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ズム!ズム!ズム! ~常時常速のニヒリズム~  作者: 田爪和成
01:とある少年の日常風景(ルーチンワーク)
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妹の部屋を後にし一階にまで降りてきたのは先にも言ったこの家に住むもう一人の人物を起こすためである。


彼女はわりと簡単に起こせた方ではあるがこれから惟太が起こす人物は妹ほど楽にはいかない。だがそれは寝相が悪く起こしにくい意味での楽ではなく……。


「………」


彼はそれを目撃し言葉を失。惟太の眼前には……廊下の上で無様に“人が倒れている”光景が。


色気もなにもあったものじゃない赤色の地味なジャージ姿でうつ伏せな状態で倒れているのは女性。裾がめくれて背中と横腹が露となっているのが妙にエロかった。


だが倒れている場所が場所だけにそんなエロさよりもヤバさが伝わって来る。強盗現場に続いて今度は殺人現場の一幕にでも踏み入ってしまったのだろうか。


とはいえ再度言うがこの一家に撮影のためのスタッフや機材など無い。しかし実際に女性は倒れている。


では本当に……いや違う。良く見ると僅かに肩が微細に動いており、更に「むにぃ」だの「すぴー」だの随分と間が抜けたかのような浅い呼吸音も聞こえる。


この二つの事実が意味するところは言うまでも無い。


「……母さん」


倒れ伏す女性に惟太はゆっくりと近付くと膝を付きその女性――母親をひっくり返して上半身を腕を使って起こした。


慎重に丁寧に、壊れものを扱うかのような繊細さで。


そうだからというわけではないだろうがうつ伏せから仰向けに返し、上半身を起こしたというのにその女性は未だに目を覚まさなかった。


起こしてみたらはっきりと分かった。この母親、やはり廊下の上で腰と横腹を晒しながら寝込んでいたのである。


改めて彼が起こした彼女の顔を見てみると……確かに妙齢を迎えた女性である事は分かるが随分と可愛らしい顔付きをしている。妹がそのスタイルからセクシー系だとすればこちらはその反対。


体付きも娘と比べるとスレンダー……というよりほとんど女性にあって然るべきものが薄いというか“無い”。150センチに届くか届かないかの非常に小柄な身長の事も合わせてプリティ系


惟太や千愛ほどの年齢をした子供を持っているとなると四十代は迎えていそうなものだが……三十代前半でも通じるかもしれない。


だが……この可愛らしい母親は先の妹とは引けを取らない程に“残念な母”であった。無論こんな所で寝ていただけでも十分にそうなるわけだが加えて口元から流れ出ているものが顕著に示している。


唾液だ。


唾液が口から垂れて彼女の頬から顎を伝っており随分と大きな涎となっている。更にはうつ伏せに寝ていた時に付着していたものだろう。廊下の床ですら唾液で滲んでいた。それもそこそこの量で。


かつその僅かに唾液でコーティングされた寝顔は何か達成感で満ちているかのように幸せそうな表情、耳を澄ますと寝言で「やったぁ」だの「できたぁ」だのといった言葉が聞こえてくるから本当に幸せの気分に浸って寝ているに違いない。


とりえあえず後で雑巾をかけないといけないな、と“自分が廊下に付着した母親の唾液を処理する事を前提”で考えつつ惟太は何も考えず幸せそうに眠っている母親の頬――涎が垂れていない側の方を軽くはたいた。


