10年も援助した後輩と不倫した妻!男を守るために私をナイフで刺しやがった!?
1.披露された妊娠
東都ベイサイドホテルの最上階にある宴会場は、シャンデリアの光が痛いほど眩しかった。その夜は藤堂ホールディングス主催のビジネス交流会で、自動車部品、貿易、インダストリアルデザイン関係の代表者が大勢集まっていた。黒瀬デザインも招待を受けていて、俺は地方出張から戻った足で、スーツを着替える間もなく会場へ駆けつけた。
だが、宴会場の扉を押し開けた瞬間、最初に目に飛び込んできたのは、わずかに膨らんだ腹を抱え、若い男の腕に手を添えながら取引先や各社の代表者たちの間を回る妻、桐生夏帆の姿だった。その男は瀬川悠斗。俺が十年にわたり支援してきた、大学の後輩だった。夏帆はやわらかく笑い、声量を抑えながらも、周囲には十分届く声で言った。
「この子の父親が、最近、瀬川プランニングを立ち上げたんです。皆さま、どうか今後ともよろしくお願いいたします」
グラスが、俺の指先でかすかに震えた。十年前、夏帆は子どもを持たない生き方こそ自分たちらしい愛だと言った。子どもに縛られたくない、結婚を育児や家事にすり減らされるだけのものにしたくない、と。
その言葉を信じて、俺はパイプカットを受けた。術後の検査結果は一年ごとに一枚ずつ、今も書斎の引き出しにきちんと保管してある。
それなのに今、彼女はほかの男の子を身ごもり、俺が長年築いてきた商談の場で、その男のために人脈をつないでいる。
先に俺に気づいたのは悠斗だった。口元に薄い笑みを浮かべ、隠しきれない挑発を目に宿している。
「黒瀬先輩もいらしていたんですね。先輩も、育児費用を稼ぎに?」
夏帆が振り返った。その顔に取り乱した様子はなく、ただ一瞬、見られたことへの警戒が走った。
「蒼真、出張中じゃなかったの?」
俺は彼女の腹を見つめた。ここ半年、どうしても腑に落ちなかったことの答えが、その瞬間、一つにつながった。
黒瀬デザインの顧客は何度も横取りされ、こちらの見積もりはいつも一歩先に下をくぐられ、企画書を提出する前から相手会社が先回りしているような動きを見せていた。俺は自分の判断が甘かったのだと思い込み、寝る間も惜しんで穴を埋め、顧客を回り、計画を作り直してきた。
穴は、ずっと俺の隣にあったのだ。
周囲はすでに静まり返っていた。それでも夏帆は、何事もなかったように腹に手を添え、落ち着いた口調で続けた。
「悠斗はまだ社会に出たばかりなの。大学の先輩として、少し手を貸すくらい普通でしょう。あなたも苦労してここまで来た人なんだから、後輩に手を差し伸べる大切さくらい分かるはずよ」
「手を差し伸べる?」
俺はテーブルの上の赤ワインを取り、彼女にかける代わりに、その足元の絨毯へ静かに流した。深い赤がすぐに染み広がり、裂けた傷口のように見えた。
「妊娠するところまで面倒を見るのも、先輩の役目なのか?」
空気が凍りついた。夏帆の顔色が一瞬白くなり、悠斗がすぐに彼女の前へ出た。その立ち位置は巧妙だった。妊婦を守っているようにも、俺を全員の視線の前に押し出しているようにも見えた。
「黒瀬先輩、言いたいことがあるなら僕に言ってください。夏帆さんは妊娠中なんです。これ以上傷つけるようなことはやめてください」
その言い方はうまかった。表向きは夏帆をかばっている。だが実際には、俺を感情的で、妊婦を追い詰める夫に見せる言葉だった。交流会に来ているのは企業の責任者ばかりで、他人の家庭問題に踏み込みたがる者はいない。それでも俺を見る目は、すでに変わっていた。
「黒瀬さん、あなたにそんな一面があったとはね」
悠斗は目を伏せ、ずっと耐えてきたような声を作った。
「皆さんは先輩のことをよく知らないんです。僕は後輩だから分かります。先輩は外に何人も女性がいて、夏帆さんはずっと傷ついてきました。ただ、誰にも言わなかっただけで」
夏帆はうつむき、指先で目元をそっと押さえた。
「高校のころから一緒だったの。十五年の付き合いが、こんなふうになるなんて、私だって思わなかった」
