断頭台へ送られた令嬢、二度目の婚約式では笑顔で欠席します
二度目の婚約式の朝、私は鏡の前で微笑んでいた。
よし。顔色は悪くない。目の下の隈も粉で隠れた。髪も侍女のミラが意地でまとめてくれたので、後ろ姿だけなら明日処刑される女には見えない。いや、明日処刑される予定はないのだけれど、一度経験があるとどうにも物騒な基準で身支度を測ってしまう。
前回の私は、この婚約式に出席した。
白い絹のドレスを着て、王太子レオナルド殿下の隣に立ち、参列者の前で婚約誓約書へ署名するはずだった。そこで殿下は私の手を取る代わりに、震える男爵令嬢セシリアを抱き寄せ、私が彼女に毒を盛り、階段から突き落とし、王家の印章を盗んだと告げた。
証人は三人。証拠は銀の小瓶と、私の筆跡に似せた手紙と、王宮薬室の出入り記録。
私は身に覚えがないと訴えた。父の領地から来ていた家令は会場から追い出され、侍女は口を塞がれ、私の声だけが礼拝堂の高い天井へ虚しく吸われていった。
そして三日後、私は断頭台へ送られた。
思い出すと首の後ろが冷える。実際に刃が落ちた瞬間の痛みは覚えていない。覚えているのは、板の木目と、群衆のざわめきと、最後まで私を見なかった婚約者の横顔だ。あの人、最後くらい目を合わせてもよかったのでは。まあ合わせられても困るが。
「お嬢様、本当にこのままでよろしいのですか」
ミラが銀盆に封書を載せて、私の背後に立った。
「ええ。婚約式には欠席いたします」
「欠席理由は、神殿契約局への照会のため。体調不良とは書かないのですね」
「体調は悪くありませんもの。少なくとも首は繋がっていますし」
ミラの眉がびくりと動いた。
しまった。今の冗談は身内向けとしても質が悪かった。二周目の記憶を持っているのは私だけで、ミラにとって私は今朝から少し落ち着きすぎている主人にすぎない。
「ごめんなさい。忘れて」
「忘れません。ですが、書類はお預かりします」
頼もしい。前回、彼女は私を庇おうとして王宮兵に床へ押さえつけられた。あの時の悔しそうな顔を思い出すだけで、胸の奥が静かに熱くなる。今回はあの子を床に這わせない。父の家名も、私の命も、誰かの涙の演出に使わせない。
机の上には三通の封書を置いてある。
一通目は王宮典礼官宛ての欠席届。
二通目は神殿契約局宛ての婚約誓約書照会願い。
三通目は王都巡察庁のアルヴィン卿宛ての証拠保全申請。
アルヴィン卿は辺境伯家の次男で、王都の貴族犯罪を扱う巡察官だ。前回は断頭台の前夜、牢番から彼の名前を聞いた。証拠の出所に疑義があると申し立てたが、王太子の裁可が早すぎて間に合わなかったらしい。間に合わなかった人を恨むほど、私はまだ余裕がない。だが今回は間に合わせる。
「馬車は?」
「裏門に。お嬢様は神殿契約局へ向かわれます。礼拝堂へは参りません」
「完璧ね」
私は署名済みの欠席届を銀盆に置いた。
婚約式に欠席する令嬢など、社交界では相当な変わり者である。王太子の婚約者ならなおさらだ。けれど前回の私は、きちんと出席し、きちんと殺された。礼儀作法で命が守れないことは学習済みである。
ならば今日は笑顔で欠席する。
何しろ私は忙しい。自分の冤罪を、先回りして潰さなくてはならないのだから。
王宮礼拝堂では、鐘が三度鳴る頃にざわめきが広がったらしい。
らしい、というのは私はその場にいなかったからである。神殿契約局の石造りの小部屋で、温い薬草茶を飲みながら待っていた。礼拝堂から走ってきた使者が、息を切らして扉を叩いた時も、私は膝の上の手袋の皺を伸ばしていた。
「エリーナ・ベルフォード侯爵令嬢はどちらに! 婚約式が始められません!」
「こちらにおります」
私が返事をすると、使者は目をむいた。
「なぜ礼拝堂にお越しにならないのですか! 殿下がお待ちです!」
「欠席届は典礼官へ提出済みです。婚約誓約書に不備の疑いがありましたので、本日は神殿契約局へ照会に参りました」
「不備など聞いておりません!」
「ええ。私も昨夜まで存じませんでした」
正確には前回の処刑直前まで知らなかった。王太子側が用意した婚約誓約書には、ベルフォード侯爵家から王家へ移る持参領の管理権について、父の署名欄が空白のまま綴じられていた。私が婚約式で署名すれば、父の承認を待たずに王宮側が領地収益へ手を出せる。ついでに私を罪人にすれば、持参領は賠償名目で凍結される。
なるほどなあ。
