答えは存在するのか 1
霧矢は動けなかった。西村の目は霧矢の顔をまっすぐ見据えている。
「それは…その…」
答えあぐねている霧矢に、西村は霧矢の右の腰部を指さした。霧矢は一歩引く。
「お前が、頑なに人に向かってその力砲を使わないのは理由があったはずだよな。殺しをよしとするなら、会長と訓練する必要もない。その得物で敵を撃てばいい」
霧矢は奥歯をかみしめる。しかし、西村は畳み掛けるように続ける。
「聞いた話によれば、東京で、お前は塩沢に敵を殺すことを思いとどまらせた。自分に特に損になることでもないのに、危険を承知で麻薬犯人を殺さずに生け捕りにさせた」
西村は低い声で言い放つ。
「そこには、お前なりの妥協を許さない信念、正義があったんじゃないのか?」
霧矢は言い返せなかった。西村は答えられない霧矢にそれ以上追及しなかった。
「俺は、中里のそばに居続ける。上川が苦しむことになったら、同じように助ける。連中が俺たちに何かしてきたら、それが間違ってるって言い続ける。連中が暴力に訴えたら、俺も応じる用意がある。人を救うため、それくらいの覚悟はある」
西村は早口でそうまくしたてた。そして覚悟を持っているということは霧矢にもわかった。
「さて、そろそろホームルームだ。行くぞ」
「ああ……」
つかつかと西村は歩き去ったが、霧矢はのろのろとしか歩けなかった。
*
(うわあ……何なのかなあ、この視線……)
一方で、一年三組の教室に入った晴代は困惑していた。というのも、彼女に向けられている視線は普通のものではなかったからだ。覚悟していなかったわけではないが、今日の朝っぱらからこれというのは、いくらなんでも、予想外としか言いようがなかった。
周囲からの視線に気まずい思いを感じながらも、晴代は自分の席に着いた。しかし、ここで晴代の精神に更なるダメージを与えるものが出現してしまう。
(…紙? 何であたしの机の中に…?)
折りたたまれていた紙を開いてみると、晴代は硬直してしまう。紙面に目が釘付けになり、手の震えを止めることができなかった。
(…こ、これは……そ、そんな……)
晴代はその紙を再び折りたたむと、目にもとまらぬ速さでスカートのポケットに突っ込んだ。
「ねえ、バカじゃないなら、わかるでしょ。私たちが何を期待してるのか」
後ろから肩を叩かれたが、晴代は振り向くことができなかった。声から誰が後ろにいるのかは大体わかっているが、それ故に、晴代は恐怖せずにはいられなかった。
「まあ、期待してるわ。私たちの期待に応えられるかどうかは、あなた次第だけど」
つかつかと歩き去る足跡だけが、晴代の耳に入ってきていた。何か言おうと口をパクパクさせていたが、それを果たす前に、担任が教室に入ってきた。
「それじゃ、ホームルームを始めるので、席に着いてください。みなさんおはようございます」
*
いつもならば、空腹と葛藤し続ける四限だが、今日はまったくと言っていいほど、霧矢は空腹感を感じていなかった。空腹感を感じない反面、集中力も失せており、授業の内容は右耳から左耳へと抜け続け、上の空で天井の蛍光灯を眺めているだけだった。
「……あり、おり、侍り、いまそかり、などの動詞の活用は四段活用とは異なります。三条君、これらの動詞の活用の種類のことを何というか、覚えていますか?」
それなりに若い女性教員が質問するが、霧矢は上の空だった。
「……僕は…あれをいつか妥協するのか…?」
「三条君! 聞いていますか?」
少し大きめの声を出した、古典教師の声が霧矢の鼓膜を震わせ、ようやく霧矢は我に返った。
「…すみません。もう一度お願いします」
呆れたような苛立ち混じりの声で、彼女はもう一度霧矢に問いかける。霧矢は三秒ほどかけて頭の引き出しを開け、答えを探し出した。
「ラ行変格活用…で、よかったですっけ…?」
「合っていますが、話はちゃんと聞いていなさい。テストも近いんですから。じゃあ、次、篠原さん、五行目から読んでください」
教室内にぎこちなく古文を読み上げる声が流れる。普段なら頭で意味を追うところだが、今日はそんな気は起きず、教科書の挿絵から目は動かなかった。
敵を殺さないとするスタンスは、霧矢の信念と言ってもいい。自分としては外部からの人間の圧力によって妥協を許すつもりはない。霜華と風華が殺しをよしとする考えにシフトしたのならば、また少し話が違ってくるが、基本的にそのスタンスを変更することはない。
しかし、三条霧矢はいつかそれに対して妥協するかしないかを迫られる事態に遭遇することもあるだろう。塩沢など他人が自分の意志で殺人を行うのはいい気持ちはしないし、できるだけ止めに入るが、まだ心の中では許容の余地がある。しかし、自分が誰かを殺したのなら、きっと自分は自分自身に絶望するだろう。それがどれほどのショックになるのかはわからないが、自分に対して明らかに害悪をなすということは予想がつく。
西村の、明らかな不正に対して譲歩しないというスタンスも今のところ彼なりの妥協を許すつもりのない信念だろう。それを守れなければ、自分に対して絶望するかもしれない。そして、彼の信念は、原理としては客観的に見ても間違いとは言い切れない。
西村の根本をなす信念は、ただちに霧矢の信念と相反しているわけではない。だから、霧矢が自分の信念をかけて、彼の信念を妨害する必要もなく、俗にいう、己の誇りをかけた戦いというものをする必要はどこにもない。
ただ、今回の時雨のようなケースでは、彼がよしとするような短絡的な勧善懲悪のやり方では上手くいかないと霧矢はわかっている。
道徳を徹底的に追求した末に全員が不幸になるのと、多少の不正を容認した末に一部の人間であっても、ほんの少しであっても幸福を得られるのなら、霧矢は後者を取る。
霧矢にとっての「正義」と、西村の考える「正義」とではきっと中身が違うし、正義をどれくらい激しく追求するかの温度差も異なる。霧矢は多少の不正義があっても、それを正すことによって更なる歪みが生じるのであれば、正義の追求をあきらめるだろうが、西村は違う。
もともと、二人が仲良くなった理由は、同族嫌悪の逆で、お互いが自分にないものを持っていたからだ。霧矢の冷静さは西村にはなく、西村の熱血さは霧矢にはなかった。
霧矢は西村の信念を認めるつもりでいる。しかし、今回のケースではそれはきっとマイナスに作用する。それは好ましくない。
時雨が虐げられている現状が正しくないことは霧矢も西村も同様に考えている。しかし、西村のやり方はやはり過激だ。状況だってまだ正確にわかっているわけではない。
(…何とかして、西村にはわかってもらわないと…)
こうして、四限は説得の方法を考えながら終わっていった。