二人は息を合わせるように言葉を重ね、数分もしないうちに、俺を不倫し、妻に暴力を振るう夫に仕立て上げた。俺は目の前の、見慣れているはずなのにひどく知らない顔を見つめた。胸の奥にあった怒りが少しずつ沈み、最後には冷たい醒めた感覚だけが残った。
「瀬川悠斗。お前は中学のころから黒瀬家の奨学金を受けていた。高校、大学、生活費、住居補助、卒業後の最初のインターン先まで、俺が手配した」
悠斗の顔色が変わった。俺はスマートフォンを取り出し、これまでの振込記録、奨学金申請書、推薦状の写しを、一つずつ周囲に見せた。彼の自尊心を守るために、あえて誰にも話さなかった記録。それが今、全員の前に並べられていた。
「今まで、お前の面子を考えて外では一度も言わなかった。だが、俺が与えた体面を使って俺を噛むなら、もう隠してやる理由はない」
周囲の視線が再び変わった。悠斗はグラスを握りしめ、柔和な表情を保てなくなりつつあった。夏帆はすぐに彼の腕を支えた。
「悠斗の家庭環境は、彼のせいじゃない。蒼真、話をそらさないで」
彼女は手首を持ち上げ、腕の青あざを見せた。その痕には見覚えがあった。半月ほど前、浴室で滑って転んだ彼女を俺が抱き起こしたとき、腹を打たなくてよかったと笑っていた、あのときのものだ。今、その青あざは俺を告発する証拠に変えられていた。
「本当に私を苦しめたのは、あなたよ。あなたが子どもを持てない体になったことで、十年もその苛立ちを私にぶつけてきた。悠斗がいなかったら、私はもう耐えられなかった」
何人かの女性経営者が眉をひそめた。俺を見る目は、完全に冷たくなっていた。主催者側のスタッフが近づき、丁寧な口調の奥に退出を促す硬さをにじませた。
「黒瀬様、本日は大切なお客様もいらっしゃいます。恐れ入りますが、いったんご退席いただけますか」
宴会場から出されたとき、外ではちょうど激しい雨が降り出していた。スマートフォンが震える。悠斗からのメッセージだった。雨粒が画面を叩く中、その文字だけはいやにはっきり見えた。
【夏帆さんって本当にすごいですね。僕の子を産んでくれるだけじゃなく、新会社のために二件も大きな契約を取ってくれました。黒瀬先輩、僕をこの世界に入れてくださってありがとうございます。一生の恩人です】
俺はその文面を見つめ、なぜか笑っていた。
2.十五年の結婚
俺と夏帆の付き合いは長い。高校時代、俺たちは互いを競争相手のように見ていた。彼女は成績がよく、気が強く、何事にも負けず嫌いだった。俺も彼女にだけは譲りたくなくて、模試の順位表ではいつも名前が近くに並んでいた。
大学を卒業してから、俺たちは一緒に黒瀬デザインを立ち上げた。俺は顧客対応、企画、外部提携を担当し、彼女は社内管理と財務を担った。一番苦しかった時期には、事務所の折りたたみベッドで並んで仮眠を取り、午前三時にコンビニのおにぎりを食べたこともある。あのころは誰もが、俺たちは似合いの夫婦だと言っていた。
やがて夏帆が、子どもを持たない人生を望んだ。俺は迷った。けれど彼女は、終身契約でも交わすような目で俺を見た。
「私は、あなたと二人で生きていきたいの。子どもが必要なんじゃない。あなたがいればいい」
俺はその言葉を信じた。医師から、手術後も定期的な検査が必要で、再建手術を受けても必ず元に戻るわけではないと説明されても、俺は同意書にサインした。信じた言葉が、いつか誰かに笑われる刃になるとは思いもしなかった。
家へ戻ったとき、俺は全身ずぶ濡れだった。港区の高級マンションは結婚後に買ったもので、床から天井までの窓越しに東都湾の夜景が見える。けれどその夜、室内はモデルルームのように冷え切っていた。夏帆は一晩帰らず、俺は書斎で、点いては消えるスマートフォンの画面と雨音だけを見つめていた。
この半年、彼女は地方事業の開拓を理由に、何度も俺を出張へ行かせた。悠斗もまた、新会社を立ち上げたばかりで経験がないからという口実で、たびたび彼女を訪ねていた。違和感がなかったわけではない。ただ、十五年という時間が重すぎて、俺は彼女のために言い訳を探し、真実を認めようとしなかった。
