第47話 紫陽花の庭
古く崩れかけた木の天井に見覚えがある。
あの時と同じように、ゆっくり体を起こしてあたりを見渡した。
大きく開いた戸口からは陽光が差し、外では泉の水面が朝日を反射して揺らめいている。その輝きのほとりに立つ、黒髪の青年がふり向いた。
「マサキおはよう。気分はどう?」
その爽やかな笑顔を見た瞬間、僕は泣きそうになってしまった。胸から込み上げてくる想いは安堵感のはずなのに、苦しいほどに抑えきれない。
迫水先輩は急いで中へと駆け寄ってきて、笑顔を返せなかった僕を心配そうに見る。
「どっか痛い?」
「違います………先輩こそ、もう大丈夫なんですよね?」
「うん……。もう君に……怖い思いはさせないから」
迫水先輩は苦々しく、言葉を迷いながら言った。怖い思いという中に、後悔がどれだけ詰まっているのだろう。
でも僕にとって一番怖いのは、貴方がいなくなってしまうことだった。だから、もう十分だ。
「そうだ、堰根は……ここから去ったってことで、いいんですよね?」
「……ああ。もう二度と戻ってこない」
奴がどうなったか、察することくらいはできる。元々は都築の家のことなのに、子供たちのことや、堰根の始末まで、迫水先輩の手を汚してしまったのが本当に申し訳ない。
深く聞くことは避けたが、それでも彼の表情は固かった。
「とりあえず山を降りよう。歩ける?」
「大丈夫かと……」
僕は少し考えて言った。
「そうだ、手を貸してくれます?」
「もちろん」
これは手をつなぐための口実だ。多分一人でも立ち上がれる。
迫水先輩が差し伸べてくれた手を、ぐっと握りかえす。暖かな手に触れるのが、こんなに嬉しいことだとは。だから自然と、僕は今、人生で一番の笑顔になれていたと思う。
「先輩、いつも助けてくれてありがとう」
固かった顔を綻ばせて、彼が返事をしてくれる。
「こっちこそ、全部君のおかげ」
立ってすぐは足下がおぼつかなかったが、泉の周りを少し歩いたら慣れてきた。出発には問題なさそうだ。でも何か忘れてる気が――
「あっ!落としてる!?」
ポケットに重さがない。慌てて探っても金剛願は入っていなかった。落ちた時か、上がってきた時か、その前に堰根に盗まれたのか、思い当たるふしは山ほどある。どれでも見つかる気はまったくしない。
「何を落としたの?」
「短刀です。刀身は透明で、これくらいの……。けっこう値打ちのあるものらしく」
「泉の中に落ちたなら探せるかも」
迫水先輩は泉の縁に立ち、目を閉じて手をかざした。すると泉の中心から波紋が何重にも広がり、水面がざわつく。数十秒くらいだろうか、波紋が落ち着くと今度は中心が盛り上がり、キラリと光った。
水面から頭を出した小さな水龍、このサイズだと水蛇というべきか、その身体のキラキラの正体は、中に入っている金剛願だった。先輩が泉の前にしゃがんで腕を伸ばすと、水蛇はその腕に巻き付きながら、手元に金剛願を渡した。直後ぱしゃっと、ただの水に戻って腕から流れ落ちていく。
「……改めてみると本当に神様ですよね」
「自分でも全然現実感がないんだ。流石に泉限定の能力だと思うけど」
謎の多い泉だが、まずは家に帰ろう。 僕たちは改めて出発するのだった。
すぐ近くの廃村に降りる時は緊張したが、もうここは他の森と雰囲気は変わらなかった。靄はなく、空気も澄んでいる。
これで一気に気が緩んだのか、正直お腹がすいてしょうがないのを自覚してしまった。向こうに生えてる、丸くて茶色いキノコが美味しそうに見えるくらいだ。
「あれは毒キノコだから食べられない」
「な、」
そんなに顔に出ていたなんて、恥ずかしい。