別に唾液が付いた方は汚いから叩きたかったわけではない、そちらを叩くと母のやや痩せめの頬に唾液がより広く付着してしまうからである。


「母さ~ん、起きてください~、朝ですよ~」


彼の母親に対する態度はまるで自身の幼い娘を扱うようなもので優しさのようなものがあった。少なくとも妹の時とは違い刺々しい物言いはしない。


母親の意識を呼び覚ますべく呼びかけと同時に彼女の頬をペシペシとはたき続ける事続けて数回。


「う、う~ん……ふぁれ、たー……くん?」


彼女――『多田ただ 朱美あけみ』の意識が戻って来た。ごしごしと腕で両目を擦りながらまだ半眼といった感じではあるがしっかりと瞼を開けて息子の姿を視認する。


だが頬と顎にしたたる涎は拭き取る気は無いようだ。まさか気付いていないのかそれとも自覚してなお放置しているのか……。


「はい、僕ですよ母さん。おはよう」

「んぁ~、はあよー」


そして先程から満足に語呂が回っていない。この母親はあの妹以上に寝ぼけが激しいようだ。


だがずっとそのような状態のままにさせておくわけにはいかないので息子たる惟太はそんな彼女を無理矢理にでも引っ張って二本足で立たせる。


「母さん、今日は千愛の入学式ですよ。見に行くって彼女と約束したでしょう?」

「あ~、う~……そうだったぁ、ふむぅ~」

「………」


だめだこりゃ。心底から惟太は通常の方法で母親を覚醒に至らせる事はできないと判断する。ここはこういった状態にある彼女を起こす際に使用している何時もの方法で真に目覚めさせた方がよさそうだ。


そう考え惟太は母親を横抱きに抱えて移動する。小柄で軽い母親を持ち運ぶのは容易い事だった。


「えへ~、たーくんの抱っこ~……」


抱えられた母親は嬉しそうに脱力に脱力を重ねたようなふにゃけた笑顔で嬉しそうに惟太の胸元に顔をうずめた。


寝ぼけによるダメっぷりもここまで来ると呆れを通り越して感動ものである。


(全く、今日も母さんはダメダメで可愛いよ)


実際に感動している男がここにひとり。表情こそ変わらないが内心では彼女が自身の胸元に顔をうずめて来てくれた事にうっとりとしてしまう。


それにより朱美の涎、唾液が自身の服装にべっとりと付着してしまったが……そんな事はこの感動の前では些細な事である。


……寧ろ“嬉しい”とすら思う。


「ほら、ここに座って」


朝から母子による珍妙で奇天烈なスキンシップの光景を経て惟太は彼女をこの一家のダイニングルームまで運んだ。


そこにあるテーブルの椅子を引いてそこに彼女を少々“名残り惜しいと感じる気持ちを持ちつつも”座らせる。


座らせた途端にテーブルの上に頭を突っ伏す彼女。まだ眠るつもりだろうか、そうった部分が残念ながらも可愛いものではあるが今日という今日はしっかりとして貰わないと妹が困ってしまう。


それに全員が全員がそうだとは言わないが女性は身だしなみに時間がかかるもの。それを考えたらさっさと起こさないと時間が危うくなる。


急いで彼女を完全に起こすための準備を進めよう。惟太は部屋の奥にあるキッチンへと向かい冷蔵庫から1リットル入りの牛乳パックを、そして食器棚からプラスチック製のコップをそれぞれ取り出すとパックから加熱殺菌された乳白色の液体をなみなみとコップの中へと注ぐ。


「ほら、牛乳だよ母さん。飲んで下さい」


早速それを母親の前のテーブルの上に、そしてそのコップにキッチンから持ってきたストローも入れておく。


「ん、ふぁりがと……」


目の前に置かれた牛乳入りのコップを彼女は持ち上げるのではなく引きずるようにテーブルの上に預けてある頭部の付近まで運ぶと惟太が入れてくれたストローを曲げて先端を口に含んだ。


後はそのまま息を吸うように吸引するだけ、後はストローの細い道を通って牛乳が勝手に彼女の口の中に注がれていく。


ひとまず母親はこれでいい、これで起こすべき二人を起こす事はできた。だが彼にはやるべき事がまだある。


それは朝食を作る事、現在この家にいるのは惟太と含め先の妹とこの母親合わせて三人。男ひとりと女ふたりという計算だがこの一家における食事担当――少なくとも朝食担当はほぼ毎日惟太が担当している。


