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テーマ短編 '14

悪魔ミラゼルは歩いてやってくる

作者: 木下秋

 一




「クソッ、クソッ!! 俺は何でいっつもこうなんだ……!」


 闇夜の中で、うめく声がする。

 何かを叩く音がする。

 雲一つない星空の中では真白まっしろな月が真珠の様に輝き、湖に反射すると穏やかな光が辺りに満ちた。

 その者が居たのは湖のほとり、林の中だった。

 木漏れ日の様に点々と射す月の光で、その姿が少しづつ明らかになる。


 深い紺色の皮膚、子どもの様に低い背丈、大きな頭。その額には――小さな二本の角。

 民族衣装のような不思議な模様の布をまとっていて、その隙間、臀部でんぶ辺りからは長い尻尾が生えている。

 しなる鞭のように、落ち着きなく尻尾は揺れた。その先端は矢印の様に尖っている。

 痩せ細り、異常に大きく見える拳を木に叩きつけたと思うと、頭を殴りつけた。

 異形いぎょうの者が、つぶやくように言う。


「全く……上手く……いかない……。死に……導くことが……できない……」


 大きな口を開き、叫んだ。


「俺はッ! 悪魔だってのにッ!!」


 シンと静まり返った真夜中の山林に、悪魔ミラゼルの声は響き渡った。




 二




 少年は険しい山道を登っていた。

 大きな、重そうな荷物を背負って。


「おいマサシ! 遅ぇぞっ!」


 マサシと呼ばれた少年の、数メートル上を歩いている集団のうちの一人が言った。

 その集団は少年少女合わせて七人。男の子が三人に、女の子が四人。全員、それほど重そうでもないリュックサックを背負っている。背丈からして、小学校高学年くらいだろう。

 先ほど荷物少年をマサシと呼んだのは、集団の中でも一際ひときわ体格の大きな少年だった。


「ごめん……」


 マサシは謝り、荷物を持ち直すとゆっくり歩き出した。

 

「ねぇタケルくん、かわいそうよ。荷物あんなに持たせちゃって」


 集団のうちの一人、三つ編みの少女が言った。その表情からは、罪悪感のようなものがうかがえる。

 確かに、マサシが背負い、両手に持っている荷物は、明らかに上を歩く集団のそれと全く量も重さも違っていた。組み立て式のテントやテーブル、イスやバーベキューコンロまで持っている。


「あいつがジャンケンに負けたのがいけねぇんじゃねぇか」


 体格の大きな少年、タケルが意地悪そうに言う。


「そのジャンケンだって……」


 三つ編みの少女が口をつぐんだ。


「じゃあリン、お前が手伝ってやればいいんじゃねぇの?」


 少年はそう言うと「なぁ?」と他の二人の少年に同意を求めた。二人の少年は、うんうんとうなずく。

 少女達は複雑な表情で目を合わせた。長い髪を後ろでまとめた少女が、三つ編みの少女、リンの目を見て小さく首を振る。その目は「やめておきなよ」と語っていた。


「行こうぜ! キャンプ場はもうちょっとだ! 湖がすっげぇ綺麗なんだ!」


 タケルが歩き出すと、みんなもついて行く。

 マサシはというと、肩で息をしながら一歩一歩、山道を登った。


 そんなマサシ達の様子を、木陰こかげから眺めている者が居た。

 悪魔。ミラゼルである。


「キヒヒヒヒ……いいモン見ちゃったァ……」


 肩を揺らして喜んでいる。両手で口を押さえて、笑いを堪えているようだった。


「こいつァ間違いなく! うまく行くぞォ!」


 ミラゼルは体にまとった不思議な模様の布をひるがえし、体を包み込む。

 すると、その布の下からは見事に人間の少年にけたミラゼルが現れた。

 額に角は無く、臀部でんぶに尻尾はも無く、肌は肌色である。

 ニヤリと笑うと、森の中を駆けて行った。




 三




 マサシが集団に追いつきキャンプ地に着くと、タケル達はもう水着に着替えて湖で泳いでいた。

 浅瀬で水をかけ合いキャーキャー言っているみんなを横目に見ながら、マサシは黙々とテントやテーブルを組み立て始める。

 最後にバーベキューコンロを組み立て終えると、手が炭の跡で黒く汚れた。少しその場を離れて湖で手を洗い、ついにやることの無くなったマサシは、水辺で座って湖を眺めるしかなかった。

