第42話 夕暮れの家
迫水さんの家はすぐに見えなくなった。提灯に照らされた一本道は、見た目は祭のようだが、音は静まり返っている。
風や虫、森の自然な音すら聞こえない。石畳に僕の足音がやけに響く。
あまり変わらない景色に心が緩んでいた。
その時、ほんのすぐ隣で何かが動いた。
「――!?」
影だ。子どもくらいの大きさの影としか言えない、黒い半透明な何か。頭はあるが、顔はない。腕らしきものはあるが、手は消えている。足は長いスカートの中、地面から生えてきたかのようだ。
ぎょっとして身構えるが、それは坂をすーっと下っていくだけで、僕に何かすることはなかった。
その先の道にも、影は何体かいたが、どれも僕に反応を示すことはなかった。
とても静かな道のりを進むと、目的地の村の灯が見えてきた。
昔歩いた時より随分と短い。僕が成長したから、ではなさそうだ。これも異変なのだろう。
村の入口から中を伺う。
石垣の痕跡しか残っていなかったような廃村は、瓦屋根の日本家屋が立ち並ぶ、山中に似つかわしくない立派な村に様変わりしていた。提灯や松明で明るく、やはり村は祭のようだった。
影は村の中にもたくさんいて、広場の櫓を囲んで輪になっていたり、建物の中でより合ったりしている。
彼らはやはり、幽霊なのだろうか。
死んだ後もここで昔の生活をループ再生しているのだろうか。
やはりこの廃村は墓場だった。
それにしても、何を楽しそうに祭っていたのだろうか?
あまりいい予感はしない。麓からすれば、邪悪な祭かもしれない。この村は呪いの生まれ故郷だ。
入口から見える範囲に堰根はいない。奴がいるのは泉なのか?泉へは一直線、今や村の真ん中と化した道をつっきっていくしかなさそうだった。
僕は金剛願を握りしめた。まだ霊力はこめていない。できれば影たちの正体を見破ってから使いたいが、危なくなったらすぐできるように構える。来るなら来い。
思い切って、正面から村に入る。
影たちは僕に気づく素振りもなく、祭を続けている。
いや、一人だけスーッと輪から外れ、僕の前に立った。僕よりも小さい背丈だ。子供だろうか?
その子は僕の前を少し進むと、そこで止まった。僕が追いかけてくるのを待っているようだった。
「君が道案内?」
頷きはしない。が、はじめて僕を認識している影なのは間違いない。
泉への道の途中には一際大きな屋敷があった。影は門に入ったので、僕も追いかける。数寄屋造りというのだろうか?他とは格式の違う佇まいだ。
灯籠が美しく水面を照らす、大きな池にかかる橋を渡る。屋敷の中、長い廊下も伝統的で格調高い和の造りだった。
案内された間の襖が、さっと開く。
その瞬間、まぶしさに目が眩んだ。急に時刻が夜から夕方に切り替わったのだ。
部屋には布団が一つ。向こうに見える燃えるような夕日と、真っ赤な紅葉の庭。
「綺麗だろう」
真ん中の布団から、老人の声がした。
まだ中には入らない。予感が正しければ、こいつは――
「堰根の中にいたのは、お前か?」
「ふふ、まだそんなことを言う。私はずっとこの山にいたとも。久がここを去ってもな」
同一人物なのは確かなようだ。しかし不思議と、土砂崩れの現場で遭遇した時のような邪悪さは感じなかった。
意を決して部屋に入り、布団の近くに立つ。この老人も半透明な影の体だが、元の顔を残していた。目はないが、眉弓と鼻と口の形は見て取れる。
その口がゆっくりと開いた。
「ようこそ、久の曾孫。名は?」
「マサキ」
「何と書く?」
「……正しい城」
「ふふ、傲慢な名だ」
「そっちこそ、傲慢にもこの村から麓を支配していたんじゃないのか?」
「ああ、その権利を継いできた」
「……そんな権利があるものか」
――できるというのは赦されているということだよ。
そんなわけがない。赦されないから、この村は滅びたじゃないか。
「この村は現代ではもうとっくに朽ち果てて、森に還ってるはずだ。なぜ今ここにある?これは何の祭?」
「八淵洞から湧き上がる恵みに感謝し、お供え物を流し落とす……祭の夜には新しい霊力が手に入る。今夜も楽しみにしていたんだがねぇ」
「…………」
いつでも使えるように金剛願を握る。こいつは人に危害を与える呪いだ。
「久と同じ、八淵洞に繋がる脈……三代継いでもほぼ減衰なく残るとは。羨ましい限りだ。
我々の始祖にもその力はあったのだがな。私の代ではもう、汲み上げるどころか悪性に蝕まれる有り様よ」
――異能は代を継ぐと弱くなる
葛西さんから聞いた原則を思い出す。
「もう異能じゃないなら、しがみついてないで、麓で普通に生きればよかったのに」
「久と同じことをいう。
降りたものもいる。だが大半は留まった。いまさら下の暮らしなど考えられんのでね」
「留まった結果が、この影の姿?」
「ああ。かつての儀式が久に封印された後、残る者のために私が作った術式だ。
朽ちる物質を離れ、存在を保存する停止の結界。顕現の時の霊力は、入ってくる者から通行料としてもらう。なに、お前にとっては大した量じゃないさ」
「そんなの、死んだのと同じだ……」
「我々がここに住みはじめたのは、異能が迫害されたからでもあるのだ。お前が思っているほど、事は一方的ではないのだよ」
だんだん僕の中には、怒りとは違う感情、虚しさや哀れみが湧いてきていた。
憎もうにも、この老人からは敵意を感じないのだ。むしろ真逆とも言える何かが、この部屋を静かに包んでいる。
「久はここで産まれ、天賦の能力に恵まれた。私は持てる術の全て、異能の誇りの全てを教えたが、あの子は去ってしまった……」
――私は『影響力』だよ。人間にはね、もともと流れに逆らう自由意志なんて殆ど無い。
この老人もまた、村の伝統の影響力の中にいたんだろう。
そして久城には逆らう力があった。
「そこの机の上の本を持っていってくれ。お前なら記された全てが使える」
「これは?」
部屋の隅の文机には、紐で綴じられた書物が一冊あった。
本、自分が影響力だと言った時の例え。
「私が残したい全てだ。この地に眠る真相、術式の奥義、異能のあり方の論理よ。
村から降りた者には何冊か持たせたが、久の子孫には届かなかったようだな」
「……それ、読んだら最後、体を乗っ取られる罠じゃないのか?」
「ふふ、あの堰根という異能はどこかで一冊を手に入れ、断片的に理解してくれたようだがね。私の意識が浮かび上がったのは、今夜この地が霊力に満ちていたからだろう」
「だから僕はのっとれないって?