「ははっ、お腹すいたね。家に何かあるといいんだけど。ほとんど空けてるから食べ物はあまり置いてないんだ。
ちなみに食べられるキノコもこの山には結構あって――」
帰り道、話題で地雷を踏みたくなかったのか、二人とも食べ物のことばかり話した。そのせいで、着く頃には空腹で痛いくらいだった。
黒い屋根の家にようやく戻って来れた。庭につけていたはずの葛西さんの車は無く、玄関には「後で迎えに来ます」と付箋の書き置きが貼ってあった。
先輩は玄関脇の工具箱から鍵をとりだして、中に入る。昼なので十分明るいが、先輩は廊下の明かりのスイッチを押した。でも電気はつかない。
「やっぱり停電してるか」
「水はどうですか?」
キッチンに移動して、先輩が手早く設備の確認をしているのを見守る。
「水道は大丈夫。ガスコンロはもう使えないんだった。まぁ薪で料理はできるから、なにか食べ物……」
シンクの下や戸棚は、ほとんど空っぽだが、一つは当たりがあったようだ。振り向いた先輩の手には、黄色いパッケージの袋麺が二つ。
「半年だ」
「?」
「賞味期限切れ半年のラーメン、食べる?」
「余裕で食べます」
「だよな」
「でもその前に体を洗って着替えたいです。水でも全然かまわないので」
「確かに。オレもそうしよう。火起こしの準備するから、先にいってきて。着替えは昔のオレの服をもってく」
「ありがとうございます!」
久しぶりの迫水家の風呂場だ。石鹸で体を丁寧に洗うと、いい匂いがする。ようやくあの穢れを落とせた気がする。
着替えは水色のワイシャツとベージュのスラックスだ。僕にも似合いそうな服でよかった。
「出ましたー」
「うん、ちょっと居間で待っててー」
入れ替わりで先輩が庭から戻って、お風呂へ向かった。庭には薪と焚き火台、五徳と四角いクッカー鍋が用意されている。
僕は居間の座布団に座った。目の前には停電で映らないテレビがある。今これの電源がついたら、八淵川の氾濫のニュースが流れているはずだ。黒い画面には僕の顔が映っている。お前は何をしているんだと、監視されているような後ろめたさ。
耐えきれず、震える手で電源を切っておいた携帯を取り出す。これがついたら情報が流れ込んでくる。この静かな時間は終わる。
電池切れであってほしいという、密かな期待をよそに携帯の電源はついた。怒涛の通知がなだれこむ。八淵川氾濫、水没という文字が見える。
その中に一件、メッセージアプリの通知があった。
「都築幹也:生きてる」
慌ててアプリを開き全文を探したが、この四文字のみだった。幹也さんは短文が基本とはいえ、こんな深刻な内容が四文字につまってること、人生でそう何回もあるだろうか。なんだかギャグ漫画みたいに肩の力が抜けて、一気に笑えてしまった。きっと今はこれでいいんだ。
僕はブルブル震え続ける携帯を柔らかな座布団において、日の当たる縁側に座った。
冷えた体を日向で温めながら、ぼーっと庭を眺めていると、迫水先輩も風呂から上がってきた。服装は紺と青のアウトドアスタイルだ。
「よし、やるか」
先輩は慣れた手つきであっというまに薪に火をつけ、鍋にお湯を沸かした。袋麺を入れると、醤油スープのいい香りが広がる。3分が待ち遠しい。少し硬めでもいい。丼に移したら、具なしラーメンの出来上がりだ。
「いただきます」
迫水家の縁側で、二人並んでラーメンを食べる。
熱々を我慢して食欲のままに啜ると、一口で濃い塩気が体に染み渡る。続けてスープと麺の旨みが広がり、念願の食べ物に体が喜んでいるのを感じる……が、夢中になるのはまだ早い。
迫水先輩の手が全然進んでない。
「……どうしました?」
「いや、気にしないで……ってのも無理か」
