「じゃあ、これ、なんだよ?!」
ぼくはすばやく結花の書棚のところへ行って、《アメリカ・ボストンへの旅》のパンフレットを抜き出してみせた。
「ぼくがなにも知らないとでも思ってた?」
「翔ちゃん…、ひどい。こんな、勝手に…」
「それよりどういうことだよ。結花、おまえ、和尚について行く気じゃないだろうな?」
結花が震えて泣き始めた。
「……どんなところか見てみたかっただけなの。ほんとにそれだけ。行こうだなんて思ってない」
ぼくは、ひどくショックを受けた。
やっぱりそうか。結花は、まだ和尚に未練を持っているんだ。
ぼくはいたたまれなくなって、思わず部屋を出て行こうとした。
「待って!」と結花が言った。
「翔ちゃんのことが好きなのはほんとなの。でも、まだわたし、和尚との赤ちゃんのことも引きずっていて…」
ぼくは、息をのんだ。
赤ちゃん…赤ちゃんか…。
ぼくは、また敗北感を味わった。同じだ…、あのときと同じだ…。
でも、ぼくはあのときほど、弱い男でもなかった。
「和尚は赤ちゃんを授けてくれたかも知れないけど」
ぼくは冷たく震える声で言った。
「いまの、きみの彼氏はぼくだから。和尚はきみのところへはもう、帰ってはこないよ」
「…わかってる」
「わかっていればいいんだ」
ぼくは、結花を優しく抱きとめた。結花は、やや身体を固くしていた。
「これからもいろいろあると思うけど、ぼくは結花とずっと一緒に生きていきたい」
「…うん」
「結花が進路を決めないならそれでいい。いざとなれば、ぼくがきみを養う」
「え」
結花が一瞬、小声をあげた。ぼくは急いで、冗談っぽく言った。
「赤ちゃんが欲しいなら、ぼくが産ませてやるよ」
結花はくすっと笑って、ありがとと寂しく言った。
結論的に、ぼくはぼくなりの道をしっかり歩むしかなかった。
ぼくは、いつも和尚と自分を比べてきた。けれど、もう、そういう時期は終わりに近づいている。
ぼくら進学組は、受験のラストスパートに入った。矢野も愛子も、みんな必死で、会えば試験の話しかしなかった。
「どうやら、上手くいったみたいよ」
センター試験の終わった翌日、愛子は電話をかけてきて、ほっとした口調で言った。
「もうおれは駄目だ〜〜〜!!」
矢野に電話をかけてみると、彼は電話の向こうでオーバーアクションしていた。
「そんで、おまえはどうだった、翔?!」
「うん。なんとかいけそうよ」
ぼくは、自分と結花との未来を信じて、ひたすら前へ走るしかなかった。
結花との未来を信じて。