女二人とも料理が完全に出来ないというわけではないが両者ともに朝に弱いので必然とこうなった。


「ベーコンエッグが出来るかな……良し」


再びキッチンへと戻った惟太はパジャマの袖をめくりフックに下げてあったエプロンを取り付けてその用意を行う。


冷蔵庫をまた開けて中からパックに入ったベーコンと卵を数個、そしてアスパラガス数本を取り出した。


それらを調理するためにフライパンを収納ペースから取り出しその上に油を引きクッキングヒーターの上に乗せ電源スイッチをオン、いざ加熱しよう……としたその直前。





「げぇ! な、なにこれぇっ!?」





ふと、廊下からけたたましい悲鳴じみた叫び声。


一体誰の、とは考えるまでもない。ダイニングルームには惟太と朱美の二人がいて残りはあの妹だけだ。


何よりこんなビリビリと家を揺らすような声を出す事が出来るのは彼女の他においていない。


「た、たっちゃんたっちゃん! な、なんか廊下にベタベタがベタベタ! ベタベタが足に引っ付いたぁ!」

「………」


部屋で見た新品の純白のブレザーとスカートを着込み、そして寝ぐせが酷かった髪をとかし終えたようでサラサラなショートヘアの前髪をヘアピンで纏めているという如何にも女子学生といった姿でここダイニングルームにドカドカと激しい足音をたててやって来た千愛。


兄から見ても妹の晴れ姿はなかなかにお似合いだと思う。まあ彼女は何を着てもこの場にいる小柄な母親とは正反対にスタイルが良いから栄えるのだが。


しかし顔を真っ青にしつつスカートを着込んでいるというのにそんな事を知った事ではないとばかりに手で足を掴み大胆にも足を持ちあげてその裏を惟太に見せる行為は如何かと思う。先のような下着は見えずとも太ももが丸見えではないか。


元気なのは良いがせめて一端の乙女として最低限の“慎み”、もしくは人並の“恥じらい”くらいは持って欲しいものだ。今日から彼女は自分と同じ学校に通う“高校生”となるのだから。


今日より千愛は国が定めた小学校から中学校までの九年間にわたる義務教育から卒業し、これからは己の意思で校門をくぐり学問を学び始める。


自らが選んで決めた分、相応の責任と自覚を持って新たな学び舎で過ごしていくのが高校生としてあるべき姿だと……まあ要するに兄として妹には高校生にクラスアップする分、“大人”になって欲しいと願うのだ。


今後は少しでも改善される事を願いつつ……話は逸れてしまったがここはさっさとその彼女が踏みつけてしまった“ベタベタ”の正体を明かしてやるとしよう。


「落ち付け、それは母さんの涎で害は無いから」

「よ、涎ぇ!? ちょ、あっちゃん!? なんで廊下に涎とか流しちゃってるのー!?」

「あ、あぅ……ごめんねちーちゃん、ちょっと母さん、寝ぼけちゃってて……昨日、ほぼ徹夜で作業してたから……」


牛乳を飲んだ事により意識がしっかりとして来たようでここでようやく惟太、千愛と続いてこの一家の中において年長者であり二人の母親である朱美が真に目を覚ました。


目が覚めた事で廊下に唾液を流してしまった事をしっかりと自覚し、そしてそれを踏んでしまった娘に対しただでさえ小さな体を小さくして謝る母親。


より縮こまってもはやリス、あるいハムスターのような小動物と化した母親の姿を前に惟太は加熱し油を引いたフライパンの上で卵とベーコンを焼きながらジッとその姿を見つめる。


(……最高)