卒業後、俺は悠斗を自宅に住まわせたわけではない。会社の借り上げ社宅を手配し、黒瀬デザインのインターン先として受け入れた。だが夏帆は、起業計画の相談に乗るという名目で、何度も彼を自分たちのマンションに招き入れた。最初は、家庭環境に苦しんできた後輩を気遣っているだけだと思っていた。今になって分かる。あの扉を開けたのは、彼女自身だった。
翌朝、会社に着くと、数人の部門責任者に囲まれた。藤堂ホールディングスの新規案件は、今年最も重要なプロジェクトだった。これを取れれば、黒瀬デザインの資金繰りは一年分安定する。会議の途中、夏帆が入ってきた。薄い色のニットワンピースが腹の丸みを包み、社内の者たちは一斉に目を伏せた。
「みんな、席を外して。蒼真と二人で話があるの」
会議室にはすぐに二人だけが残った。彼女は俺の向かいに座り、何かの業務を割り振るような口調で告げた。
「藤堂ホールディングスの案件、悠斗の会社が取れるように、あなたがサポートして」
俺は彼女を見た。
「君の不倫相手の会社で、俺に下働きをしろと?」
夏帆は眉を寄せた。
「そんな言い方しないで。悠斗は私たちの大学の後輩よ。起業したばかりで、ここまで来るのだって大変だったの」
「彼の苦労は、俺の責任じゃない」
彼女の目が冷たくなった。
「蒼真、昔のあなたはそんな人じゃなかった。奨学金で進学して、一人で卒業まで頑張るのがどれほど大変か、あなたなら分かるでしょう。どうして少しくらい思いやれないの?」
笑うしかなかった。俺は悠斗の学費を支え、住まいを紹介し、仕事の機会まで与えた。その結果、俺のほうが思いやりのない人間にされている。
夏帆のスマートフォンが鳴った。彼女が出ると、受話口から悠斗の情けない声が漏れた。
「夏帆さん、黒瀬さんが手伝ってくれないなら、もういいんです。僕が徹夜して企画書と見積もりを作ります」
夏帆の表情は一瞬でやわらいだ。彼女は背を向け、しばらく低い声で彼をなだめ続けた。電話を切ったあと、俺を見る目には失望だけが残っていた。
「私、あなたのことを見誤っていたのね」
会議室の扉が閉まった。俺はその場に座ったまま、廊下で社員たちが足音を殺しているのを聞いた。去っていく人は、突然去るわけではない。ただ俺が、気づくのが遅すぎただけだ。
3.家の中の刃
その夜、仕事で遅くなってから家へ戻った。鍵を差し込んだ瞬間、客間のほうから悠斗の甘ったるい声が聞こえた。俺は玄関で立ち止まり、指先に力がこもるのを感じた。
「夏帆さん、どうしてそんなに優しいんですか。僕、もうあなたがいないと駄目です」
夏帆がかすかに笑った。
「やめて。子どもに触ったら困るでしょう」
二人は、俺がすでに東都に戻っていることも、いつ帰ってくるか分からないことも知っていた。それでも少しも隠そうとしなかった。俺が出張のたびに、この部屋で何が起きていたのか、もう聞く必要もなかった。客間の灯りは不自然なほどやわらかく、悠斗はソファに座り、シャツのボタンを緩めていた。夏帆はその隣に寄り添い、笑みを引っ込める暇もなくこちらを見た。
その瞬間、抑えていたものが切れた。俺は駆け寄り、悠斗の顔を一度殴った。彼は絨毯の上に倒れ、口元を押さえながら、すぐに涙を浮かべた。
「黒瀬さん、僕が何をしたんですか。どうしてこんなことをするんです?」
俺の家で、俺の目の前で、妻と絡み合っておきながら、まだそんな言葉が出るのか。俺が一歩踏み出すと、夏帆がソファから立ち上がり、悠斗の前に立ちはだかった。その姿勢は、どんな言葉よりも深く俺を刺した。
「やめて! 蒼真、あなた正気なの?」
「君が彼をこの部屋に入れたとき、俺が夫だということを少しでも思い出したか?」
夏帆の目に一瞬だけ動揺が走り、すぐに怒りが上書きした。
「今のあなたを見ていると、怖いだけよ」
彼女はキッチンへ駆け込んだ。逃げたのだと思った。だが次の瞬間、銀色の光が視界を横切り、脇腹に鋭い痛みが走った。果物ナイフが刺さったのだと分かったのは、温かい血がシャツの下を伝い始めてからだった。
夏帆は手を放し、顔色を失った。
「蒼真……違うの。わざとじゃない」
