こいの空回り ⑦
蔓で縛られているのは上半身のみ。だから立ち上がろうと思えば用意に立ち上がれる。彼女が最初から置いてあった岩の陰。
鬼の視界から外れるようにと偽装していた符が解かれ、彼女は縛られたまま鬼の前に姿を現す。
「あは」
魅力的な笑顔。まるで見た者の心を引きずり込むような、そんな笑顔で彼女は笑った。
「大辺・晶ぁ!」
対して鬼はこの世の全てが許せないという憎悪の視線で彼女を射抜き、名を口にする。
恨み、怨み、憾み。ありとあらゆるうらみの篭った目はすでに理性を残していない。もしも感情だけで人を殺せる術が鬼にあるのならば、数百人は殺せるだろう。
「えっと。お久しぶりです。ええと、こうして話すのは初めてですね。あ、でも初めましての方がいいんでしょうか。あはは、緊張しちゃってます。その、凄い嬉しいです」
歳相応の表情になり、はにかみながら言う彼女に、鬼は吼える。
「何が、嬉しい、嬉しいだと! 言うに事欠いて、何を、貴様が、貴様の、貴様さえ!」
ビシッ、と結界に亀裂が入る音を聞く。不味い。今まで鬼が自在に抑えていた、抑圧しすぎていた感情により、鬼の力が増している。
「貴方の言いたい事はわかります。だから、貴方の為したい事もよくわかります」
微笑む。思わず息を飲んでしまう、花のような誘惑の微笑み。これは人間が浮かべられるようなものではない。慈愛? 否。これは、愛だ。女が愛した男へ向ける笑み。
それも並の人間が持つようなものではなく、僕ですら背筋を震えさせるような。
「これさえ聞いて貰えればそれでいいんです。私は――」
彼女の言葉を続かせるか、迷う。続けさせればきっと鬼は死を望むだろう。だが無理に途切れさせてしまえば鬼は彼女を殺すはずだ。
どちらが願いを遂げるかの選択。僕はどうするべきか、そんなものはとうに決まっている。誰もが不幸にならない選択、そんなものはない。だが、誰もが死なない選択なら。
鬼を縛る結界に更に力を込め、彼女の声を遮るために口を開け。
「お、流石大将。俺が大敗した相手を無傷で封じてるたぁ、やっぱ俺もまだまだ力不足だな。んで交渉って奴は無事終わったのか? どんな交渉なのかわかんねぇが」
今までの空気を壊すように仁君がぼろぼろの服で悠々と現れる。
いい所で来たと言うべきか、悪い所で来たと言うべきか。
だが、これで安堵は得た。彼さえ来たのならば、少しの無理をし、して貰いもすれば容易に切り抜ける事が出来る。
「随分と楽しそうな事をしていた格好だが、夜遊びは感心しないね」
「おいおい大将、俺も高校生だぜ? 夜遊びの一つぐらいするって。野山を駆け抜けるのは趣味だしな。服は悪ぃと思ってるけどよ」
制服のままで来たから明日はジャージで行くしかねぇなぁ。結構疲れてるし休んでもいいけどな。と、軽口を叩きながら鬼を警戒しつつ大将の立っている場所まで歩く。
靴までおしゃかになってるのが痛ぇ。帰り道がなぁ、コンクリートはダメだろ。
「それで、交渉終わったのか?」
鬼を抑え付ける大将に聞く。けどなんか符が破れかけてるのはもしかして、不味いのかこの状況。
「いや、交渉は」
大将が意識を逸らして鬼の腕が微かに動くのを、見る。
勘だ。なんとなくだが、危ねぇ気がする!
