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【2027年――宮崎県 『海上都市:おのごろ』 第四経済ブロック『いきの』】
空は暗い、深夜――全天が闇のとばりが降りた時間帯。
人はその闇を科学を以って払った。それが人が住む大きな街ともなればまばゆい地の太陽の如き光を発して全方から迫る闇を押し返す。
逆に言えば人が無き場所にはそのような光は生まれない、まして海の上ならば――当然だ。人は海では生活できないのだから。
だがここは、ここだけは違う。ここは海の上でありながら幾多もの人が住まい幾多もの光を以って闇を払う。
ここは『海上都市:おのごろ』――宮崎県の日向灘に浮かれた巨大なマリンフロート。
上空から見て開閉式屋根、無色透明のドームシェルターに覆われた巨大なブロック群が正六角形を形成するかのように置かれて六つ。更にそれらブロック群を統括するかのように中央にある一際に大きいブロックを合わせて計七つのエリアで構成されたこの都市。
これだけの巨大さから世界中の誰もが認める世界一の海上都市。もはや一個の人工島だと称しても相違ないその六つのブロックのひとつ。
ブロックごとに様々な特徴を持つ中、金融や情報といった経済面に特化したブロックエリア。その名は第四経済ブロック『つくしの』。
略称で『経済区』や『第四区』と呼ばれるこのエリア――その中央付近、大小様々なビル建築物が建ち並ぶその中で。
ひとりの女性が息を切らせて走っていた。
服装からしてこの辺りにある会社で働くOLといったところか、激しい動きをする事に適さない服装でありながら彼女はひたすらに夜の海に佇む街の中をつき走る。
彼女以外に動きや音はない、道路を走る車も、バスも、近くにある線路上を走る電車もない――彼女以外の人がいる気配も無い。
おかしい、時間帯が時間帯だとはいえこうまで無動で無音なのはどういう事だ。何故彼女以外に動いているものが何ひとつとして存在しない?
そんな異常性にこの女性は気付いているのかどうかは不明だが走りながらも周りに誰かいないものかと大声を出している。「誰か、助けて!」と……。
彼女は助けを求めていた。もしや痴漢や変質者に追われているとでも……いや、それにしては何か……言葉で言い表すとすれば“度が過ぎている”ように思える。
その声はもはや断末魔に等しく、走りにくいものだったのか靴さえも脱ぎ捨てて狂人じみた相貌でひたすら走る。
道中でコンビニエンストアの建物の前にまで辿り着くと、彼女はそこへ一直線に向かい閉じられた自動ドアのガラスを強く叩く、中に誰かいないかを期待しての事だろう。
だが店内からは決して誰も彼女の助けに応じる者は現れない、何故ならそこには誰もいないから、客ばかりか店員すらもいないのだ。
挙句の果てに自動ドアすらも開かない有様、女性はこのコンビニに助けを求める事を即座に諦めてまた走り出す。
やがて女性はビルとビルの間にある細道に入った。先まで走っていた大通りといえるような大きな道から小さな道へ。
そのように彼女がその小道に逃れて暫く、大通りより新たな影が現れた。
それは確かに動いている。二足で歩いている事が分かる。となるとやはりこの場にいるのは女性だけでは……いや、それは果たして人か?