俺は傷口を見下ろしながら、昔の彼女の声を思い出していた。会社を立ち上げたばかりのころ、ある顧客が代金を支払わず、俺が催促に行ったとき、相手は興奮してカッターを振り回した。夏帆は俺の腕をつかんで階段まで走り、俺よりも震えていた。
「こんな相手とまともにぶつからないで。お金はまた稼げる。あなたに何かあったら意味がない」
同じ人間だった。
同じ刃だった。
ただ今回は、その切っ先が俺に向いていた。
悠斗はその隙に彼女の背後へ隠れ、震える声を出した。
「夏帆さん、黒瀬さんは本気で僕を殺そうとしていました。あなたが止めてくれなかったら、僕はどうなっていたか」
夏帆の表情が少しずつ変わっていった。彼女は俺を見る目を、罪悪感から警戒へと変えた。俺は傷口を押さえたまま、もう説明する力も残っていなかった。
「蒼真、法律というものを知らないの? あなたは今、悠斗を大怪我させるところだったのよ」
彼女はもう俺を見なかった。悠斗を支え、上着を取り、急ぐように玄関へ向かった。
「怖かったでしょう。すぐ病院へ行こう」
扉が閉まると、部屋には血が床へ落ちる音だけが残った。俺は壁にもたれ、119番に電話した。
4.切り取られた真実
夜間救急の灯りは、目に痛いほど白かった。医師は俺の傷を七針縫い、警察へ連絡するかどうか確認した。俺は救急室で感情的な判断をするのを避け、看護師に手順どおり警察へ連絡してもらい、自分では診断書、傷の写真、救急記録を残した。
翌日、弁護士に付き添われて警察署へ行った。被害届を提出し、家の共有スペースに設置してある防犯カメラの保存状況も説明した。そのカメラは五年前、マンションに空き巣が入ったあと、俺と夏帆が同意して設置したものだ。玄関、リビング、書斎を映すが、寝室や浴室は映らない。
警察は聴取のあと、プライバシーに関わる映像を勝手に公開しないよう念を押した。もちろん、俺にそのつもりはなかった。傷そのものよりも、「家族」という言葉のほうが胸に痛かった。
経過観察で入院して五日目、杉原麻衣が病院へ来た。彼女は俺の秘書で、普段は冷静に仕事をこなす人間だ。だがその日は、病室のそばに立ったまま、何度も言いかけては黙った。
「黒瀬さん、ネットで騒ぎになっています」
彼女はタブレットを差し出した。画面に映っていたのは、切り取られた動画だった。映っているのは俺が悠斗を殴る場面だけで、夏帆がナイフで刺した場面も、二人が俺の家にいた前後の流れもなかった。コメント欄はほぼ一方的だった。暴力夫、嫉妬に狂った男、かわいそうな妊婦と若い起業家。数社の顧客はすでに会社へ連絡し、取引を一時停止したいと言ってきていた。
その動画を見終えたとき、俺の心は不思議なくらい静かだった。スマートフォンが鳴る。受話口から聞こえた夏帆の声は、他人のように冷たかった。
「動画は、あなたへの罰よ。悠斗に公開で謝るなら、こちらで削除させるわ」
「謝るべきなのは俺じゃない」
電話の向こうが、数秒黙った。
「蒼真、私を追い詰めないで。藤堂の案件は、悠斗に取らせる。あなたにはもう逃げ道はないの」
通話が終わると、病室には機器のかすかな音だけが残った。俺は診断書、傷の写真、救急記録、警察署での受理記録をすべて弁護士に送り、杉原には自宅の防犯カメラのバックアップを技術担当に保全させるよう頼んだ。
カメラは、誰かの味方をするわけではない。
ただ、起きたことをそのまま記録しているだけだ。
5.藤堂ホールディングスの会議室
傷が完全に癒える前に、俺は退院した。午後三時、杉原とプロジェクトチームを連れて藤堂ホールディングスへ向かった。藤堂宗一郎は業界でも慎重な経営者として知られている。この案件が取れるかどうかで、黒瀬デザインの今後一年の資金繰りが大きく変わる。
応接室には、夏帆と悠斗がすでにいた。悠斗は新しいスーツを着て、頬に小さなガーゼを貼り、傷つきながらも仕事に向き合う若い起業家のような顔をしていた。夏帆は俺を見ると、唇の端をわずかに上げた。
「蒼真、今日は来ても無駄よ」
藤堂社長が入ってくると、夏帆はすぐ立ち上がった。
「誰かが業界のルールを守らず、私たちが苦労して準備した案を持ち出すのが心配です。藤堂社長、先に悠斗から説明させていただけませんか」