 少女達の笑い声や少年達のおどける声を遠くに聞きながら、太陽に輝く湖面を何も考えずに見ていた。

 すると、後ろの方から砂利の上を歩く音がする。その音はだんだんと、近づいてくる。

 マサシが振り向くと、一人の少年が歩いてきていた。

 この少年、人間に化けたミラゼルである。

 ニコニコと笑みを浮かべながら、キョトンとするマサシの隣に座った。


「やぁ。僕は“ミラゼル”って言うんだ。もちろんあだ名さ。悪魔の名前から来てるんだ。酷いよね。僕もこの近くに友達とキャンプに来たんだ。それで探検してたら、みんなとはぐれちゃってさ。そして、君を見つけたんだ。さっきの様子を実は見てたんだよ。みんな君に荷物を持たせてさ……自分達は何もしないで! 組み立てまでやらせてさ! いじめられてるんだなぁ、かわいそうだなぁ、って。思ったよ。……僕みたいだなぁ、って」


 ミラゼルが演劇のセリフのようにスラスラとまくしたてると、マサシはうまく返事が出来ずに口をパクパクさせた。


「実はね、僕もいじめられているんだ。今日だって君みたいに荷物持ちをやらされたし、雑用は全部僕の仕事なんだ。さっき僕のあだ名は悪魔の名前からきてる、って話をしたろ? それだってそうさ。僕はそんな名前で呼ばれるのは嫌なのにッ! あぁ、大きな声出してごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、僕も気持ち、わかるよってね。言いたかっただけなんだ。辛いよね。もう楽になりたいよね。それでね、今日はこんなものを持ってきたんだ」


 ミラゼルは手に持っていた大きなバッグから、いくつかの物を取り出した。

 それは“長い麻の縄”、“練炭れんたん”、“大きなナイフ”、“瓶に入った錠剤”だった。


「これをどう使うか――わかるだろう? 僕は今日、これを使うためにこの山について来たのさ。これは全部予備だから、君にあげる。どれを使うかは、君の自由だ。……特にこの“縄”なんていいんじゃないかなァ? これをさ……あそこの大きな木、わかるかい? あのテントの近くのさ。あそこの木に飛び出た太い枝、あるだろ? あそこにさ、みんなに見せつけるようにさ、この“縄”をさ、くくりつけてさァ……」


 もうミラゼルは笑いを堪えるのに必死だった。もうほとんど、吹き出してしまっていると言ってもいい状態だった。


「君は……?」


 マサシが不安そうな顔で言う。ミラゼルはニヤリと笑った。


「僕かい……? ……本当に、悪魔かもね」



     *



 ミラゼルはマサシに“道具”を押し付けるように渡すと、すぐにその場を立ち去った。

 といっても本当に去った訳ではなく、木陰でマサシの様子を眺めていた。

 マサシは渡された“道具”を持って、みんなの元へと戻って行った。

 その頃、湖で遊んでいたタケルやリン達は陸に上がってタオルで体を拭き、震えていた。湖の水温は思っていたよりも低く、体が冷えてしまったのだった。

 「寒いねぇ」「うん」なんて言い合っていると、長い髪を後ろでまとめた少女が、大きな木の枝に“長い麻の縄”をくくりつけているマサシを見つけた。


「ねぇ、あれマサシくん、なにやってるんだろう……」


 マサシは“縄”をぐっ、ぐっ、と引っ張り、枝の強度を確かめているようだった。


「……まさか…………」


 タケルの顔が、蒼白になる。

 その頃、木陰でその様子を眺めていたミラゼルはというと……。


「ハァ、ハァ…………もう少し……もう少しだぞ……」


 興奮していた。


「マサシくん……なにやってるの……?」


 リンが言う。

 マサシは、“縄”の先端を結び――輪っかを作った。


 「…………うん……?」


 ミラゼルは口を開けて、ポカンとする。

 ――何かがおかしい。

 “縄”が切られていない。長いままだった。

 ご丁寧に、一緒に“大きなナイフ”を渡してやったのに。もちろん“ナイフ”単体でだって、手首や首の頸動脈けいどうみゃくをアレしたりするのに使えるが、“ナイフ”を渡したのは“縄”を切るためでもあったのだ。なのに――