新たに現れた黒い影、それは人というにはあまりに大き過ぎた。
僅かな光から窺えるその影の大きさ、身長は目測で優に三メートルに達する。
更にその影から聞こえるくぐもった声――これはまさか獣の唸り声なのか、人の声帯でこのような声を出せるはずがない。
それとは別にぽたぽたと、その影が立つアスファルトの地面の上にて何かが落ちてくる音が聞こえる。
見ると粘性が高い液体らしきものがその地面に斑点を生み出すように落ちていた。影がその場に佇んでいる間に更にその斑点は増えていく。
これは唾液……か。
影は口より獣のような唸り声をあげるだけにあらずこれだけの唾液を絶えなく流す。その大きさといいもはや人とは言い難い。
やがて影は先の女性が入り込んだ細道に向けて歩き出す。最初の二、三歩は不気味な足音をたててゆっくりと大通りの道を踏みしめていたが、こで突如として膝を曲げて……。
大跳躍。
尋常ならざる脚力でアスファルトを踏みしめ、常軌を逸した高さまで跳んだ影は一瞬にして細道の左わきにあるビルの屋上にまで着地する。
たった一回のジャンプで影は十数階建てであろうビルの屋上にまで着地したのだ。更に着地したその途端また跳躍――今度は真上にではなく前方に。
その様はまるでコンピュータが造り出した仮想現実を題材とした某有名アクション映画よろしくのワンシーン、ビルとビルとの間を容易く跳び越え、それを連続に繰り返す事で移動するその様。
ただしそれを行っているのはその映画のようなコンピュータの支配に反抗する人間たちとは全く異なる異形の存在、何よりここは彼らが戦うような仮想現実の中ではない。
確かな現実の世界でソレは跳んでいるのだ。重力の枷など容易く振り切るその動きでその異形は建物と建物の間を疾走する。
唸り声と唾液を撒き散らして、獲物を追い掛ける猛獣のように――。
◆
細道に入った女性は相変わらず走り続けている。ひたすら前に、前に……。
だが靴が無い状態での長時間の疾走は足の筋肉に相当の負担をかけたようだ。走行の最中、彼女は道端に落ちていた空カンに足をすくわれ派手に前のめりに倒れる。
膝や腕、顔面をアスファルトの地面の上に強かに打ちつけられた女性はその衝撃でくぐもった声をあげた。
耐えがたい鈍い痛みが女性の痛覚を刺激した事だろう。着込んでいた服、そしてその服に守られていない素肌――特に顔にはこの薄暗さでもはっきりと分かるような傷がつく
頬や鼻、額の皮膚が倒れた拍子に擦られたらしくそこから血が少し滲む、女性の顔にこのような傷が出来てしまうのは痛々しいものがあるがそんな事などおかまいなしだと言わんばかりに女性は必至に足に力を込めて立ち上がろうとした……その時である。
ズン、と重々しい、女性の前方に何かが落ちてきたかのような音がした。そして聞こえる獣のものらしきあの唸り声……。
自らの前方に落ちて来たソレを見た女性はひっ、と息を呑んで満足に立ち上がれていない這いつくばった状態のまま、満足に動けずにいる足だけにあらず腕すらも使い這ってでもソレから逃れようとするが無駄の足掻き。
女性の前に落ちて来た――いや、降りて来た黒いソレは無様な姿でも逃れようとするその女性の足を掴んだ。
悲鳴。
掴まれた女性はソレに掴まれた足を解放しようと必死に体を動かすがまるで意味がない、ソレの腕は女性の渾身の力を前にしても揺るぎもしない。
そればかりかソレは掴んでいた腕を動かして……女性を軽々と“片手で持ちあげた”。
絶叫。
完全に上下逆さまで宙ぶらりんの状態になった女性はあらん限りの、自らの喉で出来る限界の声量で叫ぶ。
そんな叫び散らす。そしてバタバタと暴れて抵抗する女性を掴むソレは表、裏とその女性をくるくると回す。まるで女性を品定めしているかのように。
やがてその品定めが終わったのか、ソレは女性を更に高く、大きく――。
ソレの腕は長い、異様に長い、身長が三メートルもあるというのに肩から伸びる腕の長さはソレの足よりも更に長い。
よって持ち上げた女性を三メートルもあるにも関わらず眼前にまで悠々と持ち上げる。その所為で……女性は見た。
ソレの貌、この異形を語る上でまだ明かされていない頭部――。
それを……彼女は見た。
声らしきものを発しているし唾液を流しているからには当然ながら口があり、そしてそれを持つ頭部があると考えるのは自然の事だがソレの口は……大きく“縦に”裂けるようにあった。
横に広がるようにある人間の口とは全く異なるそのカタチ、またその裂け目は貌の中央付近にまで広がって裂け目の下の方からは絶えず唾液が漏れている。
口臭もした。吐き気を催すような腐臭じみたニオイがその縦裂けの口から発せられ、女性の嗅覚を刺激してそれを狂わせる。
次に語るのは……目、だろう。
このような口をしているからか鼻らしきもの、加えて耳すらも目視できる範囲では見当たらないソレの貌。
だが目は、眼球だけはあった。
額の部分に、“とても大きな眼球がひとつだけ”。
赤褐色に濁った眼球とそれに反するような白濁色をした瞳孔が直ぐ目の前にある。
まとめるとソレは身長が三メートルに達する人型、それだけの大きさでありながら腕が足よりも長く、口は縦に大きく裂けるようにあり(ついでにそこから臭ってくる口臭が鼻が曲がる程にキツく)、鼻が無く目は大きな眼球が額にたったひとつだけ――。
……ここまで言ってしまえばもはやこの存在がどういうものかハッキリと分かる。
全体的に黒くてシリコンのようなのっぺりとした皮膚を持つこの恐ろしくもおぞましい、名状しがたき云々のくだりが付きそうなほどのこの存在は紛れも無く自然界に存在しえないもの。
古今東西、世界中に存在する様々な民族がいにしえの時代より想像して創造された神話伝承の中においてのみ存在しえるもの。
それは人外。
それは異形。
それは魍魎。
それは怪物。
それは悪魔。
それは……もはや人ではない、生き物ですらない。
化物……!