藤堂社長は俺を一度見たが、すぐには答えなかった。俺はうなずいた。
「どうぞ」
悠斗がスクリーンの前に立ち、説明を始めた。最初のページが表示された瞬間、俺の指先がわずかに止まった。それは、社内システムで「社外秘」として管理していた藤堂案件の最終案だった。見積書、サプライチェーンのルート、リスク予測、そして俺が意図的に間違えておいた小数点の位置まで、そのままだった。
夏帆は平然と座っていた。自分が勝ったと思っているのだ。悠斗は説明を終えると、藤堂社長に深々と頭を下げた。
「以上が、瀬川プランニングから御社へご提案する内容です」
会議室は静かだった。俺は一つのファイルボックスをテーブルに置いた。
「私が説明を始める前に、まずはこちらをご確認ください」
悠斗が小さく笑った。
「黒瀬さん、僕の案に負けたからといって、いきなり言いがかりですか?」
夏帆は誰よりも早く手を伸ばした。だが箱を開けた瞬間、顔色が変わった。中に入っていたのは親密な写真ではない。弁護士が整理した時系列、PCのログイン記録、ファイルコピーの履歴、防犯カメラの静止画、そしてわざと赤く囲んだ見積りミスの比較表だった。
藤堂社長は一番上の資料を取り、数ページめくってから表情を険しくした。
「これは、どういうことですか」
夏帆の指先が白くなった。
「ただの誤解です」
藤堂社長の秘書が前に出て、ファイルボックスを引き取った。悠斗の顔にも、ようやく焦りが浮かんだ。
「黒瀬さん、僕が藤堂の案件を取るのが悔しいだけでしょう」
俺はタブレットを開き、編集済みの防犯カメラ映像を再生した。映しているのは書斎とパソコン画面だけで、私生活に関わるものは一切含めていない。時刻、人物、ファイルをコピーする動作は、はっきり残っていた。
スピーカーから、夏帆の声が流れた。
「悠斗、見て。蒼真、やっぱりこのパソコンで藤堂向けの企画と見積りを作っていたわ。これをそのまま使えばいい」
続いて悠斗の声が聞こえた。
「夏帆さん、本当に頭がいいですね。黒瀬さんは、こういう企画書を作る能力だけは使えますから」
俺はそこで一時停止した。この先の内容は弁護士が封印しており、こんな場で流す必要はない。
会議室は、死んだように静まり返った。
6.反転
最初に崩れたのは悠斗だった。
「夏帆さん、書斎にはカメラなんてないって言っていましたよね?」
夏帆の顔色が青ざめたり赤くなったりした。
「ありえない。家の防犯カメラは私が一番分かっているわ。書斎にこんな角度はなかったはず」
俺は彼女を見た。
「五年前、防犯システムを更新したいと言ったのは君だ。リビング、玄関、書斎にはバックアップが残る。忘れたのは君で、俺じゃない」
彼女の瞳孔がわずかに開いた。俺は弁護士声明を杉原に送信させた。公開する内容は三つだけだった。一つ、夏帆と悠斗が俺の暴力映像を悪意を持って切り取ったこと。二つ、彼らが黒瀬デザインで「社外秘」として管理されていた企画書を持ち出したこと。三つ、俺が刺された診断書、警察への通報記録、被害届の受理状況。
私生活に関わる映像は、弁護士、警察、家庭裁判所に提出するだけで、公開はしない。
数分後、SNSの流れが変わり始めた。
黒瀬蒼真事件反転
瀬川プランニング企画書盗用
桐生夏帆悪意ある編集
それまで俺を罵っていたコメントは、新しい証拠に押し流された。謝罪する者、弁護士声明を拡散する者、瀬川プランニングの設立資金や顧客の出どころを疑う者。悠斗のスマートフォンが床に落ち、彼の体から力が抜けた。
「終わった……」
夏帆は勢いよく立ち上がり、俺を叩こうとしたが、杉原に止められた。彼女は目を赤くして、俺をにらんだ。
「蒼真、そこまでして私と悠斗を追い詰めたいの?」
俺は彼女の宙に止まった手を見た。
「俺を刺し、映像を切り取り、社外秘の企画書を盗み、顧客を奪ったのは、君たちだ」
彼女の呼吸が止まった。俺は藤堂社長に向き直り、正式な修正版の企画書を差し出した。
「藤堂社長、先ほど説明された案は、黒瀬デザインから持ち出された旧版です。正式な修正版と見積りは、こちらにございます」