「……予想よりも、早い。感情とは厄介だね」
片腕にあった符が弾け、軽く見た時に折れてたっぽい腕が異常な再生力で元に戻る。ついでに身体にあった裂傷も全部消えてら。はっ、感情、ねぇ。鬼の怨みはそれほど深いか。
「大将?」
朱莉の方を確認したら女を担いでやがった。縛られてる以上は下手に暴れねぇだろう。
「僕の縛りを強引に解いた。呆れるが、それ程の憎しみと言う事なのだろうね」
俺は大将を担いでその場から退いてる。さっきまで大将が居た場所に鬼の腕が振られて避けてなきゃ大将死んでたな。
「朱莉平気か!」
「貴様こそ、怪我の痕が酷いぞ!」
大将をそこらに投げ捨てて走る。朱莉が俺に視線を向けた一瞬。視界の端で鬼が動いた。
それも、朱莉の方に。だからもうその後は無意識に身体が朱莉の方へ動いた。
「女ごと死ね!」
もう二十四時を過ぎてたっけか、なんて暢気な事が頭の中に浮かぶ。鬼が放った全力の一撃。
朱莉に向かって放たれたそれを、朱莉を突き飛ばす事で防ぐ。流石にこの一撃を空中で受ける方法を俺は知らねぇ。
「や、山野ぉ!」
意識の断絶。さっきも同じ事があった気がする。身体が動かねぇ。息ができねぇ。手も動かないってのはやべぇ。
腹がぶち抜かれた程度なら、別に構わねぇ。けどこりゃもしかすると衝撃で弾けてんのかもな。頭が無事なら生き残れるってわけでもねぇ。
朱莉の声が聞こえた気もするけど、世界が遠すぎる。
「……慈悲だ、死ね木霊」
赤黒い何かが俺の視界を閉ざしたような、ないような。わからねぇ。流石に、俺も死ぬのかねこりゃ。
「仁君!」
ああ、大将の声はよくわかる。聞きなれた声だ。俺の母上と同じぐらいに。
「何をしている仁君、いや世緑逸野! 僕に使役される神は、その程度で負ける存在ではないだろう!」
意識が強制的に覚醒させられる。弾けてばらけた身体から根が生えて俺へと伸びる。
振り下ろされる鬼の腕。まぁ、普通なら死ぬだろうが。
「思い出せよ、俺の頭の硬さ!」
ヘッドバックで腕を弾き返す。はは、流石に頭が痛ぇな。けど、ま。死ぬのは避けられた。
「悪ぃな大将、疲れてんだろうにこんな姿にさせて。朱莉も、心配させたみてぇだな」
ついでに腕を振りかぶって鬼を殴り飛ばす。嗚呼、髪が長くなっちまった。背中まで伸びちまうから後で切るのがだりぃ。
確認する。身体で根が見える部分は上半身と下半身。まぁ二つに割れたって事だろう。
腕も千切れた後があった。どっかに弾けた部分は土と根で補っちゃいるが、これが完全に馴染むまで結構かかるだろうな。
「貴様、何者だ!」
「おいおい。見てもわからねぇのか?」
この姿にならねぇと勝てないとはな。俺が未熟なのか、それともコイツが強すぎたのか。もしかすると両方かね。
殴り飛ばされた鬼が俺に飛び掛る。怒ってるのかさっき見せた武術はガタガタだ。だから容易く避けられる。
「あっちに行かずに俺を殺そうとしたのは評価するぜ。メインは後で前菜から先。いい判断だな」
避け、左手を鬼の目に被せて一瞬視界を奪う。その合間に胸へと掌のぶつけ身体の中へと衝撃を叩き込む。
「ぬ、うっ!」
「んで俺が何者か、だったか」
たたらを踏んだ鬼が右足を蹴り上げる。少しだけ後ろへ下がって、轟音のする足をやり過ごす。このまま何も考えずに突っ込めば踵が落とされる。
身体を前へと動かす振り。フェイントをかけて相手の足が落とされたと同じに、相手の軸足を草で縛り上げ、こっちの蹴りを叩き込む。
温い。感情に流れた奴じゃ、この程度か。
「木霊? あんな奴と一緒にすんな。器物? 悪くねぇが、種別が違ぇ」
更に一歩、鬼が力を込めて草を引きちぎり下がる。
「教えてやるよ、俺が何様か」
下がり、状況把握をさせない内に、蹴り上げた足を地面に落とし懐へ入り込み、落とした衝撃を使って肘を腹へと叩き込みながら、肘から無数の木の枝を生み出して、相手の身体の中を貫かせながら、吹き飛ばす。
謎だろう。身体から植物をはやすのも、鬼の領域内で好き勝手に植物を操られるのも。
