ライトな人体実験 2
「ありがとうございました。お大事に」
午後六時を回り、復調園調剤薬局の営業時間も終了した。最後の客が店から出ていくと、霜華と理津子は客の背中に一礼する。
店の鍵をかけ、カーテンを閉めると、霜華は箒を取って、掃除を始めた。理津子は今日の売り上げを帳簿にまとめている。
「そう言えば、霧矢はもう帰ってきたのかしら?」
霧矢の家は、店と家の二つの出入り口がある。霧矢はどちらでも関係なく、その日の気分次第で入ってくるので、家の出入り口を使われた場合、店にいる人間は気付かないことがある。
「…多分帰ってきたと思います。玄関の戸の音が私には聞こえたような気が」
「だったら、掃除が終わったら、夕ご飯作ってもらえるかしら、お昼頃、風ちゃんに夕ご飯のおつかい頼んだから、冷蔵庫に材料があると思うの」
霜華は「わかりました」と答えると、掃除のテンポを上げる。
「…それにしても、最近風邪が流行ってるみたいですね。お客さんもみんな風邪だったし」
「そうねえ。私と霧矢はもう引いちゃったから、免疫ができてるけど、霜ちゃんと風ちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。なんせ、半雪女ですから。こんな薄着でも平気ですしね」
霜華も風華も基本的には薄着で過ごしている。属性の都合上、寒さには非常に強いからだ。その反面、暑さに対する抵抗力は低い。
別に着込んでもいいのだが、二人は目立たなさよりも動きやすさを重視している。基本、ブラウスにスカートという格好でいるため、外を歩くと非常に目立っていた。
「便利よねえ。寒さに強いのはうらやましいわ」
「でも、私、夏になるとすぐバテちゃうんですよ。今はいいですけど、暑くなったら嫌だなあって思いますよう」
霜華の活動可能な気温は、零下は三ケタになっても平気だが、暑いのは三十度ほどが限界だ。それ以上になると、動きが鈍ってくる。
「私は体が弱いから、暑いのも寒いのもダメなのよ。幸いなことに、霧矢は私の体の弱さを受け継がなかったみたいだから、結構タフだけど。特に最近は本当にそう思うわ」
霜華もそれは同意見だった。最近の霧矢のタフさは、目を見張るものがある。毎日、雨野との訓練に励み、満身創痍の状態で帰宅してきても、きちんと学校の予習復習はしっかりするという高校生の鑑となっていた。
「体壊さなきゃいいんですけど。霧君、相当無理してるみたいだし」
「あの子は、普段は無気力だけど、やりだすと止まらなくなるから……」
苦笑いしながら理津子は帳簿をしまう。霜華もごみを捨てると、パンパンと手を払った。店の電気を消すと、霜華は台所へ向かった。
*
下の階からの何やらいい香りが霧矢を目覚めさせた。ゆっくりと霧矢は突っ伏していた顔を上げると、目をこすった。時計に視線を移してみると、いつもの夕食の時間までまだ少しだけあった。
(……数学の大問一つくらいなら、解けるか)
鈍い動作で、カバンから参考書とノートを取り出すと、霧矢はペンを指先で回す。ノートを開くと、霧矢は今日習った公式を使って、宿題を解き始める。
(……ダメだ、よくわからん)
途中まで解き進めて、霧矢の筆は止まる。残念なことに、霧矢は父親から学習の適性に関する遺伝子を受け継いではいなかった。そのため、霧矢の成績はきちんと勉強をしてはいるが、特別良いわけではなく、平均より少しだけ上というレベルに留まっていた。
答えのページをめくってみて、霧矢はなるほどといった感じで納得しながら、再びノートの上に筆を滑らせていく。
(…木村がうらやましいよ。まったく、勉強して、ちゃんと結果が出てるんだから)
霧矢はきちんと頑張ってはいるのだが、残念なことになかなか結果が出ない。少なくとも、勉強に費やしている時間なら、霧矢は西村よりも多い。だが、西村の方が成績はわずかではあるが、上だった。つまり、高率は彼の方が良いということになる。
(今度のテストで負けるわけにはいかない!)
正直、霧矢としても、勉強で西村に負けるのは非常に屈辱的だった。文香に負けるのは仕方ないとしても、心の中では自分よりも格下だと思っている西村にだけは負けるわけにはいかなかった。プライドにかけてでも期末考査では勝たなければならない。
黙々と、問題を解き進めていくと、霧矢を呼ぶ声が下から聞こえてくる。
「霧矢、ご飯よ!」
ペンを放り投げると、待ってましたとばかりに霧矢は腰を上げる。先ほどから、空腹感が霧矢を苛み続けていた。
今日のおかずは何かなと思索を巡らせながら、霧矢は下の階へ降りて行った。
*
復調園調剤薬局のある浦沼温泉街から数キロほど離れた場所に、一軒の住宅がある。小学校の学区は異なるものの、中学校の学区は同じだ。木村文香はその家に住んでいた。
彼女の部屋自体は広いのだが、本があまりにも多いため、やや狭く感じられる。そして机の上にも本がタワーを作っている状態だった。
宿題や予習・復習はすでに終わっており、文香はすでに魔族の残した文献を読み始めていた。とりあえず、魔法薬調合法などという文献を見せられて「何もするな」などというのは、文香には絶対にできないことだった。すぐにでも読んで試してみたいという気分が彼女を支配していた。英語の文章を、辞書を引きながら自分で訳していく。
「…魔法薬の基本とは、その各々の物質に含まれる魔力要素を用いて、魔族の魔力から通常では起こりえない事象を身体にもたらすことである」
地上の物質には、原子や量子といった科学とは異なる、オカルト、魔術的な概念も持ち合わせている。科学的には、水は水素原子二つと酸素原子一つで構成される化合物だが、魔術的な概念としては、四大の一つ、すなわち世界を構成する要素の一つと定義されている。
そして、科学的な概念から切り離し、魔術的な概念として対象物を存在させるために必要なのが、魔族の魔力を充填することと書かれていた。
そこまで読み終わると、文香は自分のノートを取り出すと、簡単にまとめていく。とにかくメモをするというのが木村文香の特徴であり、ここ一か月ほどで、ノートは魔族関係のレポートが書けるほどの情報量になっていた。
自分で推論しながら、文香はさらに読み進めていく。いったん総論を理解してしまうと、後の文章を理解するのは非常に楽で、読み進めるスピードがどんどんと上がっていった。
熱中すると、時間はあっという間に過ぎていく。時計を見ると、日付が変わりかけていた。
(……これ以上やると、明日に響くな。残念だが…)
それでも諦めきれず、明日に備えて眠るべきという意見と、最後まで読み切ってしまえという意見が、脳内で激しい戦いを繰り広げている。
自分の葛藤にたまりかねた文香は、机の引き出しから十円玉を取り出す。
(表なら、続ける。裏なら、寝る)
指先でコインをはじくと、銅貨は放物線を描いて宙を舞う。そのまま、机の上に金属音を立てて、平等院鳳凰堂が上を向いた。
「続けるか」
分厚い本だが、残りは三分の一くらいだ。今夜で読み切ることは十分可能だろう。