 マサシが木の枝にくくりつけた“縄”は長いままだった。

 彼はその縄の先端の輪っかに右手首を通すと、木から離れて地面に垂れた“縄”を思いっきり回した。“縄”はバシッ、バシッと大きな音を立てて、グルグル回る。

 “大縄跳び”の完成だ。


「ねぇ! 次はこれで遊ぼうよ!」


 マサシが笑顔で、大きな声で言った。

 タケル達は顔を見合わせる。

 すると一人の少年が、


「ちょうど体が冷えてたんだ! 体、あっためようぜ!」


 と言って駆け出し、タイミングを見計らって“大縄跳び”の中に入った。

 「オレも!」と言って、もう一人の少年が入る。顔を見合わせていた少女達も笑顔で頷き合い、駆けて行った。


 「早く! 早く!」


 “大縄跳び”の中からピョンピョン跳ねながらみんなが、まだ一人入ろうとしないタケルを呼ぶ。

 タケルは複雑そうな表情で躊躇ためらっていたが、意を決したように走り出すと“大縄跳び”の中に入った。

 “縄”を回しているマサシも、飛び跳ねる少年少女もみんな笑顔で楽しそうだった。

 一方ミラゼルはというと――唖然あぜんとしていた。


 まさか――そんな――


 口には出さなかったが、というより出せなかったというべきか。期待を裏切られ、困惑していた。

 “大縄跳び”はタケルが入ってからも三十回程続いたが、誰かの足が引っかかって止まった。飛び終わると全員が一斉に笑い合い、口々《くちぐち》に言った。


「めっちゃ続いたねぇ!!」

「あははははっ!」

「次の運動会さ、“大縄跳び”あったよねぇ?」

「初めてでこんな続くんだったら、練習すればもっと続くよ!」

「優勝狙えちゃうな! これ!」

「体、あったまったわぁ」

「マサシ、“縄”なんかよく持ってたなぁ! グッジョブ!」


 マサシはずっと“縄”を回していて疲れたのか、膝に両手をついて肩で息をしていた。自分が失敗してはいけないと思っていたのか、“縄”を回す様子は全力だった。声をかけられると、明るい笑顔で応えた。



     *



 「お腹空いたなぁ」と誰かが言うと、みんな同意した。バーベキューをしよう、となってテントの側へと向かう。

 湖の綺麗な水で野菜を洗い、切り出し始めた。


「ねぇ、この包丁全然切れないわ」


 一人の少女が言う。確かに包丁は全く研がれていなかったのか、カボチャに全く刃が立たないようだ。


「この“ナイフ”を使ってみてよ」


 マサシが、ミラゼルに貰った“大きなナイフ”を少女に手渡す。少女がカボチャに“ナイフ”の刃を立てると、まるで最初からそこは切れていたかのように、カボチャは真っ二つになった。


「すっごぉい! よく切れる“ナイフ”ね! ありがとう!」


 少女が礼を言うと、マサシは赤くなって照れた。


「おい、“炭”がないぞ?」


 バーベキューコンロの側にいた少年が突然言うと、タケルは動揺した。どうやら彼が忘れてしまったようだ。


「あぁ……えぇっと……」


 タケルがうろたえていると、マサシが言った。


「“炭”なら、あるよ!」


 マサシが動揺するタケルに渡したのは、ミラゼルに貰った“練炭”だった。


「あ、ありがとう……」


 タケルはホッとしたように表情をほころばせると、マサシから少し視線を逸らして礼を言った。

 マサシは優しく微笑むと、


「いいよ」


 と言った。


 ところで木陰のミラゼルはというと……


「そんな……そんな……!」


 そう呟きながらウロウロと落ち着きなく動き回っていた。

 よほどパニックなのか、肌は所々紺色になり、額からはデキモノのように少しだけ角が飛び出ている。



     *



 バーベキューを終えたマサシ達は、きちんと役割を分担して後片付けをした。そしてみんな疲れてしまったのか、辺りが暗くなってくると早々に寝ることになった。

 テントの中で横になり、タケルがイビキをかき始めた頃、リンが一人むくりと起き上がり、テントを出た。まだ起きていたマサシはそれに気付くと、後を追うようにテントを静かに出た。