理由は単純明快。
「俺は、神様なんだよ」
宣告と同じに沈められりゃいいが、無理だな。流石に鬼も頭が冷えてきたのか構えを取り戻しやがった。
いいようにできるのはここまで。種族としちゃ、さっきまでの人間寄りの半神じゃ大敗。今の使役状態で互角。だが、武術の技量じゃ俺の負けだ。
鬼を吹き飛ばしたから四歩の距離。互いに進めば一秒後にはぶつかる。腕力は俺と鬼なら、鬼の方がやや優勢って所だろう。けどよ、小細工は使わせてもらうぜ。
「足元に注意しな」
草。ただの草だと思うな。鬼の支配領域程度なら、俺の力でも上書きで一時的に支配可能だ。植物を操るってのとはワケが違ぇ。場を支配するって事は、この場の力を俺が得てるって事だ。
「くっ!」
土地に宿る力をそのまま草の強化と俺の強化に使う。草は鉄のような硬さとゴムのような柔軟さで鬼の両足を束縛。
その状態の鬼へと突き進み、正面から拳を放つ。片腕で防がれる。下から。防がれる。横から。防がれる。だが、硬さは感じねぇ。さっきの戦いじゃこっちの拳が壊れそうな硬度に感じたが、今なら多少の無茶は平気だ。
反撃のため拳が放たれるが、足をしっかりと踏みしめられねぇんじゃそこまで痛い拳にはならねぇ。多少痺れるがな。
「どうした鬼さんよ! この程度か!」
「同じ言葉を返す、余り俺を舐めるな!」
こっちの打撃を耐え、隙を見せながら足を強引に上げて鬼は草を引きちぎり、俺の顎に一撃。流石に、視界が揺れる。
風を巻く程の衝撃。畏怖するように場が縮こまる。流石だ、流石すぎんだろ。だが俺もこのぐらいで倒れねぇ。
「舐めてるわけじゃ、ねぇよ!」
揺れる中で足を踏みしめ、拳を突き上げる。相手の顎に当たった手ごたえはあった。けどこっちも鬼が得意とする踵落としを喰らった。倒れそうで、何よりこのまま眠りてぇが。
まだ、まだ早い。
「見下してんだよ、俺は!」
腕を広げる。狙うは心臓。貫通はできねぇだろう。だが、さっきもやった。
衝撃だけを内部に通す。大将から教わった武技。
「おっらぁ!」
世界が揺れて、視界は真っ赤。それでも狙いだけは外さねぇ。ここで俺が倒れたら朱莉がヤバイっつーの!
「ガッ!」
両手で胸を挟む。相手の呼吸を読み、最も筋肉の鎧が薄い部分から心臓へと通す狭間流『手拍子』って技だ。俺の中で最高の手ごたえだった。確実に心臓を潰せた。
「効いた、ぞ。神」
口から血を吐きながら鬼は、言う。倒れない。人間に使えば確実に死んでいる技。
鬼ですら内部が完全に破壊され尽くしてんだろうに。最強の妖怪は、伊達じゃねぇ。
「目が、覚める程には!」
気を張った正拳突きが意趣返しとばかりに俺の胸へと叩き込まれ、吹き飛ぶ。
万全の鬼が放った一撃ならこの状態の俺でもまた二つに千切れてんだろうな。つまりはだ、今の鬼は満身創痍。なら後、一押し。
心を折れりゃ最善だろうが、今の俺にゃできねぇだろうな。なら、後は。
「あか、りぃ!」
「応とも!」
視線を向けりゃ朱莉が術の下準備を終えてら。なら俺の出番は終了。
後は、アイツで終わりだ。
「憎悪、嫌悪、悪意」
世界が蝕まれる感覚がする。
「殺意、害意、敵意」
ああ、この場の支配権を持ってるのが俺だからか。はは、何度も聞いても朱莉のこれは背筋が冷える思いだ。これだきゃ、生物である以上は抵抗できねぇ術だもんなぁ。
「妬み、嫉み、僻みに怨み。燃え上がる激情よ、くべられる感情よ、内から外に、全てを燃やそう」
鬼は遅い。その身から溢れる炎に気づいてるだろうが、ここまで来たら、いや。俺を相手にした時が手遅れだ。
「心は燃える。感情にて燃え盛る。溢れるばかりの激情よ、須らく燃やしてしまおう」
そもそも鬼は動けねぇ。回復力を発揮するなら怨念が必要だろうが、そもそも原動力自体を焼かれちゃあ、どうしようもねぇだろう。
「思いも想いも何もかも、燃えて燃やして燃え尽きて、心も身体も灰となろう」
紡ぎ終える。瞬間、鬼の身体からどす黒い炎が噴出した。