そう。これは化物だ。この世に存在しえない架空の、人々の頭の中でしか存在しないはずのモンスターだ。
空想、妄想、奇想、予想、夢想、仮想、幻想の上でしか在りえない化物がこの現実の世界に現れた。そして現れた化物はこうして現実に生きる人間を捕え、如何なる行為を行おうとするのか。
その答えは直ぐに分かった。縦に裂かれたようにある化物の口が大きく開いたのだ。そして開かれた口の奥より先端のみが赤く硬そうで鋭い、その他はピンク色をして柔軟な何本もの細い肉で出来た突出物……“触手”が現れた。
口から現れた数本の触手はウネウネと蠢きつつゆっくりと、しかし確実に捕えられた女性へと向かっている。
状況からしてこの化物が女性に対して、人間に対して行おうとしているのは明白だ。
そう。それこそ幾多の化物が跋扈する神話伝承の、空想の世界にて存在する化物が人間に対して行おうとする事とまるで同じ。
神話伝承における化物は人間を襲い、喰らう――。
そう。この化物は女性を喰らおうとしているのだ。口から現れた柔軟でありかつ鋭い触手は女性の肉を刺し抉るためのものか。
触手が狙う先には女性の顔……もはや彼女は暴れる事も叫ぶ事すらもしない。
涙を流しつつもハイライトが消えて焦点が合わず瞬きすらしなくなった虚ろ気な瞳。
目の前に現れた化物のおぞましき全貌を直視してしまった事ゆえの弊害か、彼女は正気を失ってしまったようだ。
そればかりか彼女の顔に涙とは別の液体――生々しい芳香臭が僅かにするその液体は尿だ。それが股間から伝わって彼女の顔に流れてくる。
恐怖のあまり正気を失い失禁してしまったのか、しかし彼女はその事に気付いている様子さえない、自身が自身の尿で汚されている事にもさえ……。
もっとも、そんな女性の状態など知った事かと言わんばかりに化物は触手を伸ばしてくる。そしてやがて一本の触手がピタリと女性の頬に触れる。
その直後、触手を伸ばしていた化物の顔が“吹き飛んだ”――。
◆
――見つけた。仲間からの報告通りヤツは女性を追っているらしい。
それにしてもご自慢の“対策”を使用していながら一般人を巻き込む事になるなんてかなり不味い事にならないだろうか?