「どうしたの……?」


 マサシが声を潜めて言う。するとリンは肩をびくりと震わせて振り返った。

 その表情は怯えているようだった。


「……怖くて眠れないの。いつもお母さんと寝ているから……」

「そっか……」


 マサシはひらめいたようにポケットから“瓶に入った錠剤”を取り出した。


「これを飲めば、きっと眠れるよ」


 少女を安心させようと、笑顔で言った。瓶から一粒出して、差し出す。


「それに僕、君が眠れるまで、起きてるから」


 少女は手のひらでそれを受け取ると、うつむいてポロポロと泣き出した。


「今日、私は……あなたがいじめられているのを、見て見ぬふりをしたのに……どうしてそんなに優しくしてくれるの……?」


 マサシは少女が突然泣き出したので動揺した。おそらく、女の子を泣かせてしまったことなんて、一度もないのだろう。


「いや、僕は……誘ってもらえただけで、嬉しかったから……。僕って話すのとかもニガテだから……だからしょうがないかなって、思ってたし……。……でも、今日はみんなと仲良くなれて、よかった」


 マサシが言うと、少女は頷く。


「私、もう見て見ぬふりなんて、やめるね。たぶんもう、みんなマサシくんをいじめたりなんかしないと思うけど……もしこれからマサシくんがいじめられるようなことがあったら私、きっと助けるね」


 少女が言うと、マサシは少し恥ずかしそうに俯き、頷いた。


 少女は“薬”を飲むと、静かな寝息を立てて眠った。マサシは少女がちゃんと呼吸をしていることを確認すると、ほっとする。その“薬”がなんの“薬”あるか、マサシは知らなかったからだ。

 その“薬”はマサシの想像通り、“睡眠薬”だった。




 四




 リンを含めみんなが寝静まった後、マサシは再びテントを出た。

 外は全くの無風だった。鏡のように滑らかな湖面が月の光を反射させて、辺りは夜だというのに明るい。

 静まり返った湖のほとりに、マサシが砂利の上を走る音だけが響く。彼が向かっていたのは、今日ミラゼルに出会った場所だった。

 もちろんそこにミラゼルはいなかった。マサシは抑えた声で呼ぶ。


「ミラゼルくーん。…………あっ、ミラゼルって呼ばれるの、嫌なんだっけ……」


 マサシがそう言って口を押さえると、後ろから声がした。


「別にいいよ……」


 振り向くと、ミラゼルがいた。湖の近くで体育座りをしていて、側の石を一つ拾うと湖に向かって放った。石はポチャンと小さな音を立てる。波紋が生まれ、それが湖面に写った月を歪ませると、それと同時に月が雲に隠れて辺りは急に暗闇に包まれた。


「ミラゼルくん……これを返しに来たんだ」


 マサシは背負っていたリュックから“長い麻の縄”、“大きなナイフ”、“瓶に入った錠剤”を取り出す。


「“炭”は使っちゃったんだけど……」

「……君は……僕がそれをどういう意味であげたのか……わからなかったのかな……」


 ミラゼルが落ち込んでいるような声色で言った。


「……わかるよ。……これって、つまり……自分で、自分をって、やつだよね」


 マサシははっきりとは言わなかった。まるでその単語を口に出すことを恐れているようだった。

 ミラゼルは目を見開き、マサシを見た。ミラゼルはてっきり、マサシは渡した道具とその使い方、意図をわかっていなかったのだと思っていたからだ。


「わかっていたのに、どうして……」

「だって、……怖いじゃないか」


 マサシははっきりと言った。


「仲間はずれにされることより、荷物を持たされたりテントを組み立てさせられたり、いじめられることより。死ぬ方がよっぽど怖いと思うんだ」


 ミラゼルは、人間という生き物は弱く、辛い思いをしながら生きていくのであれば、死を選んで楽になりたがる、と思っていた。実際この方法で、人間を死に導くことに成功したことも何度かあった。弱い人間の、さらに弱い子ども。今回はうまく死に導くことができると信じていた。なのに――


