九十九神屋 ③
殴られた。そう気づいたのは三日後。布団の上で目を覚ましてからだった。
「……あの」
「死ななくて良かったね。彼女の腕力は大木をへし折るよ」
見えていたが、しかし避ける事が出来なかったのだろう。
受ける事はしたのだと思う。身体が貫通していないのがその証拠だ。
予測だが彼女が僕を受け止めてくれたのだろう。そうでなければ衝撃に反して肉体の損傷が少なすぎた。
とは言え当時の僕はそこに気づく事は出来なかったのだが。
「僕は」
「吹き飛ばされた。君は、もう少し武術をきちんと習うべきだったね。私の技でも少し習おうか」
それから数年の間は武術の訓練を主にしたのだったか。屍使いの屍と戦い、天狗の彼女と戦い、その他妖怪と戦い。それなりに死線を潜り抜けた。里の外から来る外敵とも争った。人間とも、殺し合いを済ませた。
この時点で僕はきっと人間という者に対して嫌悪のような感情を抱いていたのかもしれない。
平和な里へわざわざ殺しにやってくる生物。卑怯な手段だろうと何だろうと使う卑劣な生き物。
この時に得た嫌悪感は将来に渡ってまで僕へこびり付き、中々落とせる事はなかった。
「……お久しぶりです」
数年。修羅場を潜り抜け、当時よりも技術が向上した僕は、数年ぶりに彼女の前に立つ。
未だ片腕も片目もなく、それでいて前に見た時と変化のない姿。浅黄色の着物は彼女の美しさを何倍にも際立たせる。月光でなく太陽なのが惜しい、と感じるがそれでも太陽の光は彼女を祝福しているかのようだった。
感じる威圧感は前と等しい。それでも感じる恐怖は、前よりも薄い。
恐怖に慣れたのか。それとも鈍くなったのだろうか。
「……」
彼女は何も言わず動く。
その身の重さを意に介する事ない足運びは羽を思わせる。瞬きをした瞬間には風に吹かれるかのように、僕の目の前まで寄っており。
風を切る音が耳元へ響く。
「……当たりませんよ」
身体を横へ捻り避ける。この時点で彼女の足は僕を転ばそうと巡らされており舌を巻く思いをした。
拳を突き出すのはふぇいくであり、その間に足を刈り取り更なる一撃を与える。
と、思わせるのすら相手の策。いや、実際にその通りになり得るだろう。彼女の攻撃は全て二手、三手を読んで行うものだったのだから。
「どちらにもね」
相手の懐へと突っ込みそのまま彼女を押し倒す。これで足を無理に避けていれば裏拳が僕を襲うだろう。それ程の速さはある。
だから無理にでも突っ込むのが最善手だろう。もしこの時に今程度の力量があれば拳を受け流す事は出来たのかもしれないが。
「天狗組手が七『山崩し』」
組み敷くだけの余裕はない。やろうと思えば即座に僕の身体を弾き飛ばす程度は可能だ。どうせ勝率など零に近いのだ、正面からやったとして勝てるはずがない。
山を崩すのに必要な労力は僅かな物でいい。小さな歪みは後々大きな物となり現れる。それを体現するのが山崩し。具体的には抜き手であり、相手の最も脆弱な部分を狙う技だ。
押し倒し、抜き手を右腕の間接部分へと差し込み、指の折れる音がする。
「……小石ね」
「指を犠牲に腕を封じられるのなら十分でしょう」
彼女の声をこの時に始めて耳に入れる事が出来た。透き通る空のような声。心の中にすとんと納まるような声に一瞬だけ気を奪われる。
「けど未熟」
腕の間接部分は動かさずに彼女は肩ごと腕を振るい僕の身体を弾き飛ばす。一瞬の、大きな隙だ。
だが声が聞こえた事だけで十分に価値はあった。
「……前の時の評価を聞いてもいいですか?」
「未熟以前」
手厳しいと思いながらも納得した。当時はまだまだ、本当に何も知らなかったのだ。
彼女の実力が、天井が見えなかった。この時点ですらまだ見えているとは言いがたい。
「では、未熟な僕に貴女は倒される」
折れてひしゃげた指を彼女へ向ける。鈍く鋭く走る痛みはあっただろう。だがこの状況に酔っていた。勝ち目のない、あったとしても針に糸を連続して通すような勝率だったというのに。
理由なく勝てると確信していた。
「倒して。それで?」
片腕で小石を取る事は出来ない。専用の符を巻いた石なのだから取れるはずもないだろう。
勿論それは希望的観測だったし取ろうと思えば手段は幾らでもあったのだが。
彼女は手段をとらなかった。理由は今でもわからない。もし聞けばどんな答えが返ってきてくれるのだろうか。
「僕の物にする」
恥ずかしい。顔から火が出るような言葉で、感情だ。当時の僕は一体何を考えていたのだろう。若さから来る勢いに任せてしまった感が否めない。
だがそんな青い言葉に彼女は。
「……この里の人たちと随分違うのね」
花が咲いた。小さく口元を動かしただけだが、確かに彼女は微笑んだのだ。
意識を奪われるような愚は二度も起せなかった。だから、駆けた。
天狗組手の三『疾風騒葉』。現在の狭間流『水面揺葉』と呼ぶ原型となる技。
「彼女の技はもう効かないわ」
風に揺らめく木の葉の如く動き相手を翻弄する技だ。足運びの一種と言ってもいいが、天狗組手の場合は目にも留まらぬように動く。