初回の私は恋愛沙汰の断罪劇だと思って死んだが、死んだ後に振り返ると、どう見ても領地と金の話だった。色恋だけで断頭台を用意するほど王宮も暇とは思えない。嫌な賢さである。
「レオナルド殿下は大変お怒りです。今すぐ礼拝堂へ」
「私は照会が終わるまで署名できません。婚約式の進行は、殿下と典礼官でご判断くださいませ」
我ながら穏やかな声だった。
使者は何か言い返そうとしたが、契約局の老書記官が硝子の眼鏡越しにじろりと見たため、口を閉じた。神殿契約局は地味だが強い。王族の恋愛にも貴族の見栄にも興味がなく、羊皮紙の署名欄と封蝋だけを淡々と見る。私は今、その地味さを心から愛している。
半刻後、礼拝堂から二人目の使者が来た。
「殿下よりご命令です。エリーナ様はセシリア嬢への害意について弁明するため、直ちに公の場へ出頭せよと」
来た。
前回の断罪が、主役不在のまま始まったらしい。すごい。私がいなくてもやる気だったのか。舞台度胸だけは見習うべきかもしれない。
「害意とは何の件でしょう」
「毒物の小瓶と脅迫状が見つかったと」
「どこから?」
「礼拝堂の控室からです」
「私が本日一度も入っていない控室ですね」
使者の顔色が変わった。
そりゃそうだ。私が欠席している以上、控室から何か見つかっても、誰がそこへ置いたのかという話になる。前回は私がその部屋で身支度をしていたため、話が早かった。早すぎた。今回は遅くなっていただきたい。
扉の外から、低い声がした。
「その件は巡察庁が預かる」
黒い外套の男が、神殿兵を連れて入ってきた。背が高く、濃い灰色の髪を後ろで束ね、目元だけで相手を黙らせるような顔をしている。前回、間に合わなかった人。アルヴィン・グラント卿である。
彼は私に一礼した。礼儀として深すぎず、王太子の婚約者へ向けるには少し実務的な角度だった。その距離感がありがたい。今の私に、甘い慰めや派手な同情は重い。
「ベルフォード侯爵令嬢。証拠保全の申請を受理しました。あなたが礼拝堂の控室に入っていないことは、神殿契約局の受付記録と門衛の証言で確認済みです」
「ありがとうございます。では私は、礼拝堂へ参りません」
「その方がよいでしょう。あなたが出れば、相手はあなたの動揺を証拠の一部のように扱う」
ああ、この人は分かっている。
前回の私は泣いた。泣いて、首を横に振って、声を荒らげた。それをセシリアは怯えたふりで見上げ、レオナルド殿下は私の気性の激しさこそ罪の裏付けだと言った。女の涙は使い方を間違えると、簡単に縄になる。
「礼拝堂では今、殿下が参列者の前であなたの出頭を求めています。よろしければ、契約局の証言室から声だけを届けられます」
「便利ですのね」
「冤罪を作る者が便利なものを好むので、こちらも便利で対抗します」
少し笑いそうになった。こんな日に笑えるとは思わなかった。
礼拝堂の証言鐘が鳴ると、壁際の青い硝子板が淡く光った。向こうの声がこちらへ届き、こちらの声も典礼台へ届く仕組みらしい。低魔法と神殿技術の境目はよく知らないが、今日ほどありがたいと思ったことはない。
「エリーナ! 聞こえているなら答えろ! 君はセシリアに毒を盛ったのか!」
レオナルド殿下の声は、前回と同じだった。怒りと正義感と、ほんの少しの焦り。自分が物語の主人公だと信じている男の声である。
「殿下。私は本日、礼拝堂にも控室にも入っておりません。毒物が見つかったという控室の鍵は、どなたがお持ちでしたか」
沈黙。
おや。返事がない。
「典礼官に確認をお願いいたします。私の控室の鍵は昨日の時点で王宮侍従へ預けられていたはずです。私は欠席届と同時に、控室の使用辞退も提出しております」
「小賢しい真似を!」
小賢しい。処刑を一度経験した女が書類を揃えると小賢しいらしい。勉強になる。
「また、脅迫状についてですが、私の筆跡との照合は済んでおりますか。ベルフォード侯爵家の家令が保管する私文書と、王宮記録官立会いで比較をお願いいたします」
「君はセシリアを妬んでいた!」
「その点は否定しません」
礼拝堂側がざわめいた。
まあ、妬んではいた。婚約者が自分を放って男爵令嬢に花を贈り、夜会で彼女ばかりを踊りに誘えば、普通に腹は立つ。木像扱いされても困る。王太子妃教育で微笑み方は学んだが、心臓まで陶器になった覚えはない。
「ですが、妬みと毒物は別です。私の感情を裁くなら社交界で十分ですが、毒物を裁くなら証拠が必要ですわ」
今度は別の声が聞こえた。か細く震える声。セシリアだ。