それを消そうともがき、動こうとするが鬼はそこで膝を付く。身体の外側が燃えてるわけじゃねぇ。内側、それも精神から燃えてるんだ。まず判断が出来なくなって膝を付く。
次に息が吐けずにその場で倒れて、最後は朱莉が火を消すまでもがき苦しむ。
そもそも消そうとしてもした所でこの術は発動した時点で勝敗が決する絶対の妖術だ。
感情に呼応して発現して感情か肉体が燃え尽きるまで燃やし続ける炎。人を思い、人を想い、だからこそ人を襲うために編み出された朱莉固有の妖術。
今までした奮戦は全部これのための布石だ。つっても、俺がぼろぼろにならなきゃ格好付いたんだろうがな。
「まっ、これで」
鬼は死ぬだろうな。依頼は達成できねぇが命あってだ。
と、気を抜いた。警戒すべきは鬼だけだって、間違った。
「火を消してくださいな、朱莉さん」
だから予想外の方向から来た女に、俺は反応できなかった。
「てめ、何してんだ! 朱莉から離れろや!」
朱莉が術を唱えるためにそこらに捨てておいたんだろうな。大将も鬼に注意を向けててそっちへの警戒は薄かっただろう。その隙を突かれた。
女の腕は縛られちゃいるが、その蔓を朱莉の首に。両手を目にやってやがる。下手に動いたら朱莉の両目が潰されるなこりゃ。……チッ、油断した。
「ふふ。ダメです。だって、私の愛する人が死んでしまいそうなんですもの」
……ん? は? 何言ってんだこいつ。
「……愛、だと? 貴様、どの口が!」
炎の勢いが更に激しくなって呼吸も辛いはずだってのに、鬼が吼えた。だが女はその咆哮を殺すように言葉を紡ぐ。
「愛しているんです。貴方を見た時、瞬間、刹那それからずっと。貴方の事を想って眠れない夜もありました。ずっとずっとずぅっと貴方だけを夢見て生きてきました。私は貴方になら殺されてもいいんです! これさえ言えれば死んでもいい、バレンタインは愛を告げる日です。だから貴方に私をあげたいんです。貴方の誕生日はバレンタインなんですから。私を殺してください、それが楽しみで楽しみで、本当に楽しみでならなかったんです。私を捧げる事は最愛の表現でしょう? 殺してくれるんですよね、殺してください、好きにこの身を殺しつくして下さい晶さん!」
恍惚の顔で、女が言う。俺はなんとなく一歩下がった。正直に言うと、怖かった。
「貴方は私を殺したいんでしょう。なら殺してください。貴方の望む事ならなんでもします。貴方が他の男に犯されろというなら喜んで犯されます。貴方が人を殺せというなら楽しんで殺します。私の自殺がお好みならどのような方法でも死んでみせます。貴方の言う事なら何でもします。愛しています、愛しているんです、愛という言葉すら生ぬるい程に、貴方に滅茶苦茶にされたいぐらいに愛しています!」
この場の誰も、俺も、朱莉も、大将も。誰よりも鬼が、何も言えなくなるような心の言葉。いつの間にか炎は小さくなっていた。朱莉が気おされ術を解たのか。鬼が感情を失う程の言葉だったのか。
鬼はただ呆然と、何もかもが削がれたような顔で女を見ている。
この表情は何度も。何人も見た事がある。全てを受け入れるしかない、全てを諦めるしかない。
絶望。
俺が、朱莉が、大将が。一度全てを失った事のある表情だ。
「俺に殺される事が、望み?」
「はい。貴方がそれを望むのなら」
小さかった火はその言葉で、完全に消える。
「……なぁ。大将。どういう事だよ」
女は朱莉を離して鬼へと駆け寄り寄り添う。重度の火傷を哀しむような顔で。
はは。……理解できねぇ。こんなん、理解できるわけがねぇ!
「言葉の通りさ、仁君」
大将が苦い顔で二人を見て、言葉を切った。
だから言葉の続きを待つ。待つしかできねぇ。
「取替え子。僕らはそれにたどり着いていた。彼女が妖精と呼ばれる類なのだと分かっていた。だがその先を思い至れなかったんだ。取り替えられた、人間の事に」
そいつは、少しだけ理解するのに時間がかかる言葉だった。