まあ現実にこれが起こってしまったものならばそれにグチグチと言ったところで仕方が無い、それよりも今は自分の役目を果たすのが先決だ。
……そう思いながら怪物と女性がいる地点より数メートルほど離れた物影にて。
女性と怪物以外はなにひとつとして存在しないと思われていたこの空間の中、そこに身を潜めて女性と怪物の様子を窺う第三者がいた。
身を潜めているのは怪物とは異なるようだ。人間……しかし恰好がかなりおかしい。
周りの闇に溶け込むように黒色を基調とした配色の――ボディアーマー、とでもいうべきか。
ただし軍事組織における軍人が着用するそれ、主に上半身のみを防御する事に懸念を置いたチョッキやベストタイプのものではなくそれはまるでスーツのように全身を覆っている。
特に首周りや肩、胴体にはそれぞれの部位を守るように堅牢なプロテクターが取り付けられ。手にも手首にプロテクターが付いたグローブを装着。更に足を見るとハードブーツらしきものを履いているのが分かる。
総合して……いやするまでもないがとにかく通常の服装とは遠くかけ離れたその恰好。
まるで鎧、だがそれらはどう見ても金属製ではなく特殊繊維や特殊素材で織られ造られたものだろう。
一体そんな恰好をするとは誰なのかと顔を確認しようにもその人物は頭部に顔全体を覆い隠すフルフェイスタイプのヘルメットを装着していた。
しかしそれもまた服装と同様に見た事がないタイプのヘルメット、特徴としては目元を守りかつ視界を確保するバイザーの部分がやけに大きく広く、通常のヘルメットよりも視界の幅が広そうだ。
全身に渡って素肌を晒している場所が全くない。さながらSF映画(もしくはアニメ、ゲーム)に出て来る兵士の如き姿恰好をしているのが分かることだろう。
「こちら『ポッキー』、目標を発見、報告通り目標は『サイクロプス』……はい、では予定通り『キノコ』が先制、その後は二人が突撃の算段で」
声がした。
物影に潜む人物から、ヘルメットの内側から僅かに聞こえる小声――。
男の、いや……少年の声だろうか。ヘルメットのおかげで容姿がまるで分からない事から声からこの人物の正体を想像する他ない。
声の質から男だという事にしておくとして、それにしても彼は誰かと話しているかのようだが当然彼の周りには誰もいない。
だが何もない虚空に向かって話し込むような精神病を患っているわけでも……。
まして常時脳内にて機関との闘争に明け暮れ、白衣を着込み世界線を跨ぐ自称マッドサイエンティストのような厨二病を患っているわけでもない。
彼は通信しているのだ。ヘルメットに搭載された機能のひとつを使い、ここから遠く離れた場所にいる仲間に言葉を送っている。
「キノコ、攻撃許可が下りました。タイミングは……そうですね、あの餌に完全に気を取られた瞬間を狙って足を狙ってください」
自らを『ポッキー』と称した少年はヘルメットの通信機能を使い仲間――『キノコ』に攻撃の許可が下りた事と同時に狙うべき攻撃部位を告げた。
直後にそのキノコからの返答が返ってくるも……。
「……は、ヘッドショット? アホですか、あなたがいる地点からでは……っ!」
返ってきた答えは彼の指示を聞かず。それに対してポッキーは馬鹿にするかのような口調でキノコを咎めるものの、途端に彼はヘルメットの側面――耳がある場所を手で押さえつつ横にのけぞる。
側面に備えられた小型ながらも高性能のスピーカーからキノコが発したものであろう大音量の抗議の声が発せられてそれを聞いた……聞いてしまった彼の聴覚がキーン、と響く。
「あ~、分かりました。分かりましたから叫ばないで下さい……はい、許可します。ですが外したらあなたご自慢の胸を体から引っぺがしてペッタンコにしてあげますからそのつもりで、では」
最後の最後に物騒なようで卑猥なようでやはり物騒な事を言いながら渋々と彼は同意しキノコとの通信を切ると続けて彼は別の仲間に通信を繋げる。
「『タケノコ』、そして『カキピー』……準備はよろしいですか? 確認しておきますがキノコが目標に先制、その後順次に突撃の算段です。よろしいですね?」
今度は二人同時に通信を送る。『タケノコ』と『カキピー』というらしい。
……彼のポッキーという名と先の通信相手のキノコという名、そして今度のタケノコとカキピーという名。
どれもこれもどう考えても本名ではないのは当たり前、コードネームもしくはコールサインのようなものだろうが……。
「……はい、お願いします。特にタケノコは真っ先に女性を捕えている目標の腕を狙い彼女の解放兼救助を、おもいっきりやっちゃって下さい、では……」
ともかくその二名はキノコと違い、ポッキーの指示を素直に聞きいれた事で特にこれといった弊害なく通信を終える。
最後にポッキーは今まで通信を繋げた三名に加えて、この場にいる全ての仲間たちに向けて通信を開く。
高らかに宣言するかのように、宣戦を布告するかのように、彼はその言葉を告げる。
「状況開始……っ!」
直後、ヘルメットのスピーカーから雷鳴じみた火薬のものらしき炸裂音が鳴り響く。
それが合図、開戦を告げる音。
戦いが、化物と人との戦いが。モンスターとハンターたちとの戦いが始まった――。