第9話(和尚と結花の恋・2)
夏休みに入ると、ぼくは予備校通いを始めた。夏休み限定の短期コースだ。
「他校のやつらと勝負するのは、いい刺激になるな」
ぼくは、学校で同じクラスの矢野に言った。
「そうだな。でもさすがに、おれらの高校の《土星人》レベルのやつはいないな」
その頃、和尚は、新しいクラスのなかで《土星人》と呼ばれていた。勉強からスポーツまで、すべて人間離れしているという意味だ。
「あれはバケモノだから、ほっとけばいい」
「土星人、予備校通いしないのかなー」
「家庭教師がついてるって噂だけど」
「だろうな。日本の大学とは試験内容が違うもんな」
「まあ、遊んでる暇はどっちにしろ、ないだろ」
そんなことを言いながらも、ぼくと矢野は授業のあとで、ちょっと祭りをのぞいていこうぜと、にぎやかな太鼓の音がする小さな寺の境内の方へ歩いていった。
たくさんの屋台のなかで、浴衣姿の女の子たちがはしゃいでいるのが目にとまる。
「いいよなー」と言いながら、男二人のぼくらは、勉強疲れのあたまをさわやかな女の子の浴衣姿で癒していた。
突然、花火がパンと上がる。わぁっと、人々が声を上げる。
ぼくは、ぼんやり花火の連発を見ていた。
そのとき、ぼくはふと、花火は綺麗だけれど、すぐに消え落ちてしまう、なにかはかないものだと思った。
「おい、…あれ、土星人じゃないか?」と突然、矢野がぼくにささやいた。
「え?」
――見ると、ぼくらの右手の少し向こうに、浴衣姿の和尚と結花が並んでいた。
パンと花火が上がると、手前に立つ結花の顔が明るく染まる。
その横顔が、あまりに美しくはかなげで、ぼくは思わず息をのんだ。
和尚はそのかたわらで、うつろな表情で閃光を見ている。
ぼくは、彼ら二人が見ているものは、ほんとうに花火なのか?という考えが頭に浮かんだ。
もしかしたら、彼らが見ているものは、自分たちの未来じゃないだろうか?
彼らは、かげろうの命のように短く、終わりの近い恋を生きている。
「あいつ、余裕だなー」と矢野が和尚のことをびっくりして言った。
「海王星人だからな」とぼくは適当に相槌を打った。
「そっか。すでに土星の距離じゃないな」
矢野は、へんに理解して、じゃ帰るか?とぼくにうながした。
ぼくは、人ごみにまぎれながら、彼らを振り返りつつその場を離れていった。
でもいま、ぼくが彼らに出来ることは、なにもなかった。
◇◇◇
夏休みの終わりごろ、愛子がフィットネスクラブの割引チケットを持ってきた。
「ぼく、勉強で忙しいんだけどな。これでも」
「なに言ってんの」と愛子は一喝した。
「カラダ、鍛えなきゃ。パイロットなんかになれないぞー」
それもそうだった。
和尚がバスケに打ち込んだりしているのも、ハーバード大学では勉強だけが出来ても合格出来ないところにあるんじゃないかと、ぼくは思っていた。
「よっす!」
フィットネスクラブのプールに現れた愛子は、もうすっかり失恋から立ち直っていたので、ぼくはびっくりした。
「愛子、元気だなあ。安心したよ」
「ふふふ」
愛子は自信満々の笑みを浮べながら言った。
「わたしは将来、新聞記者になるの。小さなことでは、へこたれないわよ」
ぼくは愛子につきあって、25mプールを100回くらいターンさせられた。
「あはは、このくらい余裕よ!」
「でも、ぼくはちょっと休みたいよ。デッキチェアの方に行かない?」
「仕方ないな。じゃ、上がりますかっ」
ぼくらは、ざぶっと水から上がって、プールサイドのデッキチェア2つを占領した。
ぼくと愛子のこんな明るい関係からすれば、和尚と結花のゆらぐ切ない感じはなんなのだろう。
ぼくはふと、人と人とが永くつきあうには、恋人同士にならないことがいちばんなんじゃないかなと思った。
そのことを愛子に話すと、愛子もそうかもね、と相槌を打ちつつ、でも結婚するって手もあるよ、とつけ加えた。
「和尚と結花だって、恋人同士でなきゃ辛い思いをしなくてすむのにね」
「結花、やっぱり辛いの?」
「そりゃ楽ではないよね」
「やっぱりか…」
ぼくの胸が、ちくんと痛んだ。
「正直言ってね、わたしは結花には翔ちゃんの方が合ってると思う。和尚と結花の恋には未来がないよ」
「それでも、燃え尽きたい恋ってあるんだろうな…」
ぼくは花火を思い出して言った。
「じっくり、時間をかけてわかりあえる恋っていうのもあるんじゃない?」
「そういうの、ぼくらの歳じゃまだ早いような気がする」
「かも知れないけど。そのうち、翔ちゃんと結花にもそういう時期が来るかも知れないから、こころの準備しておくことね」
「なんだか、意味深な言葉だな」
「深く考えない。運命は、待っているときを要求することもあるのよ」
ざぶんと愛子がまた水のなかに入っていった。
あいつ、哲学者だなと感心するとともに、「こころは男だよ」とまえに和尚が愛子のことを指して言った言葉を、ぼくは思い出していた。