だが僕の場合にそれは不可能。そんな動きが人間に再現できるわけがない。故に、僕は人間の動きで可能なように調節する。
「それはどうでしょうか!」
水面に揺らめく木の葉の如く。疾駆の後、一気に身を屈める。それを見る彼女の足が僕の顎を打ち抜く寸前に腕を交差させその足をそのまま上へと押し上げる。
彼女の体勢を崩しもう一度地に付ける事は叶わないだろう。それは理解している。
だから。
押し上げた足を捕らえ、自分の身ごと捻り、そのまま体重を乗せて本来関節の動かない方向へと投げ飛ばす。
「貴方用にしたのね」
木に亀裂が入る衝撃を受けて、彼女は何の痛みも感じていないのか平常の如き声を出す。
彼女は今の技を強引に振り払う事が出来たはずだ。けれどそれをしなかった。
結果は、打楽器でも叩くかのようにあっさりと折れた足が彼女の気持ちを証明しているのかもしれない。
「どう、ですか」
片足は折れ、片腕は動かない。こちらの代償は、しかしそれ以上に大きい。
指はひしゃげ、投げ飛ばされる際に放たれた蹴りによって肩が半分千切れかけていた。一瞬の合間にこちらの肩を引きちぎる程の蹴撃。もしも彼女が本気だったのならば、最初の一撃で勝負は決まっていたのだろう。そして、もし彼女の五体が完璧だったのならこれ程の手加減を受けても僕は勝利の糸を見る事は出来なかったはずだ。
「悪くないよ」
言って彼女は肩を動かして腕をこちらへと向ける。
「でも、まだ弱いね。この里で一番弱い」
向けられた手の意図を僕は理解できていない。愚かな僕だ。彼女がこんなのにも歩み寄ってくれたというのに。
更に彼女は、小さく微笑む。
「だから。君を護ってあげる。その間に君は私を護れるようなってね」
その言葉でようやく僕は理解できたのだ。彼女が僕の告白を受け入れてくれた事に。
「……随分とあっさりとしていますね」
「記憶の中だからね。実際はもう少し長く攻防を続けたような気もするよ。負傷度もこちらは、右足は折れていたし首を刎ねられる所だったかな」
それは、凄絶だ。話を聞く限りだと綺麗なものだと思うのだけれど。予想外なのは彼女の性格でしょうね。
もう少し他者を拒絶するかのような印象があったのですけれど。
「その後は、傷を癒して里へ挨拶回りのような事をした。他の皆は驚いていたよ。まさか僕が彼女を射止めるとは思っていなかったようでね。……成功が二人で他は失敗に賭けていたらしい」
話を聞く限りだと、妥当な気はしますけれどね。前に一度会ったきりで、その時の印象も相手にとっては薄いものだったでしょうに。
実際勝てたのは相手の手加減があったからで、でもならば。
「何が決め手になったのでしょうね」
不意によぎる疑問ですが、なんとなくわかる気もします。相手は付喪神で人ではないのですが。それでも同じ女である以上は、理解できる気もするのです。
「さて。結局最後の最後まではぐらかされてしまってね、わからず仕舞いさ」
あの少ない会話の中で言うなら「僕の物にする」という言葉なのだと思うのですが、ね。
本人もそうだと考えてはいるのでしょうけれど、しかし、と思うのもわかります。その言葉程度で落とせるような女性だったのか。
「だが結果としてそうなってね。それから確か、何年後だったかな。確かまだ僕は十七くらいの時だったと思うが」
「話を聞く限りだと傷が治ってすぐあたりではありませんか?」
十四歳の時に敗北し数年の間に修行をして。一年やそこらで強くなれるとは思わないのでおそらく三年、もしくはそれ以上だと思うのですが。十七。私が現在二十四で、この人は確か三十四ぐらいでしたか。当時の私は七歳、という所ですね。
「そうだったかな。その時に里を抜けたんだ。皆に挨拶をしようとしたんだが彼女に止められてね。いや、追いつかれそうになった時は肝を冷やしたよ」
里抜けにどういう意味があるのかはおぼろげながらにわかります。
それに壊さなかった付喪神というのが引っかかりますね。
「ですが無事、逃げる事は出来たのですね」
「うん。死ぬかと思ったけれどね。どうにも聞いた話だが彼女の存在が問題だったようでね、実際すぐわかったよ。彼女の特異な力に魅せられて集まる魍魎が多かった。和洋折衷。しばらくの間はそれらを潜り抜ける事に必死だったね」
三種類の力を持つ存在。それがどういう物なのか、彼の話だけで理解できる。
多くの妖物にとってそれはとても美味しい物か、珍味のように見えた事でしょうね。
「それは、また。どうやってそれから逃れる事が出来たのですか?」
少しだけ巫女として気になる部分ですね。何が寄ってくるかもわからない力を撒き散らし、寄ってきた存在を撃退する。
先に待っているのは最悪の結末だと思うのですが。
「うん。……たまたま、だね。考えなしの子供だった僕と、世間知らずの彼女が、君の母親と出会ったのは」
心臓が大きく鐘を打つ。どこで出会ったのかわからなかったけれど、この時。でも確かにこの時ほど相応しい出会いはないかもしれない。