「だって死んじゃったらさ、僕のお母さんとかお父さんとか、おばあちゃんもおじいちゃんも、飼ってる猫のミイも。すごく悲しむと思うんだ。僕のことを思ってくれている人がいるから、僕は死ねない。君にだって、そういう人がいるでしょう? だから君も、そういうことは……やめなよ」


 マサシは一言一言を、諭すようにゆっくりと、強く言った。


「君に貰ったこの“道具”のおかげでみんなと仲良くなれたよ。ありがとう。これ、返すね。……君は“道具”を四つも渡してくれて、“どれを使うか”を選ばせてくれた。この“薬”がもしも“毒薬”だったなら、それを一つ渡すだけで良かったのに。“道具”も、“どう使うか”も選ばせてくれたんだ。だからこの“薬”は“毒薬”じゃなくて、“睡眠薬”だって、思ったよ。そしてその通りだった。……きみは優しいね。君は、悪魔なんかじゃないよ」


 ミラゼルは何も言わなかった。


「ねぇ、君の本当の名前を……教えて?」


 雲が流れて月が再び姿を現すと、辺りはぼんやりと明るくなる。

 もうそこに、ミラゼルはいなかった。




 五




 ミラゼルは林の中にいた。

 その姿は本来の姿を取り戻している。

 長い尻尾が地面に垂れ、肩を落としていた。


 うまく死に導くことが出来なかっただけでなく……優しいとまで言われてしまった……悪魔なんかじゃない、とも…………俺は……悪魔失格だ……


 両手に持った“長い麻の縄”と“大きなナイフ”を見る。


 今まで何千年と生きてきたけれど、悪魔って死ねるのかな……


 そんなことを考えていた。

 “縄”を“ナイフ”で、丁度いい長さに切る。そして先端を結び、輪っかを作る。

 山に捨てられていた錆び付いたパイプ椅子を木の側に置き、上に立つと、木の太い枝に“縄”を結びつける。

 引っ張り、強度を確かめる。

 輪っかに、首を通した。


 お願いだ……死なせてくれ……


 パイプ椅子を蹴り倒そうとしたその時――

 轟音と共に、太陽が落ちてきたようなまばゆい光が辺りを包んだ。

 咄嗟とっさに目をつむるミラゼル。何が――何が起きたのか――

 光がおさまり、目を開けたミラゼルは息をのみ、驚愕きょうがくした。


 真っ白な装束に、金色こんじきに輝く長い髭と、髪。


 そこにいたのは、神だった。


 死ぬほど驚いたミラゼルは、口をあわあわと動かす。


「久しぶりじゃのう」


 威厳のある低い声が、エコーがかかったように響く。


「堕天使、ミラエルよ」


 それはミラゼルの、本当の名前だった。


「何千年ぶりかのう」

「かっ、神よ……」


 ミラゼルは歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。

 かつてあやまちをおかし、神に天界を追放されたミラゼル。何千年も前の話だったが、その力、恐怖は体に染み付いていた。


「そう怯えるでない。ミラエル。今日は説教に来たのではないぞ?」


 ミラゼルは意味がわからない、といったような表情だ。


「ミラエル。天界から追放され地に堕ち、悪魔ミラゼルと名乗っていたようだが、お前。今日は珍しく良いことをしたな」


 神は機嫌が良さそうに、ニヤニヤと笑っていた。ミラゼルはひたすら怯えている。


「良いこと……?」

「あの少年、マサシに手を貸し、いじめから救い、友達を作るのを手伝ってやっていたじゃあないか」


 ミラゼルは、はっとする。そして顔を歪ませて首を振った。


「ちっ、違うッ! 違います! 私は、そんなつもりでやったんじゃあ……」


 ミラゼルはわっと泣き出した。神に褒められるということは本来ならたまらなく嬉しいことであったが、自分にはそんなつもりはなかった。何千年も悪魔として生きてきたプライドが邪魔をした。