藤堂社長はすぐには答えなかった。すべての資料を法務担当に渡し、夏帆と悠斗を見た。
「藤堂ホールディングスは、他社の企画書を不正に使用する会社とは取引しません。お二人は退室してください」
悠斗は立ち上がることもできなかった。床を這うように藤堂社長の足元へ近づき、裾をつかもうとして秘書に止められた。
「藤堂社長、もう一度だけチャンスをください。必ずやり遂げます」
藤堂社長の声は、少しも揺れなかった。
「見積書に、意図的に誤った小数点が五か所ありました。あなたは一つも気づかなかった。どうしてこの案件を任せられると思うのですか」
夏帆は目を閉じた。その瞬間、彼女はようやく悟ったのだろう。自分が守ってきた男は、彼女が望んだ未来を支えられる相手ではなかった。
二人が会議室から退出させられたあと、俺は新しい案を説明した。藤堂社長は最後まで真剣に聞き、資料を閉じた。
「黒瀬さんの案を採用する方向で、正式な契約手続きに入ります。私的なことについては何も言いません。ただ、関わる価値のない人間を経験したからといって、この先の人生までその人間に縛られる必要はありません」
俺は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます」
藤堂ホールディングスを出るころには、外はすっかり暗くなっていた。俺はロビーの大きな窓の前に立ち、長く胸を圧迫していた石が、少しだけ軽くなったように感じた。
7.離婚調停
夏帆は協議離婚に応じなかった。離婚届を破り、俺の前に投げ捨てた彼女の目には、狂気じみた怒りが宿っていた。
「私をこんな目に遭わせておいて、自分だけ抜け出せると思っているの? ふざけないで」
俺は床に散った紙片を見た。
「なら、家庭裁判所で調停だ」
彼女は腹に手を添え、冷たく笑った。
「妊娠中の私を相手に、調停まで起こすつもり? 世間に、妊婦を離婚に追い込む夫だと思われてもいいの?」
俺はそれ以上、言い争わなかった。弁護士に任せたあと、家を出て、会社近くのサービスアパートメントに移った。港区のマンションは、弁護士が関係資料を保全し、すべての鍵も改めて管理することになった。
黒瀬デザインの内部は、思ったより早く落ち着いた。弁護士声明と藤堂ホールディングスとの正式手続きが進んだことで、取引停止を申し出ていた顧客たちは次々に通知を撤回した。様子見をしていた数社からも、改めて新規案件を相談したいという連絡が杉原に入った。
だが夏帆は、数日おきに会社へ来て騒いだ。大きくなった腹を抱え、受付で声を荒らげる。
「この会社は、私と蒼真が一緒に作ったのよ。離婚するにしても、資金も案件も半分は私が持っていく権利があるわ」
社員たちは長い間、我慢していた。ある日、ついに杉原が会議室の前に立ち、彼女を止めた。
「桐生さん、夫婦の財産分与は、黒瀬さんとあなたの法律上の問題です。ただ、進行中の案件はプロジェクトチーム全員が残業を重ねて進めている会社の業務です。あなたの個人的な要求で、瀬川プランニングへ移せるものではありません」
夏帆は手を上げ、杉原の頬を叩いた。乾いた音が、オフィス全体を黙らせた。
「ただの秘書が口を出さないで。あなた、前から蒼真に近づく機会を狙っていたんでしょう」
警備員がすぐに二人の間へ入った。俺は会議室から出て、杉原に監視カメラの保存を指示し、もう一度手を上げようとする夏帆の手首をつかんだ。
「もうやめろ」
彼女は俺をにらんだ。
「彼女をかばうの?」
「これ以上、人を傷つけさせないだけだ」
彼女はひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「あなたの中では、彼女のほうが私よりきれいなの?」
俺は彼女の手を離した。
「俺たちの問題に、無関係な社員を巻き込むな。君は婚姻中に不倫し、悠斗の子を妊娠し、会社の社外秘の企画書を持ち出す手助けまでした。夏帆、君がしたことは、暴れたからといって消えない」
彼女の顔から血の気が引いた。俺は警備員に外へ出すよう頼んだ。その日から、弁護士は夫婦関係調整調停の申立てを正式に行い、不貞行為、傷害、名誉毀損、営業秘密の不正持ち出しに関する証拠も、調停と今後の慰謝料請求に備えて整理した。