正直に言ってしまえば萌えていた。


今のように料理をしていないものならば、そして妹の前でなければ「抱きしめたいな、母さん」と言って本当に抱きしめたく思う程に。


湧きあがる衝動を自らの精神力で抑えつつ今は料理に集中。母をゆっくりじっくり愛でるのは後で幾らでも出来るのだから。


「ちーちゃん、料理を食べる気があるのなら早く食パンを焼きなさい」

「う~……お風呂場で足を洗っておきたいんだけど」

「……分かったよ。僕が焼いておく、ただし被害を広くしないように片足で行くように」

「ありがとたっちゃん! よっと……」


兄の言葉を聞き入れた妹は片足でぴょんぴょんと跳ねるようにこの部屋から立ち去る。


片足となればその分体重がそこに集中するので先より余計に物音が大きい。


先のドカドカどころではすまない、言うなればドスンドスンというような重々しい音をたてて彼女は風呂場へと向かう。


「うぅ、恥ずかしい……早く拭いておかないと、雑巾はどこかなたーくん?」

「む……」


食パンをトースターに入れたところで本当は自分が処理する予定だったのものを当の本人、朱美が始末すると言いだした。


彼女が言う事は正しい、自分の不始末は自分で片をつける。至極単純で当然の事である。


「たーくん?」

「……トイレ隣の物入れに入っていると思います。ひとりで出来ますか?」


暫しの沈黙の後、彼は雑巾の在り処を彼女に伝えた。


廊下を軽く雑巾で拭く程度の事をひとりで出来るのかと問いながら。


「そ、それくらい出来るよ! わたしだって、その……“お母さん”なんだから!」


この気が弱そうな母親も息子のその言葉の前には若干憤慨したようである。小学生にだって出来る事なのに彼は自分より遥かに歳が上で、かつ母親相手にその小学生がひとりで出来て当然の事を真顔で問いたのだから当然かもしれない。


椅子から立ち上がり“ぷんすか”という擬声語がぴったりとくる感じで頬を赤らめて膨らませる。怒ってはいるのだろうが迫力がまるで足りない、というより寧ろ可愛い。


怒った顔もたまらないな、と実際にそんな母を前にした息子はその可愛い怒りを受けて静かに悶絶している始末だ。


「見ててよね!」と最後にそれだけを言い残して朱美はここから出て行こうとした……が、なんと勢い余って立ち上がった際に椅子に足をぶつけてしまい転んでしまった。


それも顔から勢いよく、倒れた途端に「ぶへっ!」とくぐもった声を出してしまうその姿はもう狙っているんじゃないかと思いたくなる。


「……大丈夫ですか?」

「ら、らいしょうふ……!」


鼻を押さえ目尻に光るものを浮かべつつ潰れた蛙のような声を出しながら彼女はゆらゆらと体を揺らしつつ娘を追うように姿を消した。


床に鼻を打ったようではあるが鼻血は奇跡的にも出る事は無かったようである。


……少し残念だな、と彼は思った。涙目になりながら鼻血を流して痛みに悶える可愛い母の姿を少々見てみたかったのだ。


そしてそんな鼻血を流して泣いている彼女を自分が甲斐甲斐しく……とそこまで妄想にふけっていたところで。


(っと、焼けた焼けた)


料理が完成した。アスパラガス入りのベーコンエッグ。


ヒーターの加熱を止めて皿に盛り付け、更にトースターの中に入れておき焼き上がった食パンも別の皿に置いておく。


後は昨日のうちに簡単に作っておいたトマトやキャベツが入ったサラダを冷蔵庫から、ついでにそれに使うドレッシングとオレンジジュースが入ったペットボトル、パンに塗るマーガリンの計三つと共に取り出しテーブルに並べる。


これで妹の分は完成。今日はひとまず彼女の分を優先して作っておいた。母と自分の分はひとまず後で作ればいい。


「ん?」


と、丁度妹の分の料理が出来たところで廊下から「きゃーっ!」といった悲鳴と何かが倒れる音。


そして「うわっ! こ、今度は水ぅっ!? 何をしているのあっちゃーんっ!」という別の人物による悲鳴が。


「………」


どうやら自分がやるべき仕事が増えてしまったようである。


その事を静かに彼は自覚しつつ、その仕事を片付けるべく廊下へと向かって行った。

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