なら、そんなもの……人生の全てみたいな本を、村を滅ぼした男の子孫になぜ渡す?」
「奇跡が見たい。私では足りなかった。久はやってくれなかった」
――久の術式は見事だったな……
最初に会った時の、美しい思い出を語るような響きと同じだった。
そうだ……この部屋を包んでいるのは、家を出ていった子供のアルバムを、大切に撫でるような寂しさだ。
もちろん、二人の仲違いの理由は普通の親子のような生ぬるいものじゃない。大勢の死の罪、先祖から継承した呪いが絡みつく破局だ。
それでも、あったんじゃないか。師匠と弟子の、父と子のような関係が。
久城の方がどうだったかを探る手がかりは残されていない。
僕は『久と同じ』と何度も言われた。
なら今の僕の気持ちだって、あの日の彼と同じかもしれない。
「僕も奇跡は起こさない」
「なぜ?」
「大切な人たちと一緒にいるのに、必要ないから」
噛みしめるような沈黙、そして
「…………やはり久と同じか」
「同じじゃない。その人ほど、あなたたちに優しくできないから」
僕は文机の本を手に取った。中身を開くことなく、金剛願の切先をそっと当てる。
これが、村を留めている術式の核であり、老人の本体であることは直感的に分かった。
透明な刀身に夕焼けのオレンジが反射する。この部屋だけが祭の夜ではなく、夕方で時間が止まっているのも、きっと――
「さよなら、先生」
夕陽に照らされた僕の姿もまた、その日の教え子と同じだったんだろうか。
本に剣を突き立てる。
強風が吹き抜け、いっせいに赤い葉が散る。
思わず閉じてしまった目を開くと、あたりは暗くなっていた。
元に戻った真夜中の森、その地面に散る前に、紅葉たちは忽然と消え失せた。
辺りに残ったのは、墓場のような、ひやりとした静けさだけ。
さて、異変はこれで収まった。
あと気がかりなのは、ひとつだけだ。
ふと見上げると、空には月が出ていた。
月明かりで、意外と周りの光景がよく見える。あたりを見回すと、探し物はすぐに見つかった。
枯れ木になった紅葉の根本、白い髪の男がよりかかり倒れている。
「…………!えっ、えっ!?」
起きた男は混乱して周囲を見渡している。髪や服に泥をつけた姿は、なんとも間抜けなものだ。土砂崩れ現場での邪悪さどころか、保健室での落ち着きすらない。
正直、どう扱っていいのか分からない。ここに来るまでは、体を乗っ取られた被害者かと思っていた。だが、さっきの話を信じるなら彼自身が異能者で、呪いの本を見つけて読んだ所までは自由意志だ。
廃村の影に完全に意識をのっとられていたのは、今夜だけだとしても、影響はその前から受けていたのだろうか?
迫水先輩だって意識が完全にのっとられてはいなくても、明らかに平常の状態ではなかった。
「ど、どこ!?」
僕の警戒をよそに、この狼狽っぷりだ。
なんだか疑うのが可哀想になってきた。
「えっと、上川の山の中です」
「かみかわ……?」
「うーん……僕のことわかりますか?」
「君……?この辺の人かな…?」
弱ったな。八淵にくる前から記憶がないのかも。保健の先生だったのは覚えてるのか?
「ええと、取りあえずここから離れましょう。立てますか?」
「あ、ありがとう」
下山は朝を待つとしても、地べたに座るよりは快適な所を探そう。
どうやら腰を抜かしているので、手を貸した。
――その手の平に痛みが走る。
「ええ、わざわざここまで来てくれるなんて。まだ天は私を見放していないようだ」
おそらく針。なんだ。何が塗られてる?
こんな狡い手を使うなんて、
いや、ひっかかる自分が……
急速に意識が落ちていく中、後悔だけが頭の中でぐるぐると巡る。
最後に目が捉えたのは、堰根のニタリと嗤う口と、形のいびつな歯だった。