「エリーナ様は、以前から私に冷たくて……私、怖くて……」
「セシリア様。あなたが階段から落ちた日の午後、私は神殿施療院におりました。記録は提出済みです」
「でも、あなたの侍女が」
「私の侍女ミラはその時、父の代理人と共に持参領の収支台帳を王宮会計院へ届けています。こちらも受付記録がございます」
前回は、この記録を持ち出す前に私の屋敷が封鎖された。今回は封鎖される前に全部出した。二周目の利点である。人生、やり直せるなら書類の複写から始めるべきだと思う。
青い硝子板の向こうで、アルヴィン卿の部下が次々と報告を読み上げた。
毒物の小瓶は王宮薬室の管理品で、昨夜、レオナルド殿下付きの侍従が持ち出していたこと。
脅迫状の紙はセシリアの実家がよく使う商会のものと一致したこと。
控室の鍵を最後に持っていたのは、セシリアの侍女だったこと。
そして婚約誓約書には、ベルフォード侯爵の承認を得ていない持参領管理条項が紛れ込んでいたこと。
礼拝堂のざわめきは、もう誰にも止められなかった。
「殿下。婚約式は中止です」
老書記官の声は静かだった。
「誓約書の不備、証拠捏造の疑い、婚約者への公的名誉毀損。神殿契約局は本件を王宮裁定会へ送付します」
「私は王太子だぞ!」
「はい。ですから記録に残します」
強い。神殿契約局、強い。私は一生寄付してもいい。
レオナルド殿下の声が遠ざかり、セシリアの泣き声が混じった。前回なら、その泣き声に参列者は同情した。今回は泣けば泣くほど、毒物の出所と鍵の管理について説明を求められる。涙は便利だが、帳簿と鍵には勝てない。
夕方、私は王宮裁定会の小広間で正式に婚約解消の告知を受けた。
参列者の多くがそのまま証人として残され、父の代理人と神殿書記官と巡察庁が並ぶ前で、ベルフォード侯爵家に対する嫌疑は撤回された。レオナルド殿下は王位継承審議のため謹慎。セシリアは偽証と証拠捏造教唆の疑いで実家預かり。取り巻きの若い貴族たちは、証言の署名を求められて青い顔をしていた。
私はその様子を、少し離れた席で見ていた。
すっきりしたかと聞かれると、正直よく分からない。首が繋がっている安堵の方が大きい。怒りはある。悔しさもある。けれど前回の断頭台で凍りついたものが、今日一日で急に溶けるほど人の心は単純にできていないらしい。
それでも、名前は戻った。
罪人ではなく、ベルフォード侯爵令嬢エリーナとして。
「お疲れでしょう」
アルヴィン卿が、裁定会の扉の外で待っていた。黒い手袋を外し、私へ封書を差し出す。
「こちらは巡察庁からの護衛証です。今夜、王宮に留まる必要はありません。侯爵家の別邸まで私の部下が送ります」
「助かります。ですが、そこまでしていただいてよろしいのですか」
「あなたは自分で証拠を揃え、自分で危険を避けた。私は職務として、その足場を崩されないようにしただけです」
その言い方が、少しだけ胸にしみた。
救われた、と言われるよりずっといい。私は確かに助けを借りたが、何もできずに運ばれたつもりもない。怖くて、必死で、手が震えて、それでも欠席届に署名した。その小さな一手を、彼は見落とさなかった。
「次に社交界へ出る時は、怖いでしょう」
「ええ。できればしばらく引きこもりたいです」
「それもよいと思います。ですが、出る時は正式な招待状をお送りします。王都巡察庁の後援する慈善夜会です。あなたを悪意ある噂の的にさせない席を用意できます」
「仕事が早いのですね」
「間に合わない後悔は、あまり気分がよくありませんから」
私は彼を見上げた。
前回、間に合わなかった人。今回、間に合わせてくれた人。けれど彼は、その功績を自分のものとして飾らない。ただ次の道を示し、歩くかどうかは私に預けている。
少しだけ、呼吸が楽になった。
「では、その夜会には欠席しない方向で考えます」
「それは光栄です」
アルヴィン卿が微かに笑った。
私は王宮の廊下を振り返らなかった。礼拝堂の鐘はもう鳴っていない。断頭台の木目も、群衆のざわめきも、まだ記憶の中から消えない。それでも今日は、自分の足で外へ出る。
二度目の婚約式は、笑顔で欠席した。
その欠席届一枚が、私の首と名誉と、これから先の未来を守った。
馬車の扉が閉まる直前、夜気が頬に触れた。冷たい。けれど、息ができる冷たさだった。
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