夏帆は、しばらく姿を見せなくなった。
8.新しい取引相手
調停のあいだ、俺はほとんどの時間を会社に注いだ。藤堂ホールディングスの案件が動き出してから、窓口は藤堂宗一郎の娘、藤堂雪乃に代わった。思っていたより若かったが、軽さはまったくなかった。
初回の打ち合わせで、彼女は資料をリスク別に三つに分け、質問も細かく、仕入先の納期まで事前に整理していた。会議が終わると、彼女は俺の前にコーヒーを置いた。
「黒瀬さん、そんなに一人で張り詰めなくても大丈夫です。この案件は、一人で背負うものではありませんから」
俺は一瞬、言葉を失った。そんなふうに言われたのは、ずいぶん久しぶりだった。
あとで知ったことだが、雪乃もひどい恋愛を経験していた。相手は藤堂家の資源を利用してのし上がり、最後には彼女を深く傷つけた。彼女は二年ほど休養し、ようやく会社に戻ってきたのだという。
それでも彼女は、その過去を売り物にもしなければ、誰かを縛る道具にもしなかった。ただ、仕事をきちんとこなしていた。彼女を見て、俺はふと思った。傷ついた人間が、必ずしもその傷を他人へ向ける刃にするわけではないのだと。
数か月後、家庭裁判所での調停がようやく成立した。俺と夏帆は正式に離婚した。財産分与は、婚姻期間中の貢献、会社資産の帰属、双方の過失をもとに弁護士が整理し、彼女は一部の現金補償を受け取ったが、黒瀬デザインの顧客や履行中の案件を持ち出すことはできなかった。
瀬川プランニングのほうは、すでに持ちこたえられなくなっていた。企画書盗用の件は業界内に広がり、提携先は次々と契約を解除し、損害賠償を求めた。夏帆が前に立って守らなければ、悠斗は基本的な商談の説明すらまともにできなかった。
悠斗からは、何度かメッセージが来た。
俺は一度も返さなかった。
これ以上、たった一秒でも使う価値のない相手だった。
9.元妻
夏帆と再会したのは、あるプロジェクトの打ち上げのあとだった。その日は黒瀬デザインと藤堂チームのフェーズ確認が終わり、双方でホテルのレストランに集まった。食事のあと、雪乃が杉原と今後の予定を話しながらロビーへ出たところで、少し離れた場所に夏帆が立っているのが見えた。
彼女はかなり痩せていた。かつてあった誇り高く鋭い光は、何かに削り取られたようで、疲労と執着だけが残っていた。俺を見つけた瞬間、目に浮かんだわずかな光が、ひどく見知らぬものに感じられた。
「蒼真、話があるの」
雪乃が俺を見た。
「どなたですか?」
「元妻です」
夏帆の表情がわずかに揺れた。彼女は雪乃の前へ歩み寄り、声を尖らせた。
「どうしてあなたが彼の隣に立っているの? 私と蒼真は十五年一緒にいたのよ。あなたみたいな人が入り込める関係じゃない」
俺が口を開くより早く、横から一人の男が飛び出し、夏帆の頬を叩いた。杉原の夫だった。彼は目を赤くし、声を低く押し殺していた。
「これは、俺の妻を叩いた分だ。誰もが君のように、人の結婚を踏みにじって平気でいると思うな」
杉原は顔色を変え、すぐに夫を引き止めた。夏帆は頬を押さえ、俺を見た。
「蒼真、私が叩かれたのよ。あなたは黙って見ているの?」
俺は静かに彼女を見返した。
「俺たちはもう離婚している。言い方には気をつけてくれ」
彼女の目に、すぐに涙がにじんだ。
「高校のころから知っているのよ。十五年も一緒にいたのに、そんなに冷たくできるの?」
「君が裏切ったとき、十五年のことを思い出したか?」
彼女は口を開きかけ、何も言えなかった。俺は一歩近づき、できるだけ声を落とした。
「夏帆、もう来ないでくれ。俺たちは終わった」
彼女の手が腹に落ち、目に一瞬だけ光が戻った。
「子どもは助からなかった。悠斗も、私の前から消えたの。蒼真、もうあの人とは何の関係もない。これからは、また二人でやり直せない?」
俺は彼女を見つめた。胸にあったのは、想像していたような痛快さではない。ただ、疲れだけだった。
「俺は子どもが嫌いだったわけじゃない。君が子どもを持たないと決めたから、手術を受けたんだ。君がほかの男の子を身ごもったことだけが、許せない理由でもない」
