ライトな人体実験 5
「…であるからして、虚数の概念とは……」
六時間目、本日最後の授業で、数学教師の松原の声が教室にこだまする中、文香は授業そっちのけで魔族関係の文献を読み続けていた。
今日試すのは、一番材料が手近にあったもので、有島にさえ協力してもらえれば、すぐに作れるものだった。効果も、人間の体に直接害を及ぼすものではなく、効果時間も短い。
(…材料は、鉄粉、レモングラス、岩塩、砂糖、赤唐辛子…こんなものでよいのだろうか)
科学的に見れば、意味不明な品目の羅列に過ぎない。それでも、魔族の魔力を充填することによって、きちんと特定の事象を発生させるものとなると書かれている。
救世の理がこんなことを実際にやっていたのかどうかは謎だが、試してみる価値はあると思う。少なくとも、彼らについて何も知らないより、何か知っていた方が後々役に立つだろうことは明らかだと文香は考えていた。
魔族の力を用いて、犯罪行為を行っているカルト教団、救世の理。ほとんど表社会では認知されず、裏社会の人間でも、内情に通じている人間はそう多くない。
しかし、文香は表社会の人間にもかかわらず、ある程度の事情は知っていた。魔族や契約主もしくはそれに準じる類の知り合いがいる以上、文香もそれなりの情報を得ることができていたからだ。霧矢をはじめとして、霜華や雨野、そして、塩沢といった人脈はわりとある方だ。
少なくとも、文香は契約主ではなく、ましてや、霧矢のように反則級の魔力を保持しているわけではない。つまり、霧矢や霜華のように救世の理に直接狙われているわけではなかった。ただ、知り合いが狙われている以上、文香もそれなりに関与しておきたいと思っていた。
「木村、いいか? この問題、黒板に解いてくれ」
ずっとノートもとらずに下を向いている文香に苛立ったのか、松原が文香に問いを投げかけてくる。まったく初見の問題だったが、解法は予習ですでに押さえてあった。つかつかと黒板の前に立つと、公式に適当に当てはめ、チョークを動かしていく。
「……正解だ」
不服そうな口調で松原はつぶやく。文香は面倒くさそうに自分の席に戻ると、教科書を脇に置き、再び魔法薬の本を読み始めた。
「……木村、どうしてお前はこういう解き方をしたのか、説明しろ」
普通の生徒相手であれば、絶対にこんな質問をすることはない。文香は面倒くさそうに顔を上げると、ノートを開く。
「…二乗するとマイナス一になるという特性を持っている以上、先に、次数が奇数になるものと偶数になるものと分け、それによって……」
単に公式を用いた基礎問題に過ぎず、説明する方が逆にナンセンスなのだが、文香は仕方なく、つらつらと述べていく。松原は文香に説教できず不機嫌だったが、文香の説明は完璧だった。仕方なく、文香を放置して、次の問題に移っていく。
「それでは、参考書の十五ページを開け。判別式と根号についてだか……」
文香はすでに予習で完璧に要所を押さえているため、説明など聞く必要もなかった。適当に松原の説明を聞き流し、ノートに魔法薬の本の要約を書き込んでいく。
「それでは、今日はここまで。各自しっかりと復習しておくように」
チャイムが鳴り、松原は教室から出ていく。待ちに待った放課後になり、文香は勇み足で教室から出て、化学教室へ向かう。
有島には昼休みのうちにすでに了解を取り付けてあり、調合が終わり次第、魔力の充填に協力してもらえることになっていた。
ガラリと勢いよく、化学教室のドアを開けると、文香は白衣に着替える。ビーカーを取り出し、持参してきた材料を机の上に並べていく。
調合法の本を開き、書かれた通りに材料を混ぜ合わせていく。もう少しで完成するというところで文香のポケットが振動した。
携帯電話のディスプレイには、上川晴代とある。文香は水を差されて不機嫌になりながらも、電話に出た。
「もしもし、何の用だ」
「ねえ、文香。やっぱり、朝話していた薬、作る気なの?」
文香は「愚問だ」と一言だけ言うと、電話を切る。そのまま電源も切った。
本の指示通り、混ぜ合わせた液体をバーナーで加熱していく。科学的には何の意味も持たない謎な液体が沸騰し、ボコボコと泡を立てていく。色は濁った灰色をしていて、飲み薬としては非常に不適切な外見をしていた。誰だってこんな液体を飲みたいとは思わないだろう。
再び本を見ると、加熱したものを再び冷まし、そこに火、あるいは光の魔力を充填すると書かれていた。準備室にある冷蔵庫の中から氷を勝手に拝借し、ビーカーを冷水の中に入れる。文香は高鳴る胸を押さえて、ひたすら薬液が冷えていくのを待った。
冷えるのを待つ間、雪が降りしきる外を文香は眺めていた。
今年は例年よりも積雪量が多めの年だ。そのため、スキー場も例年よりも早くオープンし、電車が止まることも多かった。
考えてみれば、文香が魔族について関わりを持つきっかけになったのが、今年の豪雪であったとも言えるのかもしれない。例年ならば、生徒会メンバーだけでもなんとかなるクリスマスツリーの飾りつけが、豪雪のせいで難しくなり、その結果、助っ人として文香が呼ばれることになった。そして、その飾り付けを通じて、文香は霜華や有島と知り合い、また、そのことをきっかけとして塩沢雅史という裏社会の人間との接点もできていった。
そう考えると、何が人生において物事のきっかけになるかは、非常に興味深いとも思える。何の気なしにした行動が、後々になって、予期せぬ意味を持ってくることもあるのだから。そして、それが、自分にもいろいろな影響を与えていくのだから、人との出会いとは面白いものだとつくづく思っていた。
(そろそろ冷えただろう。これを副会長のところへ持っていけば……)
常温に戻った液体の入ったビーカーを持ち上げると、文香は生徒会室に向かって歩き出した。