第10話(結花の妊娠)
それは、突然のメールから始まった。
夏休みが終わり、秋が深まって涼しい風がそよぎ始めたころ、
「翔ちゃん、会って話がしたいの」と、結花からの連絡がやって来たのだ。
ぼくは腰がぬけるかと思うくらい、びっくりした。いったい、なにが起こったんだ?!
指定された駅前のドーナツ屋――愛子とおしゃべりした場所だ――に行くと、久しぶりに見る結花は、肩を落として、しおれた花のようになっていた。
ぼくは、なにが始まるのかとドキドキしながら、「久しぶりだね」と声をかけて、結花のまえに座った。
「愛子から、もう聞いてる?」
結花はぼくが座ってから、やっと重そうな口を開いた。
「え。なにを?」
「わたしが、妊娠したこと」
「えっ……!」
ぼくは、これまでにないくらいの驚きで、身動き出来なくなった。
妊娠、妊娠って…?!和尚の子だよな?
あいつ、なんてことしたんだよ?!
ぼくは、混乱して、言葉が出なかった。
「翔ちゃんにとっては、こんな話、迷惑なだけだと思うけど」
ぼくは、そんなことはない、というふうに熱心な目をして首を小さく振った。
「わたしは産みたいの。でも、和尚が駄目だって」
「……結花……」
「あの人には、大きな夢があるから」
「うん……」
「あの人の未来に、わたしはいない」
結花は、急に、苦しそうに顔をゆがめて涙をポタポタとこぼした。
ぼくは急いで、テーブルの上の紙ナプキンを引き抜いて、彼女に渡した。
彼女は、紙ナプキンを使いながら言った。
「…たぶん、彼にとっては」
結花の声は、嗚咽を殺してのとぎれとぎれだった。
「わたしは…、ただの通りすがりの女の子」
「そんなこと、ないよ!」
ぼくは、和尚の、初めて結花に目覚めたときの彼らしくない無防備な表情、そして、ぼくへの気づかいから勉強に打ち込んで彼女を忘れようとしていたことなんかを思い起こして、強く言った。
「和尚は、真剣に、結花のことを愛してるよ」
「うん…、ありがと。翔ちゃん」
結花は、紙ナプキンを使いながら、真っ赤な目でぼくを見た。
「やっぱり、翔ちゃんは優しい」
「ぼくは優しくなんかないけど、」
ぼくは、彼女をなぐさめようと必死だった。結花の泣き顔を見ていると、ぼくも涙が出てきそうだった。
「いつだって、結花のことを応援してるから。ぼくはいつでも、結花のところに駆けつけるから」
「…うん。ありがと……ほんとうに。頼りにしてる」
やがて結花は、泣き顔をおさめると、ぼくに「また連絡してもいい?」と尋ねてきた。
ぼくは、もちろんOKだった。
結花とドーナツ屋で別れたあと、ぼくは、今度は和尚への腹立ちでいきりたっていた。
あいつを、思い切り一発殴ってやらないと、もう絶対に気がすまない。
歩道橋を歩きながら、ぼくはあいつに電話した。
「和尚。話がある」
和尚は、ぼくの怒りにふるえる声をものともせずに、いつもの簡潔な口調で言った。
「いまから家庭教師が来るんだ。明日にしてくれないか」
ぼくは、和尚の冷静さが許しがたくて、通行人が振り向くほど声を荒げて言った。
「ばかやろう!!なにが家庭教師だ!!おまえ、そんなことやってる場合じゃないだろ!!」
「翔らしくないな。そんなに興奮して、話ができるのか?」
和尚は、淡々とぼくを受け流した。
「ぼくは、ふつうの男だからな!!」
ぼくの目から、涙が出てきた。
「ぼくがおまえなら、結花をもっと大切にする!いつも、彼女のそばにいてやる!ずっとずっと、離れたりなんかしない!!」
和尚はずっと黙っていた。
「おまえに結花をやるんじゃなかったよ!!」
「まて。翔――」
そこで、プツンと電話が切れた。
ぼくは、自分のケータイの電源が切れていることに気がついた。
…その夜、ぼくは眠れなかった。
結花のこころの痛みが、ぼくのこころに伝染していた。
結花…。それでも、和尚が好きなのか。あんな、冷たいやつでも。