彼女は固まった。
「俺が戻れないのは、君が何度も俺を傷つけて、そのたびに何もなかったことにしようとしたからだ」
雪乃が静かに俺のそばへ来た。腕を組むわけではない。ただ、少し近くに立った。
「黒瀬さんはもう独身です。誰がそばに立つかを、元妻が決めることではありません」
夏帆は雪乃をにらみ続けた。俺はもう立ち止まらなかった。
その夜以降も、夏帆は何度か会社へ来たが、そのたびに警備員に止められた。騒ぎになれば、弁護士が警察に連絡した。弁護士からは、来訪記録、防犯カメラ、通報記録をすべて整理し、必要であれば警察へ相談し、警告や禁止命令の手続きも視野に入れるよう言われた。
やがて、彼女は現れなくなった。
10.もう一度、始める
俺と雪乃が本当に付き合い始めたのは、半年後のことだった。夏帆を刺激するためでも、空いた場所を埋めるためでもない。ただ、ある残業の夜、彼女が温かいコーヒーを俺の机に置き、近くに新しい小さな店ができたらしいと笑った。彼女の目の下にある淡い疲れを見たとき、俺はふと、この世界が差し出した温度を拒み続けたくないと思った。
初めて二人で食事をした日、俺は先に話した。
「俺はひどい結婚を経験しました。パイプカットも受けています。これから子どもを持てるかどうかは、俺だけで決められることではありません」
雪乃はスプーンでコーヒーを静かにかき混ぜた。
「子どもが結婚のすべてではありません。正直に話してくださるだけで、十分です」
彼女を見ていると、長いあいだ動かなかった心のどこかが、少しだけほどけるのを感じた。俺たちは少しずつ付き合い始めた。彼女は俺が最も疲れた顔をしているときも、過去の傷で急に黙り込むときも、無理に忘れろとは言わなかった。ただ、一日ずつ日常を整えてくれた。
一年後、俺は詳しい検査を受け、治療や再建手術の可能性についても相談した。医師は絶対の約束はできないと言った。それでも雪乃は俺の手を握った。
「結果だけが大切なんじゃありません。まず、今の生活を大事にしましょう」
さらにしばらくして、検査結果に新しい可能性が見えた。雪乃が妊娠した日、俺は病院の廊下で長いあいだ座っていた。嬉しくなかったのではない。失ったと思っていたものが戻ってくる感覚があまりに軽く、声を出したら壊れてしまいそうだった。雪乃は隣に座り、そっと肩に触れた。
「黒瀬さん、そろそろ笑ってもいいですよ」
俺はようやく笑った。
結婚式は派手なものにはしなかった。親族、同僚、数人の取引先だけを招いた。藤堂社長は式場の席から厳しい顔で見ていたが、雪乃が俺の腕に手を添えて通り過ぎると、ほんの少しだけうなずいた。杉原とプロジェクトチームの面々は、誰よりも楽しそうに笑っていた。
式が終わったあと、差出人のないメールが一通届いた。本文は一行だけだった。
【蒼真、ごめんなさい】
俺は返信もしなければ、削除もしなかった。過去は、たった一言の謝罪で消えるものではない。けれど、もう彼女を憎むことで、自分が幸せであることを証明する必要もなかった。
あとで聞いた話では、夏帆は家族に付き添われ、精神科で治療を受けているらしい。もう会社にも、俺の生活にも現れなかった。悠斗は企画書盗用と複数の賠償で業界にいられなくなった。別の人脈に取り入ろうとして揉め、弁護士を通じて責任を追及されたとも聞いた。
そんな話を耳にしても、もう心は大きく揺れなかった。俺はかつて悠斗を支援したことを後悔したし、夏帆のために多くの可能性を手放したことも悔やんだ。けれど人生は、後悔だけを見つめ続けるためにあるわけではない。
風は前へ吹く。人も、前へ進むしかない。
雪乃が出産した日、東都には薄い雪が降っていた。俺は病室の窓辺で子どもを抱き、空が少しずつ明るくなっていくのを見ていた。あのころの惨めさも、痛みも、裏切りも、ようやく止んだ長雨のように、遠い場所へ置いてこられた気がした。
腕の中の小さな命を見下ろしながら、俺の胸には一つの思いだけが残った。
もう二度と、他人の過ちの代償を俺が払うことはない。
――完――