「何が違うことがある。マサシは幸せになったじゃあないか。…………お前の元にやってきたのには訳がある。私はお前を地に堕として数千年と見張ってきたが、お前が良いことをしたのは今日が初めてじゃった。今日のお前の行いを評価して、お前を天界に戻してやろうと思い、来たのじゃ」


 神が立派に伸びた髭を撫でながら言う。

 ミラゼルは泣きながら言った。


「とても嬉しいお話ですが……私が、天界にだなんて……とても恐れ多いです……汚い私めには地が、死が、悪魔が……お似合いなのです。……私に幸せなどは……似合わない……」

「……じゃああのマサシという子を天使として、お前の代わりに連れて行こうかのぉ」

「……! それはなりません!」


 ミラゼルは訴えかけるように言う。


「この地には、あの子を思う人がいるのです! どうか、マサシは……連れて行かないであげてください!」


 懇願こんがんするミラゼルに対し、神はおどけるように言う。


「じゃあお前を連れて行くしかないのぅ」


 神ははっきりとした声で続けた。


「今日、お前は結果的にではあるが、マサシを幸せにした。そしてお前自身、大事なことに気が付くことができた。それは他人を思いやる心だ。他人を思いやる心がなければ、天使には相応ふさわしくない。これからお前には天使としてしっかりと働いてもらう。それは誰かを幸せにしてやるということだ。……今日のマサシのようにな」


 ミラゼルは今まで何千年もの間感じたことのなかった、懐かしい暖かさを感じていた。心の中の大きな氷の塊のようなものが、少しずつ溶けて行くような気がした。

 神は地面に落ちていた“大きなナイフ”を拾うと、涙を流し続けるミラゼルの首にかかった“縄”で出来た輪っかの部分を持った。

 そして結び目から伸びた“縄”の部分を切り落とすと、輪っかを強く握った。すると縄は黄金のように輝き出した。ミラゼルの首から外すと、頭の上で手を離す。輪っかは地面に落ちることはなく、ミラゼルの頭の上に浮いた。

 黄金の輝きがミラゼルを包むと、紺色の肌は火で炙ったように焼け焦げ、ポロポロと落ちた。その下からは真白な肌が姿を現す。

 頭髪は黒かったのが、根元から金色に染まった。角は引っ込み、尻尾は臀部に吸い込まれるように消える。そして身体を丸めると、蛹から蝶に羽化うかするように、柔らかく、純白な羽が生え広がった。

 身体に巻くようにしていた布は光の粒子のように空気中に溶けた。代わりに、空からクリーム色のヴェールが舞い落ちてきて、肩にかかる。


「さぁ、準備は出来たな。ミラエル。では……ゆくぞ」

「……はい」


 ミラゼルは、いやミラエルは。全てを吹っ切ったような清々しい表情だった。

 眩い光を放ちながら空へと舞い上がる神について行くように、翼を羽ばたかせて飛び上がった。

 一度だけ湖の方へ向くと、ありがとう、と小さく呟く。

 そして――天使ミラエルは昇っていった。



 六



 翌朝目覚めたマサシ達は、組み立てていたテントやテーブルを片すと、荷物を分担して持ち、山を下った。

 爽やかな山の空気を吸いながら、山道を降りて行く一行。しばらく歩いていると、タケルが言った。


「重いなぁー、荷物。……なぁマサシ、持ってくれよ」


 マサシが振り向き、返事をする前にリンが言う。


「ダメッ!! 自分の分は、自分で持つの!」


 リンの瞳は揺るがなかった。

 見つめられて、タケルは苦し紛れに笑って誤魔化した。


「じょ、冗談だって……」


 みんなリンの剣幕に驚きを隠せなかった。

 リンがマサシの方を向いて、優しく微笑みかける。

 マサシは驚いていたが、ふふっと吹き出すと、リンに笑顔で応えた。

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[一言] 初めまして、宣伝ツイートを見てお邪魔しました。 自殺というテーマでしたが読後感が良かったです。 何となく童話に近い感覚で、教訓となる描写を複数含みつつ いやみの無い優しいラストが気に入りま…
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