彼は不思議そうに手元を見つめている。
「何だろう、現実感がないって言うか……。オレはこんな普通にしてていいのかなって。君が昨日、命懸けで頑張ってくれるほど……オレはマサキに、何かしてあげられてたかなって」
「昔、溺れたところを助けてくれたじゃないですか」
「あんなの、誰でもそうするさ」
ふと考え直す。僕が頑張れた本当の理由は、きっと命の恩返しじゃない。
「うーん……危ない所を助けられたのもありますけど、一緒にお喋りして焼きそばをご馳走になって、それがすごく楽しかったんですよね」
「あれが?」
「あと学校で話したり、ニーちゃんのお世話を一緒にしたり。中学に入ってから毎日楽しかった。だから、こんなことで終わりにしたくなかった。それだけです」
「…………そっか」
なんてことはない理由なのだ。僕らの周りの状況が深刻過ぎただけで。だからなんでもなく伝えてみた。
「実は袋麺って食べるのはじめてです。しょっぱくて美味しい」
「そうなの?ふふ、濃いめに作って正解だった」
隣からラーメンをすする音が聞こえはじめた。
あっというまに丼は空になってしまった。片付ける前に食後の休み時間だ。ずっと眺めていられるほど、僕はこの庭が好きだ。
「紫陽花、すごく綺麗ですね」
庭の向こう側では、見ごろを迎えた紫陽花が、それは見事に咲き誇っていた。何十個もの青と紫の少しずつ色味の違う花が、生け垣のように、庭の端から端までを彩っている。
「婆ちゃんが植えてくれたんだ。梅雨でも少しは気が紛れるようにって……
余裕なんてなくても、ちゃんと見ておけばよかった。辛くても綺麗なものもあるって、もっと早く気づけたのに」
「素敵なお婆さんですよね。会ってきました」
「……なんか言ってた?」
「次は二人で来いって」
「うん。そうしようか」
迫水先輩が火の後始末をしているうちに、僕は食べ終わった食器を洗いに行った。作業が終わった頃、台所に戻ってきた先輩に声をかけられる。
「ここは車では来にくいし、ちょっと歩いて県道まで出よう。迎えの車も必ずそこを通るはずだ」
迫水家を出発した僕たちは、ぬかるんだ道に気をつけながら坂を下り、舗装された県道に出た。県道とはいえ一車線で幅は狭く、田んぼと草むらに囲まれた田舎道だ。市街方面に、屋根がついたバス停がある。
「ちょっと近所の人の様子を見てくる。マサキはそこで待っててくれる?」
と言って先輩は道の向こうへ走って行った。
僕は一人でバス停のベンチに座る。周囲には人も車も影がない。左右の田んぼには水が張られていて、稲の間は空の青を映している。見上げると、とんびが高く飛んでいった。のどかで、懐かしくて、きっと何十年も変わらない景色が穏やかに流れている。
迫水先輩は思ったより早く戻ってきた。行きの時より足取りはずっと重く、顔から笑顔が消えている。
……何も起きていないわけがないのだ。
隣に座った先輩は、暗く沈んだ面持ちで前を見ていた。無言の時間がしばし流れる。
僕は立ち上がり、先輩に向き合って言った。
「ここからは僕一人で大丈夫です。先輩は何も家まで来なくてもいいんですよ」
これ以上、悲しい事に直面して欲しくなかった。都築の屋敷に行ったら、事情を色々と知ったり、傷口を探られることになるだろう。
「そういうわけにはいかないさ。君も分かってるんだろう?」
「……でも」
「はは、行ったら地下室に閉じ込められて、ケジメつけられるのか?都築の人って怖い? 」
「みんな優しい人たちです……」
「……だろうね。だから行くよ」
遠くからエンジンの音がする。道の向こう、葛西さんの黒い車が、ゆっくりと近づいてくる。




