幻想消失
パーピリオ
夕暮れ。赤い光に包まれた住宅街の中、一人の小さな女の子が、電柱の間をすり抜けるようにして走っている。短く切りそろえた黒いおかっぱ頭を、真剣に揺らしている。女の子がジッと宙に据えたその目の先には、一羽の蝶が、ひらひらと飛んでいる。女の子は、それを追っているのだ。
蝶は、実に薄いその翅を、紅の夕陽に透かしながら、頼りなげに飛んでいる。よく見れば、この蝶自体、夕陽をそのままに移したような橙色をしていることが分かるだろう。女の子は、夕暮れの光の中を、夕暮れの色をした蝶を追いかけて、走っているのである。
蝶は、時折、女の子が伸ばす腕を軽やかに避けて、まるで、どこかに彼女を導くように、ふらふらと飛んでいく。コンクリートの道には、他にも多くの人が忙しげに往来しているが、女の子の目には、蝶しか映っていないようだ。長い影を後ろに連れながら、女の子は、蝶と一定の距離を保ちながら走り続けた。やがて、女の子は、不意に蝶を見失った。つい一瞬前まで、そこに飛んでいたはずの蝶は、夕陽に紛れるように忽然と消え、その代わりのように、一人の少年が立っていた。
少年は夕焼けの色をした瞳を持っていた。着ている服には、星屑の煌きを持つ粉のような何かが無数についており、きらきらと輝いている。靴は履いておらず、代わりに薄い布で作った靴下のようなものを身につけていた。
「だれ?」
女の子は首をかしげた。それというのも、少年がさも親しげに女の子に微笑みかけ、右手を差し出したからである。少年は微笑んだまま、澄んだ声で答えた。
「パーピリオ」
「ぱーぴりお?」
女の子は聞きなれない響きの言葉を繰り返し、もう一度口の中で唱えた。それから、おずおずと、パーピリオの手を取った。パーピリオは嬉しそうに声を上げて笑った。女の子がパーピリオの手を握った瞬間から、世界は停止したようだった。夕焼け空に浮かぶ雲は流れるのを止め、そよいでいた雑草の動きは止まった。どこからか聞こえていた街のざわめきも消えた。さっきまで早足で歩いていた人達の姿も、ぱったりと絶えてしまった。変わることのない書割のような風景が、延々と続いている。女の子の目の前には、透き通るような永遠だけが広がっているのだった。
「どこへ行くの?」
女の子は純粋な質問を投げかけ、小首をかしげた。パーピリオは微笑んだまま、泡のような声で答えた――「幻想織りに逢いに行こう」。
幻想織り
幻想織りは、夕暮れの街角の、電柱の上に立っていた。彼、もしくは彼女は、どう見ても体に合っていない燕尾服を着ており、その燕尾は電柱の半ばまで、だらりと垂れている。あれでは地上を歩くのは大変だろうと女の子は思った。
女の子とパーピリオは電柱の根元から幻想織りを見上げていたが、やがてパーピリオが幻想織りに声をかけた。それは先ほどの泡のような声ではなかったが、女の子が聞いたことのない言語だった。そもそも、人間に発することができるのかどうか、疑わしくなるような言葉だった。そういう言語で声をかけられた幻想織りは、それまで覗き込んでいた遠眼鏡を燕尾服の内側にしまい込んで、鳥のように首を動かしながら足元を見下ろした。そして、二人の姿を確かめたらしく、先ほどのパーピリオの言語で何かを叫んだ。それは、女の子の耳には鳩の鳴き声の如く響いた。
「あの人が?」
「そうだよ」
パーピリオは相変わらず泡のように頼りない言葉で女の子に答え、それから、また幻想織りに向かって、例の言語で二言、三言発した。幻想織りは、その言葉に肯いて、大きく手を広げた。見上げている女の子には幻想織りの身長はよく判らなかったが、その腕がとてつもなく長いことは分かった。それでも、丈の合わない燕尾服の袖口から、幻想織りの手が見える事はなかった。だらりと垂らした袖口が、風もないのに大きく広がり、翼のようにはためいた。
くるっくーぅ
幻想織りはまたも鳥のように叫び、とんとんとリズムを取るように足踏みをした。そして唐突に、自分が立つ電柱の上から飛び降りた。女の子は目を瞑りこそしなかったが、思わず側に立つパーピリオの服の裾を掴んだ。しかし、女の子が予想したようなことは起こらなかった。幻想織りは膨らんだ袖口とひらひら揺れる燕尾でバランスを取りながら、ふわりふわりと降りてきたのだった。
「幻想織りは、幻想を織るんだ。この世の全ての幻想は、幻想織りが織っているんだよ」
幻想織りが音もなく着地すると同時に、パーピリオがそう説明した。幻想織りはいつのまにか元の通りにだぼついていた燕尾服をたくし上げて、燕尾の部分を蝶結びにした。それから、ゆっくりと女の子にお辞儀をした。女の子も返礼し、さりげなく幻想織りの顔を見た。それは紛れもなく鳩の顔だった。
幻想
鳩の顔をした幻想織りは、袖をまくってその腕をあらわにした。やはり、それは、どう見ても鳥の腕でしかない。しかしパーピリオも幻想織りも一向平気な顔で、女の子には分からない言語で言葉を交わしている。女の子は、そっと幻想織りの足元を窺ったが、その足は革靴に隠されていて見ることができなかった。
「幻想織りが、幻想を織るところを見せてくれるよ」
そう、パーピリオが言った。口にした途端に空気中に霧散して、耳に届く前に消えていくような声だが、女の子はもう慣れてしまった。答えるように、一つ肯いて見せる。
幻想織りは円い黒目をぎょろつかせて、自分の腕から羽毛を一本抜き取った。それから女の子の手を握り、その手の中から一本の糸を抜き出した。どこから出てきたのだろう、と、女の子は不思議に思った。幻想織りは、その糸と自分の羽毛とを両手に持ち、スッと腕を上げた。そして、その両腕を指揮者のように振り始めた。
「よく見ていてごらん」
パーピリオが女の子の耳元で囁く。言われたとおりに見つめる女の子の目の前で、虹色の、布とも泡ともつかない、妙に弾力のある、一枚のものが織りあがっていった。それは、女の子の掌くらいの大きさまでになると織りあがったらしい。幻想織りの手の中にあった一本の糸はいつのまにか消えてしまい、羽毛の方は、まだ残っている。そうして幻想織りは、その織りあがったものを女の子に渡した。
「これが幻想になるんだ。透かしてごらん」
パーピリオの言葉に、女の子は渡されたそれを、夕陽に透かした。虹色に光るそれの中には幾つもの気泡が見え隠れし、その気泡の一つ一つの中に、それぞれ違った形の宇宙が広がっているのだった。
「中にあるのは何?」
「その泡一つ一つが幻想なんだよ。唇に当てて、吹いてごらん」
女の子は言われたとおり、それを口に当て、軽く吹いた。すると、虹色の織り目から無数のシャボン玉が浮き上がり、夕焼けに染まる街の中に飛び出した。
「あのシャボン玉は全て、それぞれ違う幻想だ。あれが街中に飛び交っているんだ」
女の子の目には、シャボン玉は、無数の世界を内包した神秘の玉に見えた。シャボン玉は無風の街並みを、それ以上浮き上がることもなく、また沈んで割れてしまうこともなく、漂い続けている。時折、夕陽を反射して、不思議な色に光った。女の子は試しにシャボン玉を突いてみたが、どれも割れたりなどはしなかった。パーピリオは微笑みながら、女の子に言った。
「今吹いたものを見てごらん」
女の子が自分の手の中にあるそれを見ると、それは先ほどまでの虹色の輝きを失くし、今にもわらわらと崩れ落ちていきそうな気配を湛えている。驚いて女の子が手を離すと、それは、たちどころに分解し、消えてしまった。
「幻想織りの織る幻想は、人間にしか吹けないんだ」
なるほど確かに、鳥である幻想織りには、布に唇を当てて吹くということは、できないのに違いない。女の子は肯いて、パーピリオを見上げた。
「だから、君に吹いて欲しいんだ」
女の子は少し言われた意味を考えていたが、シャボン玉のきらめきを見て、一つ肯いた。パーピリオは嬉しそうに笑い、女の子の頭を撫でた。
「ありがとう」
永別
それから女の子は、変わることのない夕焼けの街で、パーピリオとお喋りをしつつ、幻想を吹く日々を送った。幻想織りは、女の子とは一言も言葉を交わさなかったが、パーピリオとはよく、女の子には分からない言語で喋った。女の子は、いつでも微笑みを絶やさないパーピリオと、夕陽にきらめくシャボン玉に囲まれているのが、楽しかった。昼も夜も来なかった。パーピリオと幻想織りの他には、誰も姿を見せなかった。止まった世界の中で、女の子は何一つ思い煩うことなく、ただ幻想を吹いては、その幻想を眺める日々を送っていた。
シャボン玉はゆらゆらと煌き、暫くの間そこらに漂っているが、やがて、女の子の夢を抱いて、どこかへ飛んでいくのだった。女の子は、形も色も光具合も、それぞれ違ったそれらを見つめ、微笑むのだ。
そうして、動くことのない時間が暫く続いたが、或る時、幻想織りが、女の子の手から糸を引き抜いた途端、悲しそうに一声鳴いた。女の子もその瞬間、何が起きたのかを理解した。自分の中にあった、あの赤い糸が、ぷつんと切れてしまった。声を上げて泣き出したい衝動に駆られる。堪え切れなかった涙が一粒、右目から零れ落ちた。
その涙が地に着いたと同時に、女の子の周りに多くの音が響き渡った。その音は幾重にも重なり、どれも調和することなく、がちゃがちゃと、耳の中に捩じ込まれていくようだった。それらは、女の子が、その瞬間まで忘れていた音だった。車のエンジン音、小鳥のさえずり、人々の喧騒、足音、空気の流れ。夕焼けは深まり、時が動き出した。
女の子は、ゆっくりと辺りを見回した。そこには、パーピリオも、幻想織りも、いなかった。そこには、ただ忙しげに足を動かす人々と、移動を繰り返すだけの車しかなかった。道の終わりには大きなビルが建ち、それまで女の子を照らしていた夕陽を遮っている。
女の子は、きょとんとして、少しの間そこに立ち尽くしていた。そうして暫くしてから、ゆっくりと歩き出した。家路を歩く女の子の目には、道端に舞う蝶も、塀に止まる鳩の姿も、もう映